サッカー日誌 / 2014年10月22日


メルボルン・オリンピックの時代


小澤通宏さんの思い出話

第75回日本サッカー史研究会
(10月20日 JFAハウス会議室)

★終戦直後の重要な過渡期
 サッカー史研究会の10月例会に、小澤通宏さんに来ていただいた。
 小澤さんは1956年メルボルン・オリンピックに出場した戦後の名ディフェンダーである。今年(2014年度)、サッカー殿堂に掲額された。
 サッカー史研究会も、協会の殿堂委員会も、比較的最近の出来事や戦前の古い時代には目を向ける。しかし、その間をつないだ終戦直後の十数年は、日本のサッカーが大きく変わった非常に重要な時期であるのに見過ごされがちである。
 サッカー史研究会では、その時代を知る小澤さんの話を聞きたいと、かねてから思っていたのだが、広島にお住まいなので東京の研究会にお呼びする機会がなかった。
 今回、母校の筑波大(元東京教育大)のOB会、茗友蹴球クラブの「殿堂入り祝賀会」出席のため上京されたので、その機会に滞在を延ばして、無理をしていただいたわけである。

★幻のヘルシンキ大会代表
 太平洋戦争が終わった直後は、戦前、戦中にボールを蹴っていた人たちが復帰して日本代表チームを作っていた。選手の大半は関東と関西の大学OBで会社勤めだった。
 1951年第1回アジア競技大会(インド・ニューデリー)の代表選手は全員が戦前・戦中派である。
 下調べをしていて気が付いたのだが、日本蹴球(サッカー)協会は、その年の7月に、翌年の1952年ヘルシンキ・オリンピックの代表候補31人を発表している。
 主力はニューデリー・アジア大会に派遣された戦前・戦中派だが、それに10人の大学生を加えている。
 ヘルシンキには、JOC(日本オリンピック委員会)がサッカーを派遣しなかったので「幻の代表候補」に終わったのだが、学生10人を加えたのは、若手を育てて戦前と戦後の断絶を埋めるための努力だろう。

★県立宇都宮高の出身者
 1954年ワールドカップ・スイス大会予選と1954年第2回アジア競技大会(マニラ)の代表に少しずつ戦後派の大学生を加えていって、ほとんどが戦後派に切り替わったのが、1956年のメルボルン・オリンピックだった。
 小澤さんは、メルボルン大会のアジア予選(対韓国)から代表に選ばれた。
 日本でサッカーがあまり普及していない時代だったから、若手も大半は、東京、大阪、広島、静岡などの戦前からサッカーが盛んだった学校の出身者に限られていた。
 そのなかで小澤さんは県立宇都宮高校の出身である。同じ宇都宮高出身者からフォワードの岩淵功も選ばれている。攻めと守りのかなめが宇都宮高出身だったわけである。
 終戦直後の日本のサッカーは、どんな状況だったのだろうか? 栃木県も知られざる「サッカーどころ」だったのだろうか? この時代をもっと調べなければならないと思った。


小澤通宏さん(撮影・阿部博一)

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