サッカー日誌 / 2011年12月03日


日本のスポーツの未来を考える


ビバ記念講演会とパーティー
(11月23日 青山学院アイビーホール)

★今回はちょっと大掛かりに
 ビバ!サッカー研究会主催で、講演会とパーティーを開いた。
 毎年のように、この種のイベントを開いているが、今回はちょっと大掛かりになった。仲間たちが、ぼくのサッカー殿堂入りの記念行事としてやろうと張り切ってくれたためである。ビバ仲間だけでなく、大学時代のサッカー仲間などにも協力してもらった。
 本人の意向は、こうだった。
 お祭り騒ぎだけでなく、少しは世の中の役に立つ企画にしよう。パーティーでスピーチをしてもらっても、みんな酔っぱらって聞いていないのは失礼だから、挨拶なしで乾杯の音頭だけにしよう。集まって、話しあって、知り合うことを趣旨にしよう。
 というわけで、フォーマルな招待状は出さないで、主としてメールで連絡してもらった。そのために通知漏れもあっただろう。失礼した向きに、お詫び申しあげる。

★アルビレックス池田会長の講演
 「世の中の役に立つ企画」として、アルビレックス新潟の池田弘(いけだ・ひろむ)会長に講演をお願いした。池田会長は、スポーツだけでなく教育や医療・福祉などの仕事にも手を広げていて超多忙である。また新進気鋭の経営者として数多くの講演をしている。そういう人に来てもらうのは、ふつうでは、なかなか難しい。そこで「殿堂入り」を絶好の口実に使って、ご無理をお願いしたわけである。
 アルビレックス新潟には、ぼくも新潟県の出身者として、創設のときに、いささか、かかわっている。その後「新潟にプロを含むスポーツクラブを」というぼくの夢を、池田さんが着々と実行して大きく育てている。
 池田会長は、ビデオを織り交ぜて、アルビレックスの多方面にわたる活動ぶりを、軽妙な語り口で紹介した。

★地方都市のスポーツ振興
 アルビレックス新潟は、いろいろなスポーツを手掛けている。男子と女子のサッカー、男子と女子のバスケットボール、プロ野球独立リーグのチームが活動している。個人競技では、陸上競技、トライアスロン、冬のスキー、スノボーの選手も抱えている。サッカーはシンガポール・リーグにも進出している。そういう活動ぶりを紹介したパンフレットも配布した。地方都市で多種目のスポーツクラブを運営しているアイデアとバイタリティに多くの参加者は、びっくりしたようだった。
 池田さんのあと、ぼくも短い講演を付け足した。
 これからは中央集権から地方分散への時代である。地方の中小都市で、いろいろなスポーツを普及させて、そのネットワークで日本のスポーツを盛り上げよう。そういう趣旨の話である。こういう話、少しは、世の中のために役立つだろうか?


講演後、質問に答える池田会長(左)と牛木


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サッカー日誌 / 2011年12月02日


動乱の国から参加のシリアに辛勝


ロンドン五輪アジア最終予選C組

U-22 日本 2-1 シリア
(11月27日 東京・国立競技場)

★勝負は70日後のアウェーだ!
 ロンドン・オリンピック予選の日本対シリアは、スリリングだった。アウェーのシリアが積極的に攻めの試合を挑んできたからである。勝ち点6同士。C組のトップ争いである。
 前半終了間ぎわに日本が先取点をあげたが、後半30分にシリアが同点に追いつく。アウェーのシリアは引き分けでもいいところだから、1対1のまま守りきられたら日本の立場は苦しくなる。しかし残り10分を切ったところで日本が決勝点をあげて振り切った。辛勝ではあったが、この勝利は貴重である。
 次の試合は、翌年の2月5日、シリアでのアウェー戦だ。これが事実上、出場権をかけた決戦になる。
 シリアの攻撃力は、ホームでの試合では、さらに鋭さを増すだろう。日本は、ホームで勝っているからと言って有利とは言えない。

★個人技の鋭さはシリアが上
 日本はトップの大迫勇也の走りこみに合わせる縦の攻めと、すばやいパスを走りながら組み立てる横の攻めを織り交ぜていた。大迫も中盤のプレーヤーも対敵動作が巧いのに感心した。相手の守りが詰めてくると、ひらりとかわして裏を取って走り抜ける。ボール扱いのテクニックがすばやく、状況を見る目と判断力があり、アイデアがある。かつては日本のプレーヤーが不得意だった個人技である。
 しかし、相手のゴール前まで行っても、いいシュートが打てない。相手の体に当てたり、大きく外したりする。
 先取点はコーナーキックからのパターンを生かした濱田水輝のヘディング。決勝点は左サイドからの攻めこみから比嘉祐介があげたボールにファーサイドに飛びこんだ大津祐樹がヘッドで合わせたものだった。
 
★治安情勢不穏で次の試合が心配
 試合後の記者会見で、シリアのイマド・エッディン・ハンカン監督は「次の試合までに、治安が回復して、地元でいい試合をしたいものだ」と語った。
 シリアは「中東の火薬庫」といわれる地域にあって、国際的な紛争や国内での騒乱が絶えない国である。国内では1月以来、反政府デモとアサド政権の武力鎮圧が続いており、3500人以上が死亡したと伝えられている。日本との試合が行われた27日には、身内のはずのアラブ連盟が外相級会議でシリアに対する経済制裁を決めた。日本政府は日本人に渡航を控えるよう勧告している。そういう情勢不穏な国で、ちゃんと試合ができるかどうか。それも不安である。
 一方で、そういう中で代表チームを編成してきて意欲的な試合を見せたシリアのサッカー界には敬意を表し、アウェーの試合が平穏に行われて欲しいと思った。


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サッカー日誌 / 2011年12月01日


敗戦直後、東京のサッカー復興


片山洋さんと第一師範附属

日本サッカー史研究会11月例会
(11月21日 JFAハウス会議室)

★小学校に残っていた古ボール
 有志によるサッカー史研究会の11月例会で片山洋(かたやま・ひろし)さんを招いてお話を聞いた。片山さんは1960年代から70年代にかけて、慶応、三菱で活躍したディフェンダーで、1964年東京、1968年メキシコの両オリンピックの日本代表選手である。
 いろいろな、お話をしていただいたのだが、そのなかでも「ほほう」と思ったのは、片山さんが小学校でサッカーをはじめたころの事情である。
 片山さんは東京生まれで、日本が太平洋戦争で敗れて間もなく東京第一師範(現在の東京学芸大)附属小学校に入った。
 「小学校の体育準備室に、ぶくぶくに膨れた古いサッカーボールが、いくつもあって、休み時間には、それを持ち出して、みんなで蹴って遊んでいました。それが、ぼくとサッカーの関係の始まりです」という片山さんの話である。

★戦災を免れた校舎
 東京第一師範学校の旧名は青山師範である。この青山師範は大正時代に日本のサッカー普及の源となった学校の一つである。その附属小学校に、戦争中は使えなかったサッカーボールが残っていたのには不思議はない。
 でも、そのころ東京は、戦争中の米軍の大空襲で焼け野が原だったはずでする。「第一師範は焼けなかったのだろうか?」と疑問に思って聞いてみた。「焼けてはいませんでしたね」という答えだった。
 旧青山師範は港区の青山通りにあって、その場所は戦災で焼失したのだが、学校は戦前に世田谷区に移っていて、そこは幸運にも被災しなかったらしい。
 ところで、片山家一族は父親も親戚もみな慶応義塾出の慶応一家として知られている。慶應には小学校の「幼稚舎」がある。片山さんはなぜ幼稚舎に行かなかったのだろうか?

★慶応高で最初はラグビー部
 「敗戦直後の東京は交通機関もやられていて電車は大混雑でしたから、小学生が遠くへ通うのは無理だったのでしょう」。それで近くの名門小学校に入れられたようだ。
 そういう事情がなければ、サッカーの才能を隠れ持っている少年がサッカーに出会うことはなかったかもしれない。
 中学も同じ附属中学に進んだ。この間に、教生(教育実習の学生)として神戸出身の会田勝という人が来て、本格的にサッカーを指導してくれた。
 高校は一家の伝統に従って慶応に進み、父の命令でラグビー部に入らされた。しかし1週間でイヤになってサッカー部に入り直したという。
 敗戦直後、焦土の中からサッカーが復興した当時の様子の一端を知ることができて興味深いお話だった。


片山洋さん




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