サッカー日誌 / 2011年12月01日


敗戦直後、東京のサッカー復興


片山洋さんと第一師範附属

日本サッカー史研究会11月例会
(11月21日 JFAハウス会議室)

★小学校に残っていた古ボール
 有志によるサッカー史研究会の11月例会で片山洋(かたやま・ひろし)さんを招いてお話を聞いた。片山さんは1960年代から70年代にかけて、慶応、三菱で活躍したディフェンダーで、1964年東京、1968年メキシコの両オリンピックの日本代表選手である。
 いろいろな、お話をしていただいたのだが、そのなかでも「ほほう」と思ったのは、片山さんが小学校でサッカーをはじめたころの事情である。
 片山さんは東京生まれで、日本が太平洋戦争で敗れて間もなく東京第一師範(現在の東京学芸大)附属小学校に入った。
 「小学校の体育準備室に、ぶくぶくに膨れた古いサッカーボールが、いくつもあって、休み時間には、それを持ち出して、みんなで蹴って遊んでいました。それが、ぼくとサッカーの関係の始まりです」という片山さんの話である。

★戦災を免れた校舎
 東京第一師範学校の旧名は青山師範である。この青山師範は大正時代に日本のサッカー普及の源となった学校の一つである。その附属小学校に、戦争中は使えなかったサッカーボールが残っていたのには不思議はない。
 でも、そのころ東京は、戦争中の米軍の大空襲で焼け野が原だったはずでする。「第一師範は焼けなかったのだろうか?」と疑問に思って聞いてみた。「焼けてはいませんでしたね」という答えだった。
 旧青山師範は港区の青山通りにあって、その場所は戦災で焼失したのだが、学校は戦前に世田谷区に移っていて、そこは幸運にも被災しなかったらしい。
 ところで、片山家一族は父親も親戚もみな慶応義塾出の慶応一家として知られている。慶應には小学校の「幼稚舎」がある。片山さんはなぜ幼稚舎に行かなかったのだろうか?

★慶応高で最初はラグビー部
 「敗戦直後の東京は交通機関もやられていて電車は大混雑でしたから、小学生が遠くへ通うのは無理だったのでしょう」。それで近くの名門小学校に入れられたようだ。
 そういう事情がなければ、サッカーの才能を隠れ持っている少年がサッカーに出会うことはなかったかもしれない。
 中学も同じ附属中学に進んだ。この間に、教生(教育実習の学生)として神戸出身の会田勝という人が来て、本格的にサッカーを指導してくれた。
 高校は一家の伝統に従って慶応に進み、父の命令でラグビー部に入らされた。しかし1週間でイヤになってサッカー部に入り直したという。
 敗戦直後、焦土の中からサッカーが復興した当時の様子の一端を知ることができて興味深いお話だった。


片山洋さん




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« アウェーのバ... 動乱の国から... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.