サッカー日誌 / 2008年07月05日


高校選手権と民放テレビの真実


梅田明宏『スポーツ中継』(現代書館)を読んで(中)

★坂田信久さんの大きな仕事
 サッカーの高校選手権を日本テレビを中心とする民放グループで引き受けるようになったのは、プロデューサーだった坂田信久さんの大きな仕事だった。『スポーツ中継、知られざるテレビマンたちの矜持』は、この話に、かなりのページを割いている。
 高校サッカー選手権は、毎日新聞社主催で、戦前の中等学校大会から長年、関西で開かれていた大会である。それを1971年から日本テレビを中心とする民放テレビが引き受け、1976年に開催地を関西から首都圏に移した。これは、その当時のサッカー界では、いろいろ物議をかもした「事件」だった。
 著者の梅田明宏さんは、その間の秘話を坂田さんから詳しく取材しただけでなく、当時の関係者をしらみつぶしに訪ねて裏付けを取っている。だから書いてある事実に、ほとんど間違いはない。

★電通、TBSがからむ放映権獲得競争
 正月の高校サッカーのテレビ放映権をめぐって、1960年代の後半に日本テレビ、TBS、電通が絡んで複雑な動きがあった。それぞれ高校サッカーを将来有望なソフト(番組)とみて、権利獲得を争ったのである。
 そのころ、東京のテレビ各局は、全国各県の地方局を系列下に置いて全国的なネットワーク作りを急いでいた。高校サッカーは、各地で予選をし、それが全国大会に結びつく。民放テレビの全国ネット系列化には、うってつけのイベントだった。
 坂田さんは、いろいろな努力をして、日本サッカー協会や高校側に働きかけ、放映の権利を獲得した。そして、その中継の全国ネットワーク化に成功した。
 そういう背景があるから、高校サッカーの民放テレビによる全国中継はテレビの歴史の上でも重要な出来事だといえる。

★サッカー協会の窮状を救う
 実は日本サッカー協会にとっては、テレビ側の申し出は「渡りに舟」だった。
 高校選手権は、毎日新聞が長年にわたって関西で主催していたが、1965年度を最後に手を引いた。その後、サッカー協会が、財政面でも、運営面でも、非常に苦しい思いをしながら、独力で開催しなければならない破目になっていた。そのときに、民放テレビが争って引き受けたいと申し出てきたのである。民放テレビの動きが、サッカー協会の窮状を救ったわけである。
 この問題については、坂田さんとぼくが、研究会でいっしょに話をしたことがある。2007年6月29日、筑波大学附属高校の中塚義実先生が主宰している「サロン2002」の月例会のときである。「サロン2002」のホームページで、その記録を見ることができる。関心のある方は『スポーツ中継』の本とともに、ご覧いただきたい。

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