サッカー日誌 / 2010年01月25日


高橋ロクさんの思い出


監督としてだけでなく、普及にも大きな功績
日本サッカー史研究会例会
1月18日 JFAハウス会議室

★「走る日立」とは何か?
 原則として毎月第3月曜日の夜に「日本サッカー史研究会」という有志の集まりを開いている。場所は日本サッカー協会の会議室。誰でも参加できる開かれた集まりである。
 1月の例会では、1960年代に日本代表チームの監督だった高橋英辰(ひでとき)さん、愛称「ロクさん」を取り上げた。ロクさんは、日立の監督として1972年度にJリーグの前身、日本リーグで優勝、天皇杯もとった。そのころ「走る日立」と言われたチームの主力として活躍した野村六彦さんと松永章さんにゲストとして来ていただいた。
 「走る日立」とは何だったのか? 
 松永さんは「オシムが言ってた走るサッカーと同じですよ。それを35年以上前にやっていたんです」と言う。野村さんは「まず身体が走る、次いでボールが走る、頭が走る、ということです」とロクさんの言葉を紹介した。

★代表監督としての悲運
 高橋さんは、1960年に日本代表の監督になった。ローマ・オリンピック予選敗退のあとを受け、4年後の東京オリンピックをめざして新たにチームを強化するためだった。その夏に代表チームを率いて欧州に2ヵ月の遠征をした。そこで西ドイツのデットマール・クラマーさんと会うことになる。
 しかし、1962年のアジア競技大会(ジャカルタ)で不振だったためもあって、この年を最後に代表監督の座を下りる。夢の東京オリンピックを2年後に控え、志なかばで辞めなければならなかったのは残念無念だったに違いない。
 クラマーさんが高橋監督を信頼していなかったという話もある。欧州などサッカー先進国の情報が乏しかった時代だから、クラマーさんがもたらした新しいサッカーを消化しきれなったのは、やむを得ない。

★ロク・フットボールクラブ
 クラマーさんと折り合わなかったにしても、ロクさんはクラマーの考え方やトレーニング方法を熱心に学んだ。それに自分自身の理論と経験を組み合わせたのが「走る日立」として実ったのだと思う。
 ロクさんは、欧州などで学んだこと、外国の文献などで読んだことを、雑誌などにしばしば紹介した。テレビの衛星中継などなかった時代に、なんとかして進んだサッカーを日本に広く知らせようと努力したのである。知識を自分だけのために囲い込むようなことはしなかった。普及のために尽くした功績は、監督としての業績以上に評価されていい。
 研究会に参加した仲間が、さいたま市と秋田市に「ロク・フットボールクラブ」があることをネット上で見つけて知らせてくれた。どちらも高橋英辰さんにゆかりがあり、そのサッカー普及の志に敬愛の念をこめて名付けられたクラブである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« オランダの弱... ワールドカッ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

Copyright(C) 2007 US&Viva!Soccer.net All Rights Reserved.