サッカー日誌 / 2009年01月07日


平木隆三さんの思い出(上)


クラブ時代への基礎を準備した改革

★フィールドの外での功績
 平木隆三さんが1月2日に亡くなられた。77歳だった。ご自宅のある愛知県豊明市の斎場で4日に通夜式、5日に告別式が行われた。
 新聞に載った訃報では、メルボルン、東京、メキシコの三つのオリンピックでの選手、コーチとしての業績と名古屋グランパスエイトの初代監督としての経歴が紹介されていた。その経歴は、日本サッカー史上、右に出る者のない輝かしいものであったといえるだろう。
 斎場には高校体育連盟や各地の大学、高校からの花輪も数多く並んでいた。平木さんは、全国各地のチームの技術指導にも数多くの足跡を残している。普及面での功績も大きなものがあった。
 しかし、あまり知られていないことだが、平木さんはフィールドでの活躍以外にも、重要な仕事を残している。

★天皇杯参加資格を全国に拡大
 1968年のメキシコ・オリンピックを前に、平木さんは古河電工を辞めて日本サッカー協会の事務局に入った。サッカーの指導に専念したいというつもりだったのだろう。しかし、当時のサッカー協会の事務局は、せいぜい6~7人のスタッフだったから技術指導だけに飛びまわれる状況ではなかった。職員として協会内のさまざまな事務も分担した。
 事務職員として、平木さんは1970年代に重要な改革を二つ手がけた。
 一つは天皇杯の改革である。
 そのころ日本リーグ(社会人)と大学チームのトップクラスしか参加できない方式だったのを、1971年~1972年に、全国のおとなの加盟チーム全部が参加できるよう本来の姿に改革した。それによって地方のクラブチームの可能性がふくらんだ。
このことについては、協会の雑誌118号(1973年)に平木さん自身が報告している。

★年齢別登録制度への改革
 平木さんが事務局員として推進したもう一つの改革は「年齢別登録制度」である。
 そのころのチーム登録は「学校別」になっていた。たとえば第2種は「単独の大学学生をもって構成する団体」、第3種は「単独の高等学校生徒をもって構成する団体」というようになっていた。「これを年齢別に変えるべきだ」と、1969年8月に開かれた第2回クラブ育成全国協議会で、神戸FCの加藤正信さんが提案した。しかし、日本のサッカーが学校中心に発展してきたことへのこだわりがあって、協会の首脳部はなかなか踏み切ろうとしなかった。それを、平木さんが、こつこつと原案を作って改革にこぎつけた。たとえば、第1種は「年齢制限なし」、第2種は「18歳未満の選手により構成されるチーム」というように変えたのである。
 登録が学校単位に限られていては地域のクラブは育たない。年齢別登録の採用は、クラブの可能性を広げ、現在のJリーグの理念の地固めをした改革だった。

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