サッカー日誌 / 2009年12月20日


村田忠男さんの思い出


元日本サッカー協会副会長 
12月11日(金)死去、77歳。 

★サッカーの功績をしのぶ告別式
 村田忠男さんが亡くなった。つい1年ぐらい前に、サッカー協会のパーティーで、お目にかかったときに「知能障害者のサッカーの面倒をみているので応援してくれ」と元気に話していたのに、肺がんに侵されていたらしい。
 14日(月)の正午からご自宅近くの川崎市宮前区で告別式があった。宗教色がなく、音楽とお花をささげる簡素な「お別れ」だった。日本サッカー協会名誉副会長の釜本邦茂さんと、関学と三菱の両方で後輩にあたる清水泰男さんが弔辞をささげた。
 お二人の弔辞でも、新聞などの追悼記事でも、主として村田さんが協会役員として、Jリーグ発足や2002年ワールドカップ招致に果たした役割が紹介されていた。しかし、遺影を見上げながら、ぼくの脳裏に浮かんだのは、それよりも、ずっと以前、半世紀近く前に新三菱重工の選手兼監督をしていたころの面影だった。
 
★「実業団時代を語る」座談会
 1961年7月に新潟で全日本実業団選手権大会が開かれたとき、ベスト4に残ったチームの監督を集めて「実業団時代を語る」という座談会をしたことがある。そのころ、協会の雑誌編集をボランティアで手伝っていた朝日新聞記者の中条一雄さんと読売新聞記者の牛木が企画したものである。協会の雑誌「サッカー」の第12号に掲載されている。
 1950年代まで、日本のサッカーは大学リーグが中心だったが、このころから実業団(会社)チームが力をつけ始めてきた。3年後の東京オリンピックを見通して、今後は実業団が中心になるだろう。そういう考えで企画した座談会である。
 準決勝が終わった夜に宿舎の旅館で開いた。翌日に3位決定戦と決勝戦があるから、4強の監督さんは必ず残っている。それで出席者と期日と場所を選んだ。そのとき、ぼくが想定していた4強は古河電工、日立本社、八幡製鉄、東洋工業だった。

★Jリーグ時代への基礎作り
 ところが座談会前日の準々決勝で新三菱重工が、東洋工業を破って進出した。その新三菱の監督兼選手が村田さんである。村田さんは、ぼくの想定外で座談会に参加した。
 この座談会の「隠れたテーマ」は、当時の協会幹部と全日本(代表)強化への批判だった。村田さんは「全日本の合宿に行ってヘタになるってわけじゃないけど……チームのために直接役に立たないことをやる場合がある」と遠慮がちに述べている。その後、実業団による「日本リーグ」をへて、プロ・クラブによる「Jリーグ」の時代が来た。会社チームで苦労した村田さんたちの基礎作りが実ったのである。
座談会出席者は村田さんのほか、長沼健(古河)、鈴木徳衛(日立)、寺西忠成(八幡)だった。とうとう、4人とも、この世の人ではなくなった。この人たちに育てられて、その後の協会の幹部になった後輩たちは、先輩の労苦をきちんと評価しているのだろうか?

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