サッカー日誌 / 2015年07月02日


日本サッカー・リーグ50年(4)


重松良典さんの工作?

JSL50周年記念パーティー
(6月9日、品川プリンスホテル)

★篠島秀雄さん担ぎ出し
 50年前の日本サッカーリーグ発足は、日本サッカー改革のスタートだった。
 これが、ぼく(牛木)の「サッカー史観」である。
 この改革実現を陰で工作したのは、日本リーグ2代目総務主事の重松良典さんだったと思う。
 これは、重松さん自身に確かめたことではない。しかし、単なる「憶測」ではない。
 ぼく自身に関係する状況証拠がある。
 改革派は、当時、三菱化成の社長だった篠島秀雄さんをサッカー協会の会長に担ぎ出そうとしていた。
 篠島さんは、東京帝大が関東大学リーグで6連覇した当時の主力選手だった。また1930年(昭和5年)の極東大会で日本代表チームが国際大会初優勝したときのエースだった。
 その経歴から、協会の副会長になっていたが、財界人として多忙だったから、協会の実務に携わることは難しかった。
 
★「マガジン」のインタビュー
 重松さんから、ぼくに「篠島さんへのインタビューをしてくれ」という電話があった。
 ほとんど同時に、サッカーマガジン誌から「篠島副会長へのインタビューをアレンジした」という連絡が来た。
 そこで「ピン」とこないほど、ぼくも鈍感ではない。
 「シゲさんが工作しているな」と気がついた。
 三菱化成の社長室で、篠島社長にインタビューして、その記事がサッカーマガジンに掲載された。
 内容は「日本サッカーの改革」である。
 その当時、ぼくは読売新聞の記者だった。
 篠島さんは、大学サッカー部の後輩のぼくに「新聞記者がアルバイトで、雑誌の仕事をするのか?」と咎めた。
 ぼくとしては「小遣い稼ぎ」のためにインタビューを引き受けたわけではない。
 シゲさんに協力して、改革の片棒をかついだつもりだった。

★本人に確かめたい
 篠島さんが亡くなられたあと、だいぶ後になって、篠島さんの奥様を、お訪ねしたことがある。
 篠島夫人に聞かれた。
 「ひところ、毎晩のように、篠島に電話をかけてきたサッカー関係の方がいたけど、それはあなたなの?」
 ぼくではない。
 「それは、シゲさんだな」とひらめいた。重松さんが、篠島さんを動かそうと電話したのではないか?
 そういう状況証拠から、1970年代の改革の「黒幕」は重松良典だったのだろうと推測している。
 日本サッカーリーグ50年記念パーティーで、重松さんはもちろん功労者表彰のなかに入っていた。
 しかし、体調が良くないということで、ご本人は出席しなかった。広島在住だからやむをえない。
 こちらから広島へ出かけて、ご本人から真相をお聞きする機会を得たいと思っている。


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