ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




関家、小川屋酒店。中央区佃2-5。1989(平成1)年10月29日

清澄通りの相生橋に近い新佃島交差点を西へ入り、その横丁の突き当りに近い辺り。写真右手が清澄通りの方向。1986年の住宅地図では瓦屋根が関家、看板建築風の家が小川屋酒店、4階建てのビルは当地図ではまだ駐車場だ。後ろのビルの塔屋に「NKK」とあるのは「日本鋼管佃島社宅」。
昭和22年の航空写真を見ると、この周囲は家がないか、建ち始めたばかりのように見える。空襲の被害はなかった地区だから、建物疎開が行われたのかもしれない。ただし、昭和22年の航空写真には写真の日本家屋と思われる家が建っているように見える。取り壊しを免れたのか、戦後いち早く建てたものなのか……。小川屋酒店は戦前からある店。写真ではしもた屋に見える建物の左側は「小川薬局」だった。
現在では写真の家並みは右端のビルを除いて、3棟のマンションが建ち並んでしまった。すなわち、「リバーシア佃」(2004年12月築、7階建12戸)、「ニューシティアパートメンツ月島」(2005年7月築、8階建36戸)、「スカイコートパレス月島」(2015年6月築、8階建24戸)。そして日本鋼管の社宅のある一画は「ザ・クレストタワー(月島)」(2004年9月築、32階地下2階建て387戸」が建つ。

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佃1-9の家並み。中央区佃1-9。1989(平成1)年10月29日

佃堀の東にある100×34mの矩形の町域が佃1丁目9番地。その中心、細い路地の中に佃天台地蔵尊がある。写真は東側に向いた家並みで、西側は佃堀に向いていて、当ブログ前回の2枚目の写真がそれ。長屋やアパート形式の家もあるようだが、ほぼ1戸建て住宅が7・80軒、ぎっしりと立ち並び、7本の路地が東西に通じている。戦前に建てられた家がまだ半分程度残っているようである。
明治中期に埋め立てられて造成された新佃島や月島とは異なり、江戸時代からある土地だ。写真の通りから右側は海だったわけで、かつては漁師町だったのだろう。現在では築地魚市場に勤める人が多いという。商店はほとんど見られない。上の写真では「大吉」という居酒屋らしいのとその何軒か先にミスパーマ松本の緑の日よけが見えるだけだ。写真中央の家の後ろの大木が佃天台地蔵尊の銀杏の木。



大吉。1989(平成1)年10月29日



民家。2005(平成17)年3月25日

ストリートビューを見ると、2枚目写真の「大吉」の看板を出している家は建て替えられている。その右の家が上左写真で、これも建て替えられて「今昔きものわかば」という店になっている。そこから1軒おいて佃天台地蔵尊入口の家で、これは現存している。

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佃堀河岸の網干場。中央区佃1-8。1989(平成1)年10月29日

佃堀の南端あたりから撮った佃堀沿いの道路。水面が写ってないが、小屋や物干し場の裏がすぐ佃堀である。小屋は漁具をしまう物置で、洗濯物を干してあるところは元々は網を干す場所だったはずだ。昭和の時代までは漁村としての面影を残していたのだが、現在は下の写真のように、ただの広場のようになっている。佃堀を囲むように「佃堀広場」という公園ができたわけだ。
写真左端に写っている掲示板は今も同じ位置にあると思う。写真右端に写っている銀杏の木は波除稲荷・於咲稲荷(おさきいなり)境内のもの。



佃堀。写真左の社が波除稲荷神社。その左手に隠れるように於咲稲荷神社の社が並んでいる。
佃1-8。2005(平成17)年3月25日



佃天台地蔵尊入口の民家。佃1-9。左:2005(平成17)年3月25日、右:1989(平成1)年10月29日

2枚目写真中央に写っているパラペットのある家とその左の家。その間の隙間のような路地を入ると佃天台地蔵尊の社があり大きな銀杏の木も生えていて、なんとなく楽しいスポットである。佃堀側の入り口にある2棟の古い民家は現存するが外壁などを改装した。銅板張りのパラペットのある洋風の家は、2階の窓ガラスが替えられて木の桟ではなくなり、戸袋がなくなってしまった。1階の小さな窓は古い木の桟のまま残してある。

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