ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




神田交流変電所。千代田区神田鍛冶町2-11。1992(平成4)年7月5日

JR神田駅のすぐ北、山手線と中央線が分岐する内側にある神田交流変電所の旧建屋。現在は建て替えられて、一八通りの門には「東日本旅客鉄道株式会社/神田交直流変電所」の表札がかかっている。写真の建物だったときの地図では、1950年頃の火保図では「東京鉄道管理局神田変電区開閉所」、1969年の住宅地図では「赤羽給電区神田交流変電所」、1986年では「給電保全事務所/秋葉原保全所」。
建物に関してはなにも判らない。デザインは昭和7年に建てられた神田変電所と同じモダニズムである。建築年も同じ頃のように思える。
変電・饋電(き電)・通信のもろもろ』というサイトに神田交流変電所が解説されている。この施設の役割は電気に関する知識がないと分からないのだが、一八通りの向かい側にあった神田変電所が直流変電所で、写真の交流変電所と統合したのが今の交直流変電所なのだという。
消えた近代建築>JR東日本神田変電所』によると平成13年に取り壊された。

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神田きくかわ。神田須田町1-24。1986(昭和61)年6月8日

中央通りと一八通りとの交差点角に神田きくかわ(喜久川)の古いビルが残っている。神田きくかわは昭和22年の開店で、すでに老舗である。建物は昭和初期のRC造のビルかと思うが、そのほうの情報は得られなかった。1986年の写真では建物の角に引き戸があるが、現在はその右に移された。
ぼくはこの店に入ったことはない。うな重の値段が2千円だった頃は昼食に一人で鰻屋に入ったこともあるが、3500円にもなってしまうと、気楽には食べられなくなった。うな重のランクは「並、上、特上」「梅、竹、松」などがあるが、きくかわは「イ、ロ、ハ」だそうだ。どの店でも鰻の量の差である。2尾分の「ハ」を食べるなら「イ」を二回食べるほうが粋ではないかと思う。
同じビルの奥は「恵比元(えびもと)」という居酒屋。上の写真では看板に「大衆酒場」とある。いまや聞かなくなった言葉だ。みんな自分は大衆ではないと思い始めて、世間から言葉としての「大衆」は淘汰されていったのだろう。実はぼくも「おれは大衆ではない」と思っている。勘違いしているかもしれない。



左:丸茂電気。1987(昭和62)年2月1日。右:須田町ビル。1994(平成4)年2月6日

神田菊きくかわと並んで中央通り沿いに2棟の古いビルがあった。丸茂電機のビルは現在、「マルモビル」(1990年頃の竣工か?)に、須田町ビルは、「ACN神田須田町ビル」(2008年竣工)に、建て替わっている。

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神田美容室
千代田区神田美土代町11
1989(平成1)年4月29日

靖国通りの裏手にある林文具店から南へすぐのところ。写真右から、神田美容室、奥村洋紙店倉庫、みどりや。神田美容室と奥村洋紙店とは同じ二軒長屋である。現在は写真の2棟=3軒が「ブックスビルディング」という5階建てのビルに替わっている。神田美容室はすでに廃業していて、奥村洋紙店に建築計画のお知らせが貼られている。撮影後じきに取り壊されたかと思う。
神田美容室は長屋の2階前面を増築して看板建築にしている。1階を美容室に改装したのと同時の工事だったのかもしれない。
「みどりや」は地図からもってきただけの店名だが、写真からは小料理屋のような感じだ。

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上:阪口銅器製作所、左:旧宮川商店
品川区南品川4-17。2015(平成27)年5月30日

阪口銅器製作所はかとうフォトの向かい側。「品川銀座」の提灯がかかっている。ゼームス坂下の、角に天理教教会がある交差点から北が「品川銀座商栄会」の品川銀座商店街になるが、商店はポツンポツンとあるだけで、商店街の体裁にはなっていない。
阪口銅器は外観からはすでに廃業していると思える。阪口銅器とその左の看板建築にした家とで二軒長屋で、航空写真で見ると、阪口銅器の裏に見える切り妻屋根の家は、坂口銅器の二軒長屋とほぼ同じ造りの長屋らしい。
宮川商店だった家は大野美容院の交差点を西へ入ったところにある。なにを商っていたのだろうか。「明睦會々員」の表札が残っている。



丹羽クリーニング店。南品川4-17。2015(平成27)年5月30日

阪口銅器から南へすぐのところ。銅版貼り看板建築の丹羽クリーニング店の左右の3階建ての家も古い看板建築を改修して使っているのかもしれない。
丹羽クリーニングから北へ3軒目に「モチタ(持田)クリーニング店」がある。この店が銅版貼り看板建築の長屋だったときの写真が『東京レトロ>大井町は良い建築の多い町(失礼)』に載っている。1995年頃の撮影という。

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吉野屋豆腐店。品川区南品川4-19。2015(平成27)年5月30日

大野美容院の横を東へ行くと南品川四郵便局の前を通って100m足らずで第一京浜国道に出る。周囲は住宅地でアパートも多いようだ。写真の下見板の日本家屋は第一京浜に出る手前にある。写真右の吉野屋豆腐店は、あるサイトに創業80年とあった。建物は看板建築風だが戦後に建て替えたもののようだ。



かとうフォト。南品川4-18。2015(平成27)年5月30日

ゼームス坂下の大野美容院から少し北のところ。出桁造りの家が2棟くっついて並んでいるようだが、屋根は境界のところでお互いに食い込んでいるので、あるいは合わせて1棟の家なのかもしれない。かとうフォトはDPEの店ようだが営業しているのかどうか。右の家は1981年の地図では「ワコールショップ・アン」。同じ地図で、写真左の真新しい住宅は「大ばやしそば」。

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今村洋品店、大野美容院。南品川4-4。2015(平成27)年5月30日

看板建築が並んでいるという評判のゼームス坂を今年になって初めて歩いた。JR大井町駅から歩き始めたのだが、当ブログの今までの慣習で北の坂下の方から見ていく。
今村洋品店と大野美容院が入った家は出桁造りの日本家屋で、屋根は寄棟を直角につないで両端は切り妻といった塩梅だ。北側は全面が波トタン貼りで、裁ち落した面のようなので、昔の航空写真を見るとはたして店がもう1軒入るだけ伸びていた。今でもかなり大きい家だが、かつては三軒長屋といえるのかもしれない。



左:元二軒長屋。上:今村洋品店、大野美容院
南品川4-4。2015(平成27)年5月30日
左写真は大野美容院の後ろの家。二軒長屋だったうちの1軒が残っているもの。

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天笠輪店。品川区南品川3-5。2009(平成21)年4月12日

旧東海道の品川寺(ほんせんじ)の山門から南へ60mほどで海雲寺の山門である。写真はその脇にある銅板張りの二軒長屋。屋根の庇が前に出ているので看板建築とは言いにくい。建物の表面右側は以前は自転車屋で、銅板の壁に「天笠輪店」と「マリヤー號・光號・ナトリー號」という店名と商品名の文字が残っている。自転車はどこのメーカーのものか勿論判らない。店独自で組み立てたものかもしれないとも思う。

下の写真は天笠輪店の隣の理髪店。二軒長屋の左の店で、看板建築風に改装している。ストリートビューで見ると日よけのテントが外されている。閉店したのだろうか。


ホリ理容室。南品川3-5。2004(平成16)年1月11日

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竹内外科医院。品川区南品川3-6。2004(平成16)年1月11日

南北の旧東海道と京急青物横町駅前の東西の通り(都道421号=ジュネーブ平和通り)との交差点間近に洋風下見板の洋館がある。写真では「竹内外科」。明治45年に建てられたものという。たぶん医院としての開院もそのときなのだろう。玄関の柱にはスクラッチタイルが貼られ、欄間にはステンドグラスがはまっている。『日本近代建築総覧』では「竹内外科、建築年=明治末~大正初、初代院長は戸塚海軍医総監」という記載。
2008年1月からは耳鼻咽喉科に替わり、医院名を「竹内医院」と変えた。世代交代だろうか。看板も「竹内醫院耳鼻咽喉科」となった。旧字の「醫」は建物の外観に合わせたのだろう。最近は外壁を塗りなおしていたから当分はこの建物を使っていくのだろう。



鈴木タバコ店。南品川3-5。2004(平成16)年1月11日

竹内医院から100mほど南に品川寺(ほんせんじ)の山門が旧東海道に向けている。その門前に鈴木タバコ店の出桁造りの商家がある。大正時代の建物らしい。正面右に昔のままのショーウインドーを改装して自販機を置いている。さいわい、上部のステンドグラスの部分は残っている。


矢場靴店。南品川3-5
2009(平成21)年4月12日

竹内医院の交差点から京急青物横町の方へ少しいったところ。『おおよこチャンネル(青物横丁商店街)』には、「おばちゃんシューズ大量仕入れ」とか「若者の靴は正直置いてません」とあった。なにやら確信をもって商売しているようだ。隣の銅版貼り看板建築は、店舗部分を改装して貸店舗になった。

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