ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





三原橋センター。中央区銀座4-8
2013(平成20)年11月5日

銀座と木挽町の境になっていた三十間堀川は、戦後、戦災残土を放り込んで埋め立てられた。しかし、晴海通りを渡している三原橋は残された。理由はよく分らないようだが、撤去が難しかっただけかもしれない。下の資料では都電が通っていたからかも、とある。
ネットで『銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』というレポートが読める。それによると、橋の地下部分は1951(昭和26)年に完成した。一度埋められた橋の下を掘り起こしたのだという。露天商の移転先の問題が発生したからだろうか。1951年12月頃、地下にニュース映画館(昭和30年頃の火保図に「テアトルニュース」と「銀座東映」の記載)ができた。露天商は「銀座間マート」に収容されたという。1953年8月31日に2棟の「三原橋センター」が土浦亀城の設計で完成した。
取り壊しが決まって、2013年頃から店の退去が始まり、2014年4月末で全店が退去、5月には取り壊しが始まった。なにができるという計画はないという。



三原橋センター北棟の裏側。2013(平成25)年5月19日

設計者の土浦亀城(つちうらかめき、1897-1996年)は、ライトの弟子だったが、1935年の土浦亀城邸はモダンデザインの住宅。以後、モダニズム風の作品が多い。三原橋センターも横長の大きい窓などがかっこいいと思って見ていたが、窓は後の改修によるものだった。『 aki's STOCKTAKING>三原橋・銀座/傳八』によると、1987(昭和62)年に「傳八」が開業するとき、Aki氏が店内を設計したが、同時に窓枠も新しくしたという。元の窓は細い壁の間に縦長の4枚のガラスがはまったもの。
南棟のほうは表側の写真を撮っていない。いつ頃からか南棟の2階はパネルで隠されてしまっていて、撮影しようという気にならなかったらしい。パネルの裏には建築時の窓が残っていたのかもしれない。

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