ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜銀行協会。神奈川県横浜市中区本町3-28。1987(昭和62)年8月9日

1936(昭和11)年竣工、RC造4階地下1階、設計は大熊喜邦と林豪蔵、施工は清水組。
『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によると、外観の特徴として「鉄筋コンクリートの表面は、擬石盲(めくら)目地仕上げで、テラカッタの装飾が豊富に用いられている。テラカッタのデザインは極めて入念、多様、彫りの深い華麗なもので、全国でもこれほどのものは多く見られない。正面は7本の列柱が組み込まれ、狭い柱頭飾りが取り付けられている。玄関車寄せは単純な構成であるが、巧みなデザインである。大通りに続く側面の取り扱いはやや異なるが、二条の窓を落とし込んだ縦溝と同じく三条の縦溝が強いアクセントをつけており、三条の部分の上には、三角形の飾りが取り付けられて側面の構成として完璧である」としている。
大熊喜邦(おおくま・よしくに、1877-1952年)は国会議事堂の建設を統括した建築家。『ウィキペディア』には「1907年(明治40年)、大蔵省臨時建築部技師に就任し、各国の議事堂建築の調査や、議事堂建設予定地の敷地調査にあたる。一貫して官庁営繕に従事したが、最大のものが1920年に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と吉武東里の名が挙げられる。1927年、議事堂上棟式が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた」とある。
林豪蔵(1897~1975)は永く横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)教授を務めた人で、大熊の娘婿。『かながわの近代建築』には「前者(大熊)はむしろ名前を貸した程度で、実質的には林豪蔵の数少い作品の一つで傑作である」としている。


横浜銀行協会、裏側
2002(平成12)年1月14日

横浜銀行協会は関東大震災で被害を受けた「横浜銀行集会所」を建て直したものだ。旧建物は1905(明治38)年に遠藤於菟の設計の、セセッシオン風の当時としては斬新なデザインが有名になった建物だ。昭和11年に建ったビルも横浜銀行集会所の名称だった。
戦後は米軍に接収されて、将校クラブとして使われた。昭和28年に返還されたときに「横浜銀行協会」「横浜銀行倶楽部」の表札を揚げた。
4階は昭和40年の増築によるもの。『かながわの近代建築』には「昭和40年10月には、四階が創和建築設計の手で増築されたが、同社の吉原慎一郎社長は、原設計者林豪蔵の意を体して、銅板葺きの庇面とともに、創建時のままかと思われるほど巧みにまとめ上げている。この部分には、横浜手形交換所が置かれている」とある。
この建物を横浜でのアール・デコ建築の代表のように言われることがある。直線で構成されたデザインがアール・デコと結びつくわけだが、ぼくはあまりピンとこない。建物の上部に多く施されたテラコッタの装飾の扱いは、オットー・ワグナーのそれを連想させる。そうするとセセッシオン? なんだかむしろ離れてしまったかもしれない。

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