ちょうど1週間前になりますが、12月13日付の日経新聞に、「懐古2006 音楽」と題してモーツァルト新解釈に関する記事が出ていました。
私は名古屋へ向かう新幹線の車中で読んだのですが、ざっと次のような内容でした。
アーノンクールが26年ぶりに来日したことに始まり、彼は苦労してモダン楽器によるピリオド奏法に取り組み、巨匠としての評価を確立したと紹介。
その後、ノリントン&N響や飯森範親&山形交響楽団等の最近の活動にふれたあと、彼らのような新解釈で演奏する人は少数派で、日本では多くのモーツァルト演奏が譜面の版や読み方、奏法の吟味が曖昧な「垂れ流し」に終始していると筆者は結論付けていました。
仰ることは良く分かるし、納得できる部分も多いのだけど、「ピリオド奏法と新解釈だから良い」ということではないと思います。
オールドファッションのモーツァルトであっても、私たちを深く感動させてくれる例は枚挙にいとまがありません。
確かに時代考証は音楽家にとっても大変重要ですが、要は演奏という行為を通して何を表現するか、何を訴えかけるかじゃないでしょうか。
だから、最後に「垂れ流し・・・」と十把一絡げで総括されると、私にはいささか違和感があります。
とはいいながら、名前が挙げられているアーノンクールもノリントンも私の大好きなマエストロです。
理由ははっきりしていて、彼らの演奏が、どんな場合でも常に生気溢れるもので、私に音楽を聴く悦びを与えてくれるからに他なりません。
ピリオド奏法だから好きなのではなく、彼らがピリオド奏法を使って表現する生き生きとした音楽が好きなのです。
私が最近ipodで良く聴いているのが、ノリントンがザルツブルク・カメラータ・アカデミカと組んで演奏したモーツァルト。
とくに、メインのジュピターは、本当に楽しいです。
音楽の躍動感というかエネルギーが、これほどストレートに感じられる「ジュピター」も珍しいのではないかしら。
とくにメヌエットの愉悦感や、フィナーレの冒頭5小節目からヴィオラとバスが何とも自然に入ってくるあたりの自然な表現は、まさに最高。
いつ聴いても、にんまりしてしまいます。
また、あわせて収録されているディヴェルティメントK.136は、サイトウキネンオーケストラのトレードマークのような曲ですが、このノリントン盤もいかにもディヴェルティメントといった演奏で、とてもチャーミング。
私がこの曲最高の名盤だと信じているトン・コープマン盤と、甲乙つけがたい名演奏です。
通常のヴィブラートではなく、真ん中が少し膨らむ形の例のピリオドスタイルですが、音の響きそのものが実に美しい。
だからこそ、愉悦感を感じるんですね。
この「音の美しさ」「響きの美しさ」というのは、ピリオド奏法であろうとなかろうと、モーツァルト演奏に最も必要な要素であるような気がしてなりません。
お薦めのディスクです。
<曲目>
■モーツァルト:交響曲第41番《ジュピター》
■ストラビンスキー:交響的舞曲
■モーツァルト:ディヴェルティメントK.136
<演奏>
■ノリントン指揮
■ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ
<録音>
■1998年ザルブルク音楽祭でのライヴ録音。
私は名古屋へ向かう新幹線の車中で読んだのですが、ざっと次のような内容でした。
アーノンクールが26年ぶりに来日したことに始まり、彼は苦労してモダン楽器によるピリオド奏法に取り組み、巨匠としての評価を確立したと紹介。
その後、ノリントン&N響や飯森範親&山形交響楽団等の最近の活動にふれたあと、彼らのような新解釈で演奏する人は少数派で、日本では多くのモーツァルト演奏が譜面の版や読み方、奏法の吟味が曖昧な「垂れ流し」に終始していると筆者は結論付けていました。
仰ることは良く分かるし、納得できる部分も多いのだけど、「ピリオド奏法と新解釈だから良い」ということではないと思います。
オールドファッションのモーツァルトであっても、私たちを深く感動させてくれる例は枚挙にいとまがありません。
確かに時代考証は音楽家にとっても大変重要ですが、要は演奏という行為を通して何を表現するか、何を訴えかけるかじゃないでしょうか。
だから、最後に「垂れ流し・・・」と十把一絡げで総括されると、私にはいささか違和感があります。
とはいいながら、名前が挙げられているアーノンクールもノリントンも私の大好きなマエストロです。
理由ははっきりしていて、彼らの演奏が、どんな場合でも常に生気溢れるもので、私に音楽を聴く悦びを与えてくれるからに他なりません。
ピリオド奏法だから好きなのではなく、彼らがピリオド奏法を使って表現する生き生きとした音楽が好きなのです。
私が最近ipodで良く聴いているのが、ノリントンがザルツブルク・カメラータ・アカデミカと組んで演奏したモーツァルト。
とくに、メインのジュピターは、本当に楽しいです。
音楽の躍動感というかエネルギーが、これほどストレートに感じられる「ジュピター」も珍しいのではないかしら。
とくにメヌエットの愉悦感や、フィナーレの冒頭5小節目からヴィオラとバスが何とも自然に入ってくるあたりの自然な表現は、まさに最高。
いつ聴いても、にんまりしてしまいます。
また、あわせて収録されているディヴェルティメントK.136は、サイトウキネンオーケストラのトレードマークのような曲ですが、このノリントン盤もいかにもディヴェルティメントといった演奏で、とてもチャーミング。
私がこの曲最高の名盤だと信じているトン・コープマン盤と、甲乙つけがたい名演奏です。
通常のヴィブラートではなく、真ん中が少し膨らむ形の例のピリオドスタイルですが、音の響きそのものが実に美しい。
だからこそ、愉悦感を感じるんですね。
この「音の美しさ」「響きの美しさ」というのは、ピリオド奏法であろうとなかろうと、モーツァルト演奏に最も必要な要素であるような気がしてなりません。
お薦めのディスクです。
<曲目>
■モーツァルト:交響曲第41番《ジュピター》
■ストラビンスキー:交響的舞曲
■モーツァルト:ディヴェルティメントK.136
<演奏>
■ノリントン指揮
■ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ
<録音>
■1998年ザルブルク音楽祭でのライヴ録音。
評論家のこのような姿勢はいつも問題になりますね。どのような楽器を使っているのかではなく、そこから何を感じるかがすべてだと僕は思います。先日のアーノンクールの演奏会にピリオド嫌いな知り合いの方々が行って感動されていましたが、それを指してある方が「楽器の問題で無かった」と仰ってました。まさにそれがすべてでしょう。
また、ピリオド演奏のことを「正しい」と言う誤認もありますね。あれが本当に往時の演奏なのかどうかは誰にもわまらないはず。演奏がデフォルメされていくことへの警鐘の意味は大きいですが、それに拘泥することはないと思うのですが・・・。
先日は、本当にありがとうございました。
思いっきり楽しませていただきましたよ。
リベラさんのおかげです。
>「楽器の問題で無かった」と仰ってました。まさにそれがすべてでしょう。
まったく同感です。
昔、ラトルがウィーンフィルを率いて来日し、天下のウィーンフィルにピリオド奏法で弾かせた時の演奏をテレビでみて、最初「これが、あのウィーンフィル?」と驚愕しましたが、聴き終わると「やっぱり、ウィーンフィル!」としか思いませんでした。
何を表現したいのか、そしてそれをどれだけ美しく・効果的に実現できるか、結局、それにつきるように思います。
楽器や奏法でなく、音楽の訴えかける力を信じて、何よりも聴き手を感動させて欲しいものです。
いつも、ありがとうございます。
私が最初にピリオド奏法に触れたのは、まだ高校生の頃でした。
当時、リコーダーの天才と呼ばれていた頃のブリュッヘンの公開レッスン(もちろん聴講生です)だったのですが、あれは鮮烈な体験でした。
しかし、古楽器演奏が、観念ではなく自由にしなやかな音楽を獲得するのに、それから約20年かかったと思います。
>バロックヴァイオリンのポッジャーの演奏などは好きですが・・・
私も大好きです。
今愛用しているスピーカーのクレモナが我が家にやってきたとき、悩んだ末に最初にかけた曲が、彼女の無伴奏ソナタ第1番でした。