ちょっとこの時期、同人誌の締切りなどで忙しかったため書き漏らしていた記事を今ごろ載せる。
わが家のツツジについてである。実はもうほとんど終わってしまって、この前載せた桜桃の前に載せるべきだったのが、それが果たせないままだった。しかし、写真をたくさん 撮りためていたので、このまま捨ててしまうのはもったいないので、今更と思うが載せた次第。ご容赦を。
わが家には、源平合戦よろしく紅白二本のツツジがある。それぞれ樹齢50年以上の老木である。したがってツツジとしては結構な大木になっている。特に白のほうは、高さ数メートルに達しようとする勢いだ。
まずは白の方。ここに載せたのは、ほとんど満開に達したそれであるが、ツツジは下から咲き始めるので、この時期、下のほうはもう終わり始めている。この写真の中央上部が、二階の私の部屋である。
したがって、満開の時期には私の部屋からは、バルコニー越しに、こんな具合にそれが見える。 読書やPCに向かい合っていて、疲れてふと目を逸ら下際に花が見えるのはけっこう癒しになる。
なお、この白いほうのツツジには、赤い斑入りの花がついたり、年によっては一枝まるまる赤い花が咲いたりするのだが、赤いほうにはそんな変化はない。 ちなみに紅白の木には、おおよそ10メートルほどの距離がある。
赤いほうのツツジは、玄関へのエントランスの脇にある。 この写真の右側は前回載せた桜桃にの木である。
この赤いツツジを別のアングルから見ると、ガレージの突き当たりに位置する。外部から帰宅し、車庫入れをするやいなやこの花がが出迎えてくれる。
もう一枚、別アングルから見たものを載せておこう。 わが家の前は、バス路線だからその乗客たちの目に映るかもしれない。
もう一枚、おまけの映像を載せておこう。これは玄関の型板ガラス越しのものである。ほんのり赤く見えるのは、もちろんこの玄関先の赤いツツジである。
今年の大河ドラマは源平合戦を題材にしているようだが。、この場合、赤は平家で白は源氏である。現在ヨーロッパで行われている戦争はどちらが赤でどちらが白かはよくわからない。
なお、冒頭に述べた同人誌への原稿は何とか書き上げたが、そこで私は、敗戦時の抑留者たちについて書いた。そこには、赤旗組と 日の丸組が登場するが、もちろん日の丸組は白ではない。だからそこでの対比は、いってみれば、ロシア革命時の赤衛軍と白衛軍といったところか。
心地よい満足感でこれを書いている。
今年は花の付きが良かった。ミツバチたちも群れをなしてやってきて、羽音がうるさいほどせわしなく飛び回り、花粉を拡散させてくれた。
結果は期待通りだった。実の付きがよく、例年より粒も大きいような気がする。色づきもよく、一番嬉しいのは甘みや旨味も濃いような気がするのだ。よる年波のせいで、例年ほど水やりをせず放っておいたのがかえって良かったのかもしれない。
それとも、この樹のピークを迎えたのだろうか。そうだとすると、来年からは下り坂となる。それは嫌だ。なんとか私が死ぬまではこのままでいてほしい。もうそんなに長くはないのだから・・・・。
まずは、 その記録から見てもらおう。最初は硬かった蕾がほころび始めた3月5日である。
その蕾が桜色に色づいてきたのが3月11日。
開花し始めたのが3月12日。
翌13日にはかなりの開花を見るに至り、みつばちたちがやってきた。
3月15日にはほぼ満開に近くなった。毎年、ソメイヨシノに2週間ほど先行する。
3月25日にはほとんど散って無残な姿に。
しかし、そのオンボロ状態のなか、4月2日には実がついていた。
だんだん実がしっかりしてきたのが4月10日ぐらいか。
そしてその実が色づき始めたのが4月19日。
これ以上色づくとムクやヒヨなどの小鳥たちに襲撃されると、その予防策で不要になったCDをあちこちに十数枚ぶら下げる。もう何年も前からこれを実施している。
その折、そのうちの一枚が感動的な思い出へといざなってくれた。
このCD-ROMを見てほしい。「インターネットナビゲーター」とあり「1995・7」とあるのがわかるだろう。いまはPCを買ってもスマホを買っても、ネット機能ははじめから装備されているがむかしはそうではなかった。
1995年、私はすでにPCを持ってはいたが、計算機能やワープロ機能のみで、ネットに接続するには自分でそのセッティングをしなければならなかった。その折に使ったのがこのCD-ROMであった。こういう作業は苦手な私が難渋の果にやっと接続できたときはまさに感動モノだった。その折のウェブブラウザはExplorerであったが、今もこのプラウザはあるのだろうか。
ネット機能を使って、ロンドンに留学中の友人の息子にメールを届けることができた折にはさらに感動した。それまで友人は、息子に緊急の要件がある場合には、息子の入っていた寮の共同電話にかけ、出たひとに大声で自分の息子の名前を叫んでつないでもらっていたのだが、通じなくて切られてしまう場合もあったという。またその折の海外電話料金も馬鹿にならなかった。
私がネットに繋がり、息子ともメールのやり取りができるようになって以後は、彼は私のところへ電話してきて、私がそれをメールしたものだ。息子の方からも、同様にいつ帰郷するなどの予定をメールしてきた。
そんなこともあって、友人とその息子の双方から感謝されたが、その友人も数年前に逝ってしまった。
あ、桜桃から話が逸れた。
4月25日には実はしっかり赤みを増し、27日には完熟したものも現れはじめた。
満を持して30日に第一回の収穫をした。結果は冒頭に書いたとおりである。
これらは2日に、娘が勤務している学童保育の子どもたちのおやつに持たせる予定。
これを書きながら、子供の頃よく聴いた石井好子さんのシャンソン「桜桃の実の実る頃」を思い出した。もともとは銅工職人でパリ・コミューンの一員であったジャン=バティスト・クレマンが1866年に作詞し、その2年後にテノール歌手のアントワーヌ・ルナールが曲を付け、発表されたものらしい。
You Tubeで検索したら、加藤登紀子さんのものなどしかでてこなかったが、しかし、私としては、石井好子さんのそれが懐かしい。