ひとにとっての夏の匂いが何であるかについては、それぞれの居住環境や経験によって異なるだろう。
海に近い人には、一段と強まる潮の香であったり、山に近い人にとってはむせ返るような草木の香であったりするだろう。
小学生時代を田園地帯で過ごし、成人してからも田園地帯へ戻ってきて半世紀になる私にとっての夏の匂いは、やはり稲の香である。
田植えをしたばかりの田では、まだ稲はその香を放つことはない。放っていても、私の方にそれを感受する能力はない。まだ、土や水の香が勝っているからだ。
しかし、それらがすっかり根付き、丈も二〇センチから三〇センチにもなり、夏の日射しでヒートアップされると、自己特有の匂いを放つに至る。
そんな折、田んぼの脇を通りかかると、「オッ、夏だ」と思わず口に出そうになる。
この稲の香は、どんどん強まり、稲刈りの頃には最高潮となる。刈られた稲がハザ架けなどされている現場では、間違いなく、米びつを開けた時のあの匂いが充満している。
しかし、夏のはじめのこの時期のそれは、それほど強烈ではなく慎ましやかである。
ここで何回も書いてきたが、田んぼのなかの一軒家としてこの地に居を構えてから半世紀、都市化の波はとどまることを知らない。昨年だけでも、私の周辺では一〇枚近くの田んぼが失われた。今さら嘆いても致し方がないことは重々承知の上だが、何やら淋しい気分もある。
やがては居ながらにして四季を堪能することがかなわなくなり、都会の人たち同様、四季を求めて郊外へ出なければならなくなるのだろうが、幸いなことに、その頃にはこちらの寿命が尽きていることだろう。
だからいま、稲の香を堪能している。
海に近い人には、一段と強まる潮の香であったり、山に近い人にとってはむせ返るような草木の香であったりするだろう。
小学生時代を田園地帯で過ごし、成人してからも田園地帯へ戻ってきて半世紀になる私にとっての夏の匂いは、やはり稲の香である。
田植えをしたばかりの田では、まだ稲はその香を放つことはない。放っていても、私の方にそれを感受する能力はない。まだ、土や水の香が勝っているからだ。
しかし、それらがすっかり根付き、丈も二〇センチから三〇センチにもなり、夏の日射しでヒートアップされると、自己特有の匂いを放つに至る。
そんな折、田んぼの脇を通りかかると、「オッ、夏だ」と思わず口に出そうになる。
この稲の香は、どんどん強まり、稲刈りの頃には最高潮となる。刈られた稲がハザ架けなどされている現場では、間違いなく、米びつを開けた時のあの匂いが充満している。
しかし、夏のはじめのこの時期のそれは、それほど強烈ではなく慎ましやかである。
ここで何回も書いてきたが、田んぼのなかの一軒家としてこの地に居を構えてから半世紀、都市化の波はとどまることを知らない。昨年だけでも、私の周辺では一〇枚近くの田んぼが失われた。今さら嘆いても致し方がないことは重々承知の上だが、何やら淋しい気分もある。
やがては居ながらにして四季を堪能することがかなわなくなり、都会の人たち同様、四季を求めて郊外へ出なければならなくなるのだろうが、幸いなことに、その頃にはこちらの寿命が尽きていることだろう。
だからいま、稲の香を堪能している。