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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

民衆を愚弄する(左翼?)原理主義 サザンなどを巡って

2015-01-04 14:04:19 | 社会評論
 近頃気になる言説がある。
 そのひとつは、天皇誕生日の天皇談話や新年の談話が安倍氏を中心とするグループの国家観(はっきりいて極右的なそれ)と著しく異なることの指摘が各方面からなされているということに関連する。
 
 もう一つは、紅白歌合戦での桑田佳祐氏が、ヒトラーなみのちょび髭を付けて現れ、「ピースとハイライト」の歌詞を一部変更してまでそれを「平和と極右」というパフォーマンスとして展開したことへの評価についてである。
 後者は、安倍氏が桑田の人気にすりよって夫人同伴でそのライブに数日前に現れたばかりということもあって、強烈なしっぺ返しであったといえる。

          

 これらを「事実として」評価する向きは多い。しかし、それを問題にしようとするわけではない。
 問題はそれらの評価を誤りだと決めつける人たちの存在だ。
 その人たちというのは、ここで批判されている極右グループからの反論ではなく、逆に、(左翼?)原理主義とも思われる部分からの批判なのである。
 要するに、お前らは騙されている、天皇が世の中を変えてくれるわけではない、桑田佳祐氏が世直しをするわけではないというわけだ。

 しかしこれは、それを評価した民衆を全く愚弄した批判といえる。
 それを評価した人びとの誰が「天皇が世の中を変える」、「サザンが救世主だ」などと思ったのか。
 それは彼ら原理主義者が頭のなかででっち上げた幻想、案山子でしかない。
 だから、それを批判することは容易なのである。

          

 しかし、彼らが妄想するように、天皇や一バンドが世界を変える事ができるなどとは誰も思ってはいない。

 事実はこうだ。
 天皇談話についていうならば、現行憲法に抵触しないように慎重に言葉を選んだそれ自身は「伝統的保守的な言明」にしかすぎない。問題は、それとの対比で、安倍氏一派の国家意識が異様にウルトラ右翼であることが炙りだされたことにある。この事実を「事実」として評価して何が悪いのか。

 サザンに関していえば、そのNHKの紅白という場でのパフォーマンスを通じて、やはり安倍氏一派の極右ぶりを告発したという厳然たる事実がある。この「事実」を評価して何が悪いのか。

          

 繰り返すが、原理主義者が妄想するように、この「事実」を認めることは天皇制への回帰をいささかも意味しないし、ましてや桑田氏を教祖にすればいいということをも意味しない。
 彼らに喝采を送った民衆はその「事実」を率直に語ったのみなのだ。

 それへの原理主義の頑なさは見るに耐えない。
 戦前の天皇への直訴問題をも延々と引用しその無効性を訴えたりしている。説教される側としては「馬鹿にするなっ!」と怒鳴りつけてやりたいほどの執拗さだ。
 彼らは完全に民衆を愚弄し、一段と高いところから教訓とやらを垂れ流す。
 そして、自分がピュアーであることに自己満足し、心酔している。

          

 それらを見ると私は、戦前、もっとも反戦に力を入れなければならない時点で、当時の日共が打ち出した「社民主要敵論」思い出す。コミュニストの「純粋さ」を保つために、まずは社会民主主義者を倒せというわけだ。当時の小林多喜二の小説を読んでも、工場内での戦いは資本ではなく社会民主主義者に向けられている(例えば『安子』など)。
 「大山一派を倒せ!」というわけだ。かくて日共は、「純粋さ」を保つのだが、その結果がどうなったのかは歴史が示すとおりである。
 なお、この大山一派の頭目であった大山郁夫氏が戦後、レーニン平和賞を授与されたのは皮肉であった。

 同時に、ソ連時代の党が、その偏狭なイデオロギー(それ自身がくるくる変わった)をもとに、それからの些細な相違を見出し、それを「人民の敵」とみなして虐殺していったスターリにズムの全盛期をも思い出す。(左翼)原理主義者は、自分たちの言説がスターリニズムと同じ基盤に立つものであることに無自覚である。ようするに、人間の複数性、多様性に対する被害妄想的対峙であり、したがって本来、多様である民衆のあり方に対する愚弄と抑圧の意識しか持ち合わせていない。

          

 「事実」を指摘し、それを評価する向きに、過剰なものを勝手にくっつけて批判して自己満足のマスタベーションを行っている(左翼?)原理主義者に問いたい。
 君たちの誰が、あのサザンほど民衆に届く言説を放ちえたのか。
 民衆を愚弄している君たちには決して出来ない技であることをこそ自己批判すべきだろう。
 高みからの訳知り顔の説教には反吐が出る!


コメント (4)
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一万円の薬膳料理? 初夢のこと

2015-01-02 14:33:37 | よしなしごと
 初夢を見た。
 一説には、1月2日の夜に見る夢をもってそういうようだが、今年最初の夢を無視するわけにはゆかない。
 
 ところによっては、良い夢とそれが正夢であることを祈念して、宝船の絵に以下の短歌を添えたものを枕の下に敷いたりするようだ。
 この短歌「長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな」は良く出来ていて、回文になっている。「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」といった次第だ。

          

 ところで、これを枕の下に敷くからといって、いわゆる「枕絵」と取り違えてはいけない。こちらの方は「あぶな絵」とか「春画」の方である。
 まあしかし、これを枕の下に敷いても、面白い夢が見られるかもしれないが・・・。

 さて、私が見た夢。
 どういうわけか、家族全員ととっくに亡くなった義母が同じ布団の中で雑魚寝をしている。私は自分の人差し指を撫で回している(これを性的な象徴と観ることもできるが、そう決めつけるのは短絡だろう)。
 ところが、自分の指と思ったそれが、実は義母のものだった。義母は気づいたのか気づかなかったかがわからないままに眠っている。

          

 恥ずかしくなった私は、一人家を抜けだした。辺りはまだ、明けきってはいなかったが、やがて明るくなると、そこは里山のようなところで、一組の男女のペアーと出会った。女性の方は普通の服装であったが、男性の方は帽子から上下の服共に、モーツァルトの歌劇、『魔笛』の初期のイラストにあるパパゲーノのように異様なもので覆われていた。
 
 パパゲーノの方は鳥刺しとあって、その全身を覆っていたのは羽毛であったが、この男性のものはすべて植物であった。
 男はそれをすべて薬草だと説明した。すわ、危険ドラッグの製造の一味、と腰が引ける私に、薬草は薬草でも薬膳料理の素材なのだと説明した。そして自分の帽子の一部をちぎって食べてみろという。香味が強く、少し刺激的な味がしたが不味くはない。

          

 そこへもう一人の男が現れたが、彼は普通の格好で、どうやら薬草男の顧客らしい。「さっきの料理は美味しかったがいくら?」と尋ねる男に、薬草男は「ちょうど一万円でいいよ。それに、これをおまけにつけよう」と、乾燥した植物のようなものを一束その男に渡した。
 男は感激して、二人の間で薬膳(草)料理の話がいろいろ盛り上がっていたが、私としては一万円もする料理を押し付けられては大変とその場を逃げ出すことにした。

          

 足早に立ち去ろうとするのだが、背後にハイヒール様の足音がコツコツとついてくる。どうやら先程の女性の方らしい。別に脅威ではなかったが、少し前から尿意を催していて、どこか人目につかぬところがあったら放出したいと思っていたので、この女性にかくもぴったり尾行されるのには困惑した。
 困り果てて右往左往するところで目が覚めた。

          

 こうした場合、尿意というのはだいたいにおいて現実である。
 そこへと夢が収斂するようにできているものさえある。
 布団の中でしないための警告のようなものかもしれない。

 さて、夢の話はこれでおしまいだが、あえて分析めいたことはしない。
 そして、これを今年の運勢の予告と受け取めることもしない。
 しかし、割合、不合理や飛躍は少ない夢であったとはいえる。
 
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