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莫言の小説「白い犬とブランコ」とその映画化「故郷の香り」をめぐって

2014-11-03 17:20:54 | 映画評論
 さて、莫言(モー・イェン 1955年~ ちなみにGoogleの日本語変換だと「ばくげん」で出てくる)の小説とその映画化について書く予定が、枕に当たるノーベル賞とそれをめぐる「田母神家の人々」の反応についての記述で終わってしまったのが前回であった。
 莫言は2012年にノーベル文学賞をとるのだが、私はその作品を、映画化されたものを通じてしか知らなかった。
 その映画化された作品とは、「紅いコーリャン」(小説は「赤い高粱」)、「至福のとき」(小説も同じ)、そして「故郷の香り」(小説は「白い犬とブランコ」)の三作で、前二者は張芸謀(チャン・イーモウ)監督による。

 ちなみに張芸謀の映画については、上の二作のほかに「活きる」、「あの子探して」、「初恋のきた道」(チャン・ツィーが可愛かった)、「HERO」、「LOVERS」、「単騎、千里を走る」(タヌキではない。高倉健が出演)、「サンザシの樹の下で」などを観ているが、横文字のものは彼がハリウッドに絡め取られていた時期のもので、一大スペクタルではあるが張芸謀らしさがみてとれないものであった。

             

 そして、FBで友人との間で話題になったのは、映画「故郷の香り」(小説は「白い犬とブランコ」)であった。これは霍建起(フォ・ジェンチー)監督によるもので、この人の作品で日本でよく知られているのは「山の郵便配達」(原題「あの山、あの人、あの犬」であろう。ほかに私は「ションヤンの酒家」(原題「生活秀」)を見ていて、これは都会派に属する映画であった。

             

 で、映画「故郷の香り」と原作の「白い犬とブランコ」のどこが問題になったかというと、この両者の乖離が著しいというか著しすぎるのではないかということであった。友人は両者を知っていてそれを主張していたが、映画しか観ていない私はそれを検証すべく遅ればせながら原作にあたったという次第である。

 原作と映画の乖離はどの作品でも多かれ少なかれあるものであるし、それを非難しても致し方なく、その乖離が劇的に激しいものは、まあ、別の作品として観るほかないだろうというのが私のスタンスである。それに、その乖離のお陰で、映画のほうが素晴らしい場合も有り得るのだから。

             

 結論からいうと、上記の場合は、その友人のいうとおり、その乖離はとても大きく、そのテーマにまで関わるものなので、やはり別の作品というべきだろうというのが私の意見である。ちなみに、脚本は監督の連れ合い秋実(チウ・シー)によるものであるから、原作に忠実であろうとしながらそうした差異が生じていしまったというより、むしろ、意識してそうした映画を作ったといったほうがいいのかもしれない。

 さまざまな差異がある。 
 まずブランコの事故でヒロインが負傷をした箇所が映画では足であるにもかかわらず、原作では目である。しかも片目を完全に失って義眼というからその差異は大きい。ついでヒロインの子供が映画では一人の女の子だが、原作ではヒロインの夫同様ろうあ者の三つ子の男の子で、その存在感はまったく違う。
 さらにもっと象徴的なのは、原作の「白い犬」と「ブランコ」のうち、映画ではブランコそのものが狂言回しのように使われているが、「白い犬」は登場しない。逆に原作では、「ブランコ」はヒロインの負傷の説明に使われるのみだが、「白い犬」が終始、象徴的な役割を担った狂言回しの役を演じる。

          

 そして見逃せない大きな違いは、莫言の「農村もの」の舞台のほとんどが彼の生まれ故郷の山東省高密県(朝鮮半島の38度線とほぼ同じ緯度)で、この原作もそうなのだが、映画の舞台設定はそれより1000キロほど南の、上海と香港の間ぐらいに位置する江西省貽源県になっていることだ。
 この違いは、中国北部の、どちらかといえば乾燥した荒々しい地形に対し、南部のしっとりとした緑の多い地区へと舞台が移されたということで、しかもそれは意識的に行われている思われる。

 そしてこれらの違い、とりわけこの映画のラストシーンに関わる相違は、この映画と原作のテーマそのものの差異へと全て関連してきている。
 映画を語るとき、余程の古典でない限りそのネタをばらさないのが主義なので、そのラストシーンの相違を具体的には語らないが、そのテーマそのものの鮮烈な違いを示唆することは許されるだろう。

          

 まず原作であるが、北方のやや荒々しい風土にそって配置された小道具や人物設定はいずれもいくぶんドライで、その語り口もヒロインのかつての恋人で10年ぶりに都市から故郷へ帰ってきた男の一人称で語られるのであるが、いわゆる内面描写は極力簡潔にし、各登場人物のそれも、台詞に出た以上に憶測されることはない。ようするに、事実をして語らしめることに徹している。

 結末も予定調和的ではなく意外性に富んでいてワイルドである。この乾いた風景のなかで展開される物語は、都会化された語り手の思惑を常に裏切る。ここでは、都市と農村は容易に通底しないまま、私たちの前に投げ出されている。

 それに反して映画の方は、設定された南方のウエットな土地柄をバックに、叙情性豊かなヒューマンドラマとして展開される。登場人物のいわゆる内面も、その表情や仕草のなかで過剰なほどに表出されている。私たち観客は表面に露呈されたもの以上の推測を可能にするいくつかのヒントを与えられ、結末へと誘導されてゆく。それはそれで、映画のテクニックであることには間違いない。

          

 そして映画の結末は、ある種の意外性をはらみながらもやはり予定調和的なものとして提示され、観客のリリシズムへの傾斜を十分満足させることとなる。
 したがって、原作の方が都市と農村の間の亀裂を示唆するのに対し、映画の方の農村は近代的な感覚の中に吸収され、そこにはもはやどんな溝もない。

 以上のことからして、この原作である小説、「白い犬とブランコ」と、映画、「故郷の香り」はまったく異なる結末とテーマをもった別の作品といっていいだろう。後者は、前者のシチュエーションや小道具を部分的に借用した別の作品といっていい。
 その最も大きな相違は、小説が近代化され都市に吸収されつつある中国の農村の、いまなお吸収されつくされない余剰としての情念のようなものに触れているとしたら、映画の方は、そうした近代化のなかで都市に馴致され、その感性や叙情をも同化されてゆく農村を描いている。

          

 どちらがいいとは言うまい。好みの問題ともいえよう。
 ただ、私としてはその映画の完成度は評価するにしても、そこで表出されている人間省察の深みと問題意識としては小説の方に分があるように思う。


<追記>そうした比較検討とは関係ないが、映画の方には当時の香川照之がヒロインの亭主役の聾唖者を演じていて、その存在感を存分に示していた。助演でありながらしばしば主役の二人を食う勢いで、その証拠に、東京国際映画祭ではその熱演で男優賞を得ている。

 
 

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莫言の小説とその映画 《序》「田母神家の人々」

2014-11-02 14:23:16 | 日記
 事の起こりはノーベル賞にある。
 本年度のノーベル物理学賞に日本人の3人(正確には一人はアメリカ籍)が選ばれた際、わが田母神俊雄氏がえたりやおうとばかりに、わが日本民族の優秀性を褒め称え、中国や韓国でノーベル賞をとった者などかつていないではないかといわゆるドヤ顔でのたもうたのである。
 すると、根っからの単細胞であるネウヨ諸氏がその尻馬に乗って、レイシストぶりをフルに発揮してリツイートのオンパレードといった始末。

 そんなもの事実であるかどうかはちょっとググれば分かりそうなものだが、その手間をかけようとはしない。なぜなら、彼らのいいたいことは「事実」に関してではなく、ようするに、日本民族がいかに優秀であるか、中韓がそれに比していかに劣等であるかという「信仰」の表明に過ぎないのだから。
 そうした「信仰」表明自体が、いかにその「劣等性」を露わにしているかという「事実」も含め、そもそも「事実」なんてどうでもよいのである。

            

 しかし、「事実」にこだわるならば、それは以下である。
   2000年 金大中(韓国) 平和賞
   2000年 高行健(中国) 文学賞
   2010年 劉暁波(中国) 平和賞
   2012年 莫 言(中国) 文学賞
 少し古いが台湾からは以下の2氏が受賞している。
   1957年 李政道     物理学賞
   1957年 楊振寧     物理学賞

 なお、学問の世界に詳しい人の情報によると、現在、世界の学会に公表される論文数は中国や韓国が急上昇しているのに比べ、日本のそれは著しい減少傾向にあるというから、いまのところ数の上では日本人の受賞者が多いが、将来は予断を許さないという。

             

 しかし、私が書きたいことはそうした「田母神家の人々」についてではない。
 実はこれは前置きであって、この件についてある友人とFBでやりとりをしているうちに、話は上に述べた中国の作家・莫言の作品に及んだという、まさにその件についてである。
 その際、原作と映画化されたものとの対比というか、その相違という話になったのだが、私は彼の作品が映画化されたものはかなり観ているのだが原作には触れていなかった。

 で、それをちゃんと検分するためにはやはり原作に当たらねばということで、今回、それを読んで感じたりしたことをその友人への報告を兼ねて述べてみようと思うのだ。
 しかし、ここまででずいぶん長くなってしまった。
 ここまでを《序》として本編の方は改めて書くこととしよう。
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