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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

埋められた風景たち スーパーへの途上で

2014-11-22 23:21:53 | 日記
  写真は11月22日午後、自宅からスーパーへの道すがらで
 
 午前中は農協へ野菜を仕入れに行ったが、午後はスーパーへ徒歩で野菜以外のものを仕入れに出かける。主夫はなかなか忙しい。

          

 歩き慣れた道だが、時々歳々、風景が代わる。
 春に花をつけた樹が今は紅葉を迎えようとしている。そして、やがて白いものが降るかもしれない。もちろんこれらは、自然自身の営みといっていいだろう。
 春、水が張られた田に、頼りなげに植えられた稲が、夏にはたくましく根を張り葉を伸ばし、やがて黄金の実をつけて頭を垂れる。それらも今や刈り取られて跡形もない。これは人間と自然の共労といっていいだろう。

          

 こうした季節の移り変わりのみではなく、生態系の変動による自然の変化もある。見知らぬ植物が現れたかと思うとあれよあれよという間にその辺に群生したり、民家の庭園に外来種の花が咲き誇り、それが周辺の家々に拡散したりもする。

          

 これらはいわゆる人為によるものだが、そのなかには、移植など人が具体的に関与した結果もあるが、一方、個々の人間は無意識であろうとも、人類総体の営為によって生態系が変化した結果によるものもある。
 地球温暖化など自然環境全体の変化が動植物のありようや、その季節のサイクルをも変える。
 しかし、これらはすでに具体的に指摘されて久しい現在、もはや「無意識の営為」とはいえない段階だろう。

          

 しかしなんといっても、もっともドラスティックな風景の変化は、人間の直接の関与によるものである。ほぼ半世紀、同じ場所に住んでいるとそれがよく分かる。田圃の中に突如出現するマンション、それらがポツリ、ポツリと蔓延するにしたがって、田圃は減り、風景は激変する。
 かつては、うちから見ることができた長良川の花火もいまや音で知るしかない。

          

 メダカや小鮒が戯れていた小川も、コンクリート製のÙ字溝にとって代わられ、しかも田に水を必要としない一年の半分以上は、水のない、したがってもはや川とはいえぬ水の運搬路に成り果てた。

          

 田園地帯から住宅街への変遷に伴って、幾多の商店、飲食店などができたが、その大半は流通の変化などに対応しきれずすでにして終焉を迎えている。
 うちよりもあとに出来、うちよりもはるかに丈夫な鉄筋コンクリートの建物が壊され建て替えられる。

          

 こうして変更される風景は、どんどん上塗りされてゆく絵画のように、もはやその原風景をとどめることはない。私がここへ来たとき目にしたそれらはとっくに考古学的な過去へと沈潜してしまった。

          

 これが歴史というものの、私の周辺での空間的な現れ方であろう。かつて私が目にしたモノたち、そして古層へと埋められてしまったモノたち、それに「昭和」とか「戦後」とか名づけて呼び戻すことを夢想しながら、スーパーへの道を歩くのだった。




 
コメント
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