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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

師走選挙の「大義」と民主主義という名の寡頭制

2014-11-24 11:18:25 | 社会評論
 前回の衆議院選挙同様、またしても師走の選挙ですね。
 選挙になると飲食店は暇になるといいます。
 これは事実です。
 候補者やその支援に直接係る人たちは多忙ですから飲み屋で一杯などは疎遠になります。官庁や地方自治体、警察なども多忙になります。
 官庁や地方自治体役所を対象とした飲食店では、すでに忘年会のキャンセルが多発しているということです。
 お歳暮も低調になります。
 下手にものを贈ったり、飲食店に誘ったりしたら、買収と疑われる可能性があるからです。
 選挙になると飲食店が暇になるというのは一般的な事実ですし、私の経験知でもあります。しかもそれが師走ですから、大きな影響があることでしょう。

          

 「大義なき解散」といわれます。解散の大義は何かはさておくとして、現実には、これまで一応機能してきた代議制を一旦ストップし、リセットしようというわけです。
 ところで、この代議制というのはその多数決原理と並んで民主主義の今日的ありようだといわれるのですが本当にそうでしょうか。民主主義(デモクラシー)がその本来の語源からして、民衆(=デモス)の支配あるいは権力(=クラティア)であるとしたら、代議制はほんとうにそうした民衆の支配を可能にするものでしょうか。

          

 歴史的にいえば、専制君主制、寡頭的貴族制、全体主義的支配などを経て、現在は民主主義の時代だといわれています。しかし、今日の代議制は果たして民衆の支配を実現しているかどうかです。
 今日の代議制を支える「自由な」選挙は、マーケッティングとマネージメントに深く侵犯されています。選挙になると広告代理店が多忙になり、各種メディアが活性化します。投票という「消費」がブランド効果やキャンペーンによるイメージ化によって支配されるわけです。

 こうした状況下で行われる選挙での投票に限定される民主主義は、実は民衆の支配による民主主義とは別物の、上にみたような選挙市場に特権的な力をもった階層による寡頭制にすぎないのではないでしょうか。

          

 ではそうした硬直した「擬似」民主主義から脱却することはできないのでしょうか。
 その可能性は公共空間での自由な人々の討論にこそあります。
 それらが保証されないままに、ただ投票行動のみに誘われる現状は民主主義とは無縁なのです。
 「各個人の自由の拡大による公共空間に保証されない政治的代議制は単なるオペレッタ」というのは、ハンナ・アーレントの言葉です。

 翻って現状をみましょう。実は、「公共空間での自由な人々の討論」が部分的限定的ではありますが実現しかかっていたのです。
 いわゆるアベノミクスに対する人々の評価と討論の始まりがそうです。華々しいキャッチコピーや美辞麗句によって包まれたいたその実像がやっと明らかになり始め、それを巡って人々が自由な討議の場につき始めていたのです。各種メディアやネットによってその実像があらわになり、その結果として安倍内閣の支持率が発足以来はじめて50%を切り、次第にその評価が実像に近づきつつあり、さらに論議の輪が広がろうとしていたのでした。

          
 
 その矢先の解散です。
 アベノミクスを中心とした安倍政権の政策の是非を具体的に論議する自由な公共空間がやっと開かれそうなまさにその時点で、そうした論議をを妨げるものとして行われたのが今回の解散なのです。だからそれは「信を問う」という言い分にもかかわらず、そうした論議を予め圧殺しようとする反民主主義的で有害な茶番劇であり、いわゆる政治代表制が実は具体的な民衆の論議を忌避する寡頭支配の一形態にほかならないことを明らかにしたものといえるのです。

          

 しかし、まだ可能性は残されています。野党間の政治提携などという政治力学的方策はともかく、まずはせっかく開かれそうになった安倍政治への自由な討論の場を継承しながら、発言を続けることです。
 そこにこそ、理念や制度ではない運動としての民主主義が存続するのです。

 それを諦めたとき、私たちの行き着く道は二つしかありません。
 完全な政治的アパシーかあるいはテロルがそれです。

 
コメント
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