六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

三日ぶりの釈放と「はざかけ」の復活

2011-10-10 01:32:03 | よしなしごと
 ここ三日間、家から一歩も外へ出ませんでした。
 もっとも昨日は庭で土いじりを三時間ほどしましたから、一歩もといっていいかどうかは微妙です。まあ、自分の土地からは一歩も出なかったということでしょうか。
 おかげで今日は起床時に節々がギクシャクしましたが、若いせいもあって(?)午後にはちゃんと回復しました。

       
            いざ脱獄へ! これは隣接する土地の内側から

 しかし、こう閉じこもっていると、やはり閉塞感が溜まってきます。
 夕方から、近くのスーパーへ買い物かたがた散歩に出かけることにしました。

 ほんの三日間ほど見なかった間に、なんだか周辺の風景が少し変わったような気がしました。
 なんだろうと思っていてふと気づきました。
 このあたりでもやっと稲刈りが始まったのです。
 私の家のすぐ近くの田はまだそのままだったので気づかなかったのですが、少し離れた所ではもう半分ほどの田が稲刈りを済ませていいます。
 兼業農家がこの連休を利用して行なっているのでしょう。

       

 この辺の稲刈りは結構遅いのです。
 それは稲の品種が「はつしも」という、文字通り霜が降りそうな時期に収穫する遅場米だからです。

 稲がなくなった田は一夜にして何もかもなくなったようでへんに寂しいものがあります。
 しかし、しばらく行くと「はざかけ」をしている田にでくわしました。
 「はざかけ」とは文字通り刈り取った稲を「はざ(稲架)」にかけて干す伝統的な方法で、ようするに天日干しなのです。そしてこれは、私の子供の頃はどの田でもこの時期見られたものでした。もっとも昔の「はざ」は丸太と竹で出来ていましたが、昨今のものはパイプの組み合わせでできています。

       

 ところでこの「はざかけ」、一時は殆ど見られなくなった光景なのです。
 それは、コンバインが高性能化し、刈り取ると同時に稲を脱穀し南京袋などに収め、稲わらはバラバラにして田に散らし、そのまま鋤き込んでしまう方法が一般化したからなのです。
 こうして取り込まれた籾殻付きの米を人工的に乾燥させる乾燥機の発達も「はざかけ」という風景をなくすのに一役買いました。

       

 しかしです、こうした合理化に逆行するように、最近はまた「はざかけ」が復活しつつあるのです。
 結論をいえば、こうした天日干しの米の美味さが見直されるようになり、それを付加価値としてわざわざ「はざかけ米」を明記して売られるケースも出てきたからです。
 さらには飲食店などでも、これまでのブランド米の頭に「はざかけ・はつしも使用」などとそれを強調する風潮も出てきたといいます。

       
 
 お陰で、子供の頃から見慣れた田園風景が部分的に復活しつつあるということなのです。
 さきに書いたように、一夜にして田がのっぺりするのは寂しいものです。そこへゆくとこの「はざかけ」は、たしかにそこに田が広がっていた痕跡を残してくれます。

 「はざかけ」に近寄ると、刈ったばかりの稲のあの独特の匂いが鼻孔いっぱいに広がります。そして私を、田んぼを駆けまわって自然とすっかり馴染んでいた頃の少年前期へと連れ戻すのです。
 B29による空爆がなくなり、空はあくまでも青くきょとんと広がり、やがて歴史の一大変換を迎えようとする日々のことです。

       

これを読んで、この時期の悲しい思い出に涙するひとを知っています。
 今年もその人を泣かせたかも知れません。
 でも涙と共にであれ、去っていったひとを思い出によみがえらせることは悪いことではないでしょう。
 もう、その思い出の中にしか生きていないひとなのですから。 





 

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スティーブ・ジョブス氏の講演おぼえがき

2011-10-07 21:43:12 | ひとを弔う
  写真は私の散歩道から 内容とは関係ありません。

 先日、金木犀の香につられてずいぶん前になくなった人のことを書きましたが、唐突で舌足らずだったと思います。それは私のためにではなく、彼女の周辺にいた関係者のためにも、詳しくは書けない事情があったからです。

 そんなことをすこし気に病んでいたら、実在する人がなくなったと報じられました。。
 アップル社の創業者、スティーブ・ジョブス氏のことです。その事実や業績は既に言い尽くされていますし、私のように20年近くのMacの愛用者である以外なんの関連もない者が屋上屋を重ねるようなことを言うのも憚られるのですが、まあ、メモ程度に書いておこうと思うわけです。

       
           枯れ始めたレンコン畑 やがて収穫の時期へ

 カリスマ経営者というのは結構いますね。日本でいったら松下幸之助氏や盛田昭夫氏、それに本田宗一郎氏などがそれに相当するかも知れません。
 しかし、経営手腕はさておき、その製品にその人格や思想のようなものまでにじみ出ている点でやはりジョブス氏は一頭地抜けているように思います。なぜそれが可能になったのかは後で述べます。

 彼が只者ではないなと思ったのは割と最近のことで、2005年のスタンフォード大学での卒業記念講演を知った時からです。
 彼はそこで話の焦点を三つに絞って述べています。

       
         コムラサキ 紫式部に似ているがこちらのほうが華やか

 そのひとつは、家族の授業料負担などの事情もあって、彼が大学を中退したことに関わります。
 その結果彼は、大学のカリキュラムや単位取得のための勉強に囚われることなく自由に学ぶことができたということを強調しています。彼がそこで学んだカリグラフィー(文字装飾)への興味は、後のアップル製品のデザインとして生きているように思うのです。

 二つ目に語っているのは、創業者でありながらアップル社を追われたことについてです。この間11年、彼はオールCGによるアニメを製作するなど、コンピュータ周辺の分野で幅広い経験を積んできました。
 これが復帰後の様々な製品の開発に大きく影響したものと思います。

 三番目に彼が語っているのは、すい臓がんで迫り来る死を宣告されたことについてです。ようするに死に直面せざるを得なくなったのですが、彼はその中で余分なプライドや失敗への恐れなどを削ぎ落とし、残ったところに真の創造性があることを悟ったといいます。
 そして、死こそが創造や生成の原動力であるとまで言い切っているのですが、ここまで来ると、死の先駆性を語ったドイツのあの哲学者を想起してしまいます。

       
            キバナセンニチコウ(黄花千日紅)の群生

 そして彼の最後の結びの言葉は「Sty hungry. Sty foolish.」です。
 「ハングリー精神を持て」というのは聞き慣れていますが、「無知にとどまれ」は、いわば「無知の知」でしょうか。しかしこの言葉は、二つ合わせると面白いと思うのです。

 彼の講演についてはこれで終わりですが、この三つのエピソードを貫いているキーワードは「自由」ということだろうと思います。大学という体制や、経営者という枠を外されたり、死に直面して俗なこだわりから離脱したりして得た「自由な境地」こそが彼のフィールドだったのでしょう。

       
        廃屋フェチの私がよく訪れるところ 次第に自然へと還ってゆく

 よく、アップル社の製品は使い易い、それはジョブス氏が消費者の目線に立って製品を開発するからだと言われています。
 しかしこの「消費者の目線に立って」というのはいまやその辺の三文経営者でも必ず口にします。いってみれば、消費者の目線に立てばその製品は売れるのだとギンギラになって考えるところが既に消費者とは違う地点なのです。

 ジョブス氏は「消費者の目線に立って」いたのではなく、消費者そのものだったのではないかと思います。自分がまずその製品に喜びを感じ、スムースな使用にこだわること、それのみに心を砕いたのでしょう。
 それがアップルの製品にはジョブス氏の人格や思想まで表現されていると言われる所以ではないかと思います。

       
      激しく吠えていたのに近づきカメラを構えた途端静かに 不思議なワン公

 ジョブス氏についてのこれらの言葉は、いささか褒め過ぎかも知れません。きっと私の知らないところでは、きれいごとのみでは済まない面をもっていたのだとも思います。しかし、経営者という人種とはあまり馴染みのない私にとっても、結構面白い人だったなぁと思えるのも事実です。

 なにはともあれ、彼の安らかな眠りを祈りたいと思います。   合掌
 
(ジョブスさん、これはMacBook Airで書きました。私にとっては五台目のMacです。そのうち三台はまだ手元にあります。十数年前のPerformaも、電源を入れるとちゃんと動きますよ)



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あのひとを送った日の金木犀の香

2011-10-06 05:31:31 | 想い出を掘り起こす
 もう何十年も前のことである。
 私をかわいがってくれた年上の女性がなくなった。
 彼女の相方もよく知っていて、男として私が出る幕はなかったが、どういうわけか、二人でしんみり話す機会が結構あった。

 彼女は、男勝りでテキパキものをいうことで通っていたので葬儀ももっぱらそのイメージで行われた。私はと言うと、彼女に親しい人たちからはいくぶん距離を置き、仕事への途上とあってネクタイだけ黒にして隅っこのほうで参加していた。

 彼女の既存のイメージに合わせて、勇壮な弔辞が読まれていた。私はと言うと、「う~ん、それちょっと違うんだがなぁ」という思いがあったが、弔問に異義を申し立てることなど出来ず、またできたとしても、「六!やめておいたほうがいいよ」という彼女の思いが聞こえそうで、黙ってその場を去ることにした。

       
 
 強烈な香りが私の鼻孔を襲ったのはそのときであった。
 折から咲き始めた金木犀の香りであった。
 そのとき、私は思い出していた。気丈な彼女が私の胸で体を震わせてオイオイ泣いたことがあったのを。
 引き返して棺の中の彼女を抱きしめてやりたい思いに駆られた。

 彼女は強い女だと言われそれを演じきってきた。
 彼女はしたたかで気が利く女だと言われそれを踏み外さないできた。
 そうした彼女も、赤子のようにオイオイ泣くもう一人の彼女と同居していたのだ。

 私はその双方の彼女と別れた。
 葬儀場の寺の一角にあった馥郁たる香を放つ金木犀の木に、まるで彼女の卒塔婆であるかのように合掌をしながら。

 「金木犀忌」というのが誰かの忌ですでにあるのかも知れない。
 しかし、私にとっての「金木犀忌」はまさに彼女の命日である、

 彼女との約束で果たせていなことがある。私が谷あいの地で、暮れゆく陽に向かって即興のトランペットを吹くという約束である。
 もはや聞く人はいない。でも試みてみたい。
 トランペットは無理だとしてもフルートは音階だけは習った。
 簡単な曲ならたどたどしく吹けるかも知れない。
 それがダメなら、今池のウィーン少年合唱団と言われる私が自らの声で歌うことだ。

 クストリッファの映画のように、今こそ恩讐を越えて歌うべきなのだ。
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コキアってなあに? ひるがの高原コキアパーク

2011-10-03 04:24:40 | 花便り&花をめぐって
 前回の分水嶺公園の続きです。そこから車で数分もかからないところに「花の駅 ひるがの高原コキアパーク」があり、そこへも行ってきました。
 「コキア」って知ってる人は知っていますよね。知らない人は知らないでしょうが(当たり前だ)、読み続けていただければちゃんと種明かしをします。

       
               やや逆光気味だが大日岳

 まずこの場所なのですが、実はひるがの高原のスキー場なのです。
 そのスキーのオフシーズンに開いているのがこのコキアパークで、リフトやマイクロバスでスキー場の山頂付近へ運んでくれ、そこからの眺望を楽しみ、下りながら途中のお花畑などを楽しむことがきます。

       
             スキー場を取り巻くススキの海
 
 山頂の眺めは素晴らしく、すぐ西の大日岳からさらには加賀の白山を望むことができます。ここは奥美濃のどん詰り、飛騨や越中、加賀の山々も見渡せる絶景ポイントなのです。

       
             北西の眺望 左上方の高い山は白山

 ところでそのお花畑ですが、様々な花がまさに百花繚乱と咲き乱れる中、異様な形態の植物群があります。それが当の「コキア」なのです。
 広いスキー場ではありますが、そこに三万本のコキアがあるといったらまさに壮観ですね。

       

   

 これがまさに紅葉し始めたコキアです。
 一本一本はご覧になったことがあるでしょうが、これだけまとまるとかえって分かりにくいかも知れませんね。
 ここから下ったところにそれらを干したものがありました。

       

       

 もうお分かりですね。そうなのです、いわゆるホウキグサでそのラテン名が「コキア」なのです。
 若い人にはなぜホウキグサかわからないかも知れません。
 この一年生の草、実際に乾燥させてほうきとして使ったのです。
 私が田舎にいた頃も、屋敷内にニ、三本は植えられていて、それを乾燥させてほうきとして実際に使用したものでした。

       

 なおこのホウキグサの実は、秋田名物の「とんぶり」としても知られ、そのプチプチした食感から「和製キャビア」などと言われたりもします。

       

 しかし、この空間、コキアにこだわることなく、高原の風光と空気を満喫するにふさわしい場所です。
 スキー場を取り囲むススキが山肌をなでる風になびくさまも素敵で、下界での下世話な煩悩など吹き飛ばしてくれるロケーションです。

 爽快な秋の気配を体いっぱいに浴びてきました。
 しかし、あと一ヶ月半もすると、ここは雪に閉ざされ、その雪の上をスキーヤーやスノーボーダーが舞う季節になるのです。
 


その他の写真は下記に。 
 
  

  
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北と南へ泣き別れ? ある分水嶺の物語

2011-10-01 02:33:18 | 写真とおしゃべり
  国道156号線、ないしは東海北陸道を名古屋・岐阜方面から北上すると、当初は長良川に並行しその上流へと進むのだが、いつしか今度は、荘川の下流へと並行して進むことになる。
 いわゆる分水嶺を越えるわけなのだが、その周辺がひるがの高原である。

          

 これは156号線を走るといたって分かりやすく、長良川を上流に並行して走っていたはずなのにそれが消え、すこし坂を登りつめると高原が開け、そこのスキー場を右手に見ながらしばらく走ると今度は下り坂になり、並行する川が北へ向かって流れるようになる。それが荘川の支流である。
 こうした分水嶺をいたって分かりやすく、その縮図を目の当たりに見ることが出来るのがひるがの高原内にある分水嶺公園である。

       
           左は長良川経由で太平洋に 右は荘川経由で日本海へ

 公園といってもさして広い場所ではない。上流から幅2メートルにも満たないせせらぎが流れてきて小さな池のような箇所に至る。その池からの出口で水たちは三角形の岩の頂点のような箇所で左右に別れる。
 このささやかな別れが、実は、かたや荘川水系に合流し日本海へと至り、かたや長良川に吸収され太平洋へと注ぐ壮大な別れになるのだが、当の水たちはそれを知る由もない。

           
              その上流のせせらぎ どの水がどちらへ
 
 それを目の当たりに見ることができるのがこの分水嶺公園の面白さである。私はこれで通算三度目だが、そのささやかでありながら壮大な別れの光景には飽きることはない。

 ところで、私の野次馬根性はそれを観ただけで納まるものではない。
 問題はこうして日本海側と太平洋側とに別れた水たちが再び出会う可能性があるのだろうかということである。
 ようするに「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはんとぞ思う」(崇徳院 詞花和歌集 百人一首にも収録)の現代的追体験の試みである。「われても末に」逢えるか逢えないかということである。
 海は繋がっているから逢えるだろうでは答えにならない。問題は日本近海でのその可能性である。

       
           水を分ける岩 左は日本海へ 右は太平洋へ

 そこで日本近海の海流を調べてみた。
 日本海側は対馬海流が北上している。したがって荘川から富山湾に注いだ水もそれに乗って北上するものと思われる。
 また、太平洋側はいわゆる黒潮(日本海流)が北上していて、長良川から伊勢湾に至った水もその流れに乗るはずである。
 だとすれば、この二つの海流が出会う日本の北部で分水嶺で別れた水は出逢えるはずである。

 ところが、ところがである、北上する黒潮(日本海流)は北からやってくる親潮(千島海流)に割って入られ、その進路を大きく東の太平洋へと押しやられてしまうのだ。
 ようするに、対馬海流はそのままオホーツク海に、そして黒潮(日本海流)は太平洋へと引き裂かれてしまうのである。
 このままでは崇徳院の願いは虚しく「われても末に」は逢えないことになってしまう。

       

 しかし、またもやしかし、しかしである。
 海流図を見ていると、日本海側を北上する対馬海流の一部が、本州と北海道の間の津軽海峡を通って太平洋側に至っているのだ。そしてそれは南下する親潮(千島海流)に伴って東北沿岸を南へと進み、銚子沖では黒潮(日本海流)と接することになる。
 だとするとこの銚子沖で、ひるがの高原で南北に別れた水が再び出会う可能性があるわけだ。

 くだらない想像と一蹴されそうだが、ほんとうにそうなら面白いと思う。
 そこで一首。
 「ひるが野で岩にせかれし水なれど銚子沖にて逢わんとぞ思う」(不徳院)

 おまけの分水嶺付近の写真です。

  

  


 
 

 

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