*写真は私の散歩道から 内容とは関係ありません。
先日、金木犀の香につられてずいぶん前になくなった人のことを書きましたが、唐突で舌足らずだったと思います。それは私のためにではなく、彼女の周辺にいた関係者のためにも、詳しくは書けない事情があったからです。
そんなことをすこし気に病んでいたら、実在する人がなくなったと報じられました。。
アップル社の創業者、スティーブ・ジョブス氏のことです。その事実や業績は既に言い尽くされていますし、私のように20年近くのMacの愛用者である以外なんの関連もない者が屋上屋を重ねるようなことを言うのも憚られるのですが、まあ、メモ程度に書いておこうと思うわけです。
枯れ始めたレンコン畑 やがて収穫の時期へ
カリスマ経営者というのは結構いますね。日本でいったら松下幸之助氏や盛田昭夫氏、それに本田宗一郎氏などがそれに相当するかも知れません。
しかし、経営手腕はさておき、その製品にその人格や思想のようなものまでにじみ出ている点でやはりジョブス氏は一頭地抜けているように思います。なぜそれが可能になったのかは後で述べます。
彼が只者ではないなと思ったのは割と最近のことで、2005年のスタンフォード大学での卒業記念講演を知った時からです。
彼はそこで話の焦点を三つに絞って述べています。
コムラサキ 紫式部に似ているがこちらのほうが華やか
そのひとつは、家族の授業料負担などの事情もあって、彼が大学を中退したことに関わります。
その結果彼は、大学のカリキュラムや単位取得のための勉強に囚われることなく自由に学ぶことができたということを強調しています。彼がそこで学んだカリグラフィー(文字装飾)への興味は、後のアップル製品のデザインとして生きているように思うのです。
二つ目に語っているのは、創業者でありながらアップル社を追われたことについてです。この間11年、彼はオールCGによるアニメを製作するなど、コンピュータ周辺の分野で幅広い経験を積んできました。
これが復帰後の様々な製品の開発に大きく影響したものと思います。
三番目に彼が語っているのは、すい臓がんで迫り来る死を宣告されたことについてです。ようするに死に直面せざるを得なくなったのですが、彼はその中で余分なプライドや失敗への恐れなどを削ぎ落とし、残ったところに真の創造性があることを悟ったといいます。
そして、死こそが創造や生成の原動力であるとまで言い切っているのですが、ここまで来ると、死の先駆性を語ったドイツのあの哲学者を想起してしまいます。
キバナセンニチコウ(黄花千日紅)の群生
そして彼の最後の結びの言葉は「Sty hungry. Sty foolish.」です。
「ハングリー精神を持て」というのは聞き慣れていますが、「無知にとどまれ」は、いわば「無知の知」でしょうか。しかしこの言葉は、二つ合わせると面白いと思うのです。
彼の講演についてはこれで終わりですが、この三つのエピソードを貫いているキーワードは「自由」ということだろうと思います。大学という体制や、経営者という枠を外されたり、死に直面して俗なこだわりから離脱したりして得た「自由な境地」こそが彼のフィールドだったのでしょう。
廃屋フェチの私がよく訪れるところ 次第に自然へと還ってゆく
よく、アップル社の製品は使い易い、それはジョブス氏が消費者の目線に立って製品を開発するからだと言われています。
しかしこの「消費者の目線に立って」というのはいまやその辺の三文経営者でも必ず口にします。いってみれば、消費者の目線に立てばその製品は売れるのだとギンギラになって考えるところが既に消費者とは違う地点なのです。
ジョブス氏は「消費者の目線に立って」いたのではなく、消費者そのものだったのではないかと思います。自分がまずその製品に喜びを感じ、スムースな使用にこだわること、それのみに心を砕いたのでしょう。
それがアップルの製品にはジョブス氏の人格や思想まで表現されていると言われる所以ではないかと思います。
激しく吠えていたのに近づきカメラを構えた途端静かに 不思議なワン公
ジョブス氏についてのこれらの言葉は、いささか褒め過ぎかも知れません。きっと私の知らないところでは、きれいごとのみでは済まない面をもっていたのだとも思います。しかし、経営者という人種とはあまり馴染みのない私にとっても、結構面白い人だったなぁと思えるのも事実です。
なにはともあれ、彼の安らかな眠りを祈りたいと思います。 合掌
(ジョブスさん、これはMacBook Airで書きました。私にとっては五台目のMacです。そのうち三台はまだ手元にあります。十数年前のPerformaも、電源を入れるとちゃんと動きますよ)
先日、金木犀の香につられてずいぶん前になくなった人のことを書きましたが、唐突で舌足らずだったと思います。それは私のためにではなく、彼女の周辺にいた関係者のためにも、詳しくは書けない事情があったからです。
そんなことをすこし気に病んでいたら、実在する人がなくなったと報じられました。。
アップル社の創業者、スティーブ・ジョブス氏のことです。その事実や業績は既に言い尽くされていますし、私のように20年近くのMacの愛用者である以外なんの関連もない者が屋上屋を重ねるようなことを言うのも憚られるのですが、まあ、メモ程度に書いておこうと思うわけです。
枯れ始めたレンコン畑 やがて収穫の時期へ
カリスマ経営者というのは結構いますね。日本でいったら松下幸之助氏や盛田昭夫氏、それに本田宗一郎氏などがそれに相当するかも知れません。
しかし、経営手腕はさておき、その製品にその人格や思想のようなものまでにじみ出ている点でやはりジョブス氏は一頭地抜けているように思います。なぜそれが可能になったのかは後で述べます。
彼が只者ではないなと思ったのは割と最近のことで、2005年のスタンフォード大学での卒業記念講演を知った時からです。
彼はそこで話の焦点を三つに絞って述べています。
コムラサキ 紫式部に似ているがこちらのほうが華やか
そのひとつは、家族の授業料負担などの事情もあって、彼が大学を中退したことに関わります。
その結果彼は、大学のカリキュラムや単位取得のための勉強に囚われることなく自由に学ぶことができたということを強調しています。彼がそこで学んだカリグラフィー(文字装飾)への興味は、後のアップル製品のデザインとして生きているように思うのです。
二つ目に語っているのは、創業者でありながらアップル社を追われたことについてです。この間11年、彼はオールCGによるアニメを製作するなど、コンピュータ周辺の分野で幅広い経験を積んできました。
これが復帰後の様々な製品の開発に大きく影響したものと思います。
三番目に彼が語っているのは、すい臓がんで迫り来る死を宣告されたことについてです。ようするに死に直面せざるを得なくなったのですが、彼はその中で余分なプライドや失敗への恐れなどを削ぎ落とし、残ったところに真の創造性があることを悟ったといいます。
そして、死こそが創造や生成の原動力であるとまで言い切っているのですが、ここまで来ると、死の先駆性を語ったドイツのあの哲学者を想起してしまいます。
キバナセンニチコウ(黄花千日紅)の群生
そして彼の最後の結びの言葉は「Sty hungry. Sty foolish.」です。
「ハングリー精神を持て」というのは聞き慣れていますが、「無知にとどまれ」は、いわば「無知の知」でしょうか。しかしこの言葉は、二つ合わせると面白いと思うのです。
彼の講演についてはこれで終わりですが、この三つのエピソードを貫いているキーワードは「自由」ということだろうと思います。大学という体制や、経営者という枠を外されたり、死に直面して俗なこだわりから離脱したりして得た「自由な境地」こそが彼のフィールドだったのでしょう。
廃屋フェチの私がよく訪れるところ 次第に自然へと還ってゆく
よく、アップル社の製品は使い易い、それはジョブス氏が消費者の目線に立って製品を開発するからだと言われています。
しかしこの「消費者の目線に立って」というのはいまやその辺の三文経営者でも必ず口にします。いってみれば、消費者の目線に立てばその製品は売れるのだとギンギラになって考えるところが既に消費者とは違う地点なのです。
ジョブス氏は「消費者の目線に立って」いたのではなく、消費者そのものだったのではないかと思います。自分がまずその製品に喜びを感じ、スムースな使用にこだわること、それのみに心を砕いたのでしょう。
それがアップルの製品にはジョブス氏の人格や思想まで表現されていると言われる所以ではないかと思います。
激しく吠えていたのに近づきカメラを構えた途端静かに 不思議なワン公
ジョブス氏についてのこれらの言葉は、いささか褒め過ぎかも知れません。きっと私の知らないところでは、きれいごとのみでは済まない面をもっていたのだとも思います。しかし、経営者という人種とはあまり馴染みのない私にとっても、結構面白い人だったなぁと思えるのも事実です。
なにはともあれ、彼の安らかな眠りを祈りたいと思います。 合掌
(ジョブスさん、これはMacBook Airで書きました。私にとっては五台目のMacです。そのうち三台はまだ手元にあります。十数年前のPerformaも、電源を入れるとちゃんと動きますよ)