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【映画を観る】『百合子、ダスヴィダーニヤ』

2011-10-19 03:29:26 | 映画評論
 『百合子、ダスヴィダーニヤ』は沢部ひとみの『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』という書を浜野佐知が映画化したものである。
 この「百合子」は、かの宮本百合子がまだ宮本になる前の中條百合子のことで、最初の結婚相手(二度目の相手は宮本顕治)である荒木茂との葛藤と並行しながらも進む湯浅芳子との同性愛の物語である。
 映画は全体としてやや硬い印象があるが、大正ロマンから昭和のモダニズムの雰囲気はよく出ている。
 幾分曖昧な百合子(その曖昧さも無視出来ない要因なのだが)よりも、私としては湯浅芳子の方にシンパシーを覚える。
 映画はその二人の愛の成就と、そしてその破局への予兆を示して終わる。

             
 
 なお、「ダスヴィダーニヤ」はロシア語で「さようなら」を意味しているが、この「さようなら」は湯浅芳子とそれにシンパシーを持つ私からの百合子に対するものではないかと思ってしまう。しかし、それは短絡で、もっと深い愛の軋轢やそれに干渉してやまない時代や歴史そのものをも含んだものなのだろう。

 湯浅芳子についてのこの原作『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』は、著者・沢部ひとみの湯浅芳子本人への聞き取りによるもので、その読み聞かせに対して、当時老人ホームにいた湯浅が「ほんま、よう書けたなあ、まるで見てきたみたいやな」といったという。
 ほかに瀬戸内寂聴による『孤高の人 』(ちくま文庫)という湯浅芳子に関する伝記的な書もあるようだ(未読)。

             

 この映画を観ていると、日本の「プロレタリア運動」というものが、プロレタリアではなく、いささか頭でっかちな上流階級のエリートから発した感が拭えない。だからその運動は、「本物」の「労農階級」へのコンプレックスを常にもち、私の友人、山下智恵子さんが描く『幻の塔』のように、特高警察のスパイである大泉兼蔵を農民出身であるというだけで党幹部に登用し、熊沢光子という稀有な女性をその「ハウスキーパー」付けたりしたのだろうと思った。

 なお、百合子最初の夫・荒木茂は、この映画ではやや三枚目的に描かれているが(大杉 漣が熱演)、家父長制が当たり前の時代にあってはある程度開けていた男性ではなかったろうかと思う。百合子とどこかソリが合わなかったのは不幸であったというほかない。
 付言すれば、学者としては極めて有能で、日本の古代イラン学の先駆者的存在としてその遺構や資料集は「荒木文庫」として今なお東大に所蔵されているという(1932年百合子と離婚後8年で死去)。
 『風の如くに 荒木茂の生涯』(大野延胤・近代文芸社・1995年)という伝記的な書もあるようだ(未読)。

             
  
 ここまで書いてきて気づいたことがある。
 もちろんこれは私が思いつくままに書いてきた無責任な文章ではあるが、ここに固有名詞で出てくる人たちはほとんどすべて(一番身近な山下智恵子さんも含めて)何らかの形で歴史的・通時的に、そしてまた共時的につながりのある人たちだといえる。
 
 これはまた、いわく言いがたいことではあるまいか。
 客観的な歴史のなせる技ということではない。
 それを踏まえながら(翻弄されながら?)、それを記述し続けた人たちの営みのことである。

コメント (2)
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