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【報告】旅の食事について 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 16:50:38 | グルメ
 一〇日余の旅、さぞかしその土地々々のうまいものをレストランでとお思いかも知れないが、日頃必要に迫られて自炊はしているものの、いわゆる旅の味を満喫するグルマンではない。

 あちこち歩き回る旅にとっては、栄養源の確保は不可欠である。
 その意味で、ホテルのバイキング方式の朝食はありがたい。家にいればろくすっぽ取らないような朝食を、ホテルではしっかり食べた。ヨーロッパはチーズやハム・ソーセージが豊富である。パンは比較的小ぶりなものにして、野菜を多く摂り、海産物が少ないので、サーモンのあるところではそれを狙った。卵はスクランブルエッグ。
 それらを日頃、ほとんど飲まない牛乳とともに摂る。牛乳も3,4種類置いてあるが、あんまりネットリしたものではなくサラッとしたものにする。

      
        
      
                                               各地のホテルの朝食から

 昼はあまり食べない。目的地をいろいろ回って時間が惜しく、わからないメニューでもたもたしている暇もない。だから水分の補給を兼ねて、前に書いたように「One beer only , OK?」で休憩方々ビールを味わいながら周囲をゆっくり眺めたりする程度だ。
         

 では、夜のほうだが、正直に告白すると、自分で選んでレストランに入ったのは一度しかない。ベルリン初日は、出迎え方々来てくれたK氏と、ホテル近くの小公園に面した藤棚のレストランで、前菜の盛り合わせとペペロンチーノを食した。ペペロンチーノの辛さがけっこうきつかったが話が弾みいい夕食だった。

      

 さて、単独行動の二日目、ホテル周辺の飲食店を検索したら、遠からぬところにやはりイタメシ屋があり、通りがクロスする角とあってロケーションも良く、しかも価格はお手頃とあったので、これだと決めて出かけた。
 メニューの概略は観たが、あれこれ検討するのも煩わしいので、野菜サラダとカルボナーラを頼み、それでグラスワイン(赤)二杯を飲んだ。やはりロケーションが良くて、通りを行き交う車や人々をじっくり観察しながら食は進んだ。味もボリュームもじゅうぶん満足できるものであった。

      

 で、勘定。日本円にしてチップ込みで8,000円ほど。私の予想をかなり上回った。もっとも、サイゼリアだったら1,000円ちょっとぐらいだから、それと比較するつもりはない。
 比較したのは自分の懐勘定とだ。もともとツアーに比べたら格安の一人旅、毎日夕食にこれほどを掛けるわけには・・・・という思案だ。

 結局、レストランを利用したのは、上記のほかはライプチヒ初日のK氏との夕餉、さらには二日目のK氏とその知己、Zさん、Hさんとの宴に留まった。

      
          
 
 この初日のメニューは私がリクエストしたもので、「アイスバン」という煮込み料理だった。これは事前にドイツらしい料理をと調べていたら、実際に食べた人のレビューも評価が高かったのでそれに従ったのだが、ようするに豚足を塩漬けにし、発酵させたものを塩抜きして煮込んだもので、朝鮮半島経由の豚足料理とはまた違うものだった。
 
      
    アイスバンの食べかけ 左上のボールはじゃがいもの裏ごしに味をつけたもの

 出てきたものを観て驚いた。日本で見るそれの三倍ほどはあるくらいでかいのだ。豚の種類からして違うのだろう。コラーゲンを含んだ皮の下には鮮やかな赤身が煮しめられている。味はいいのだが、塩抜きが足りないのか、もともとこうなのか、やや塩っぱいのが気になった。とても一人では食べ切れないので、K氏と分け合った。

      

 後者の、K氏、Zさん、Hさんとの宴は、話が弾んで、料理の詳細を覚えていないのは残念だが、とても自然に食が運ぶものであった。

 レストランへ行かなかった日はどうしたのかというと、ベルリンの三日目は、ホテルの近くにスーパーマーケットがあるのを見つけて、サンドウィッチをやや大ぶりにしたような食品と、赤ワインの1/4サイズに300ml ほどのビールで済ませた。

      

 ワルシャワの初日はすでに述べたようにK氏が弁当にと持たせてくれたものをすし詰めのコンパートメントでは食べづらかったので、やはりホテル近くのコンビニで買った飲み物と合わせた。これはK氏の情が凝縮された最上の夕餉であった。
          

 2,3日目はこれに味をしめて、コンビニ食品と飲み物で済ませた。日本のコンビニで弁当を売っているように、けっこう珍しい現地の食品の詰め合わせがあり、加えてオリーブの塩漬けが20個ほど入ったものなどを並べると、かなり豪華な夕餉になる。それをホテルの窓から街の夜景や、下の道路を行き交うトラムの明かりなどを眺めて味わうと、掛けた経費に倍してリッチな晩餐となるのだ。

 なお、ホテルでの夕餉とは関係ないが、よく洗濯をした。ベルリンとワルシャワでの3泊では、1泊目、2泊目は洗濯日と決め、下着などを洗った。
 
      

 食事に戻ると、機内食が3、4度ほどあったが、昔に比べればいくぶん質素になったように思った。質素になったといえばホテルもそうだ。洗面所を始め室内には余分なものは一切おいてないし、ワルシャワのように3連泊中は一度もベッドメイキングに入らないところもある。もっとも洗濯した下着を乾してあるところへあまり入られたくはないが・・・・。

 これが私の旅での食の報告である。貧乏旅行丸出しといったところだが、ツアーのお仕着せより面白いものを食べてきたかも知れないと思っている。

      
       これは帰国してから2,3日目の朝昼兼用食 左上はわさび漬け
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ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 00:55:40 | 旅行
 1940年代初頭、世界でのユダヤ人人口は1,000万人弱であり、そのうちの三分の一、約350万人がポーランドに住んでいたといわれる。ワルシャワのみでも約50万人を数えたという。これは中世以来、ユダヤ人への風当たりが少なく、暮らしやすかったからだといわれる。

      

  しかし現在、ポーランドはヨーロッパにおいてもっともユダヤ人が少ない国のひとつになっている。ワルシャワには約3,500人ぐらいと聞いたこともある。
 この大変な落差はドイツ占領下のホロコーストによるものであることは容易に想像がつくが、しかし、その過程にもさまざまな問題があって、一筋縄では行かないようだ。

      

 まずはナチスの方だが、ポーランド占領後、ワルシャワにはもともとユダヤ人の密度が高かった地域を中心に、38万人を収容したワルシャワ・ゲットーが設けれれ、ユダヤ人は高い有刺鉄線に囲まれたその地域からの移動を禁止された。いわば、街そのものが強制収容所とされたのである。

           
 
 さらに42年、ナチスがユダヤ人の「最終解決」を決定するに及び、ゲットーから処分場への搬送が頻繁になり、流れ作業による最終処分が進行した。搬送を免れてゲットー内に留まったユダヤ人もまた、その栄養状態や衛生状態のなか、命を落とすものが続出した。
 43年には、ゲットー内で蜂起反乱が起きるのだが、素手の反抗はドイツ軍の火器の前に血みどろの終結を余儀なくされた。

           

 これらは45年のドイツ敗北まで敗北まで続くのだが、最終的にポーランドにおいて生き残ったユダヤ人は約5万人だったといわれる。

           

 しかし、ポーランドでのユダヤ人迫害はこれにとどまらない別の側面をもっていた。41年当時、ポーランドの東部はソ連によって占領されていたが、この地域において23箇所でユダヤ人を対象としたポグロム(抑圧殺戮事件)が発生し、数百人のユダヤ人が犠牲になったというのだ。ドイツがユダヤ人の最終解決を決定する1年前のことである。
 
 その犯行グループはポーランド愛国主義者たちで、反抗理由はソ連の侵攻はユダヤ人による誘導援助によってなされたというものだった。
 もちろんこれはほとんど濡れ衣で、戦後、これに関わり合った約100人が逮捕され、27人が有罪、そのうち4名が死刑となった。

      

 日程の都合でアウシュビッツへ行けなかった私は、これらをワルシャワの「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」で確認するつもりで出かけた。
 
 最寄りのトラムの駅で降りた私は、青年を捕まえてどう行ったらいいかを尋ねた。しかし彼は、そんなものは知らないとそっけなく行ってしまった。すると、少し離れたところでそれを聴いていた中年の婦人が寄ってきて、それならこちらの方だと親切に教えてくれた。途中まで一緒に来て、ある角で、「ゴー、ストレート!」といって引き返していった。彼女もこちらの方に行く用件があるのだとばかり思っていた私は、その後姿に何度も「サンキュー!」を浴びせかけた。

           

 それは、ヨーロッパ特有の広い緑地帯の一角にあるとてもモダンな建物だった。それにしても人気が少ない。そこで私はハッと思い出した。そう、この博物館は火曜日が定休日なのだ。
 海外でうろちょろしていると、曜日のことなどすっかり頭から飛んでいた私は、下調べをした折、「へ~、火曜日休みとは珍しいな」と思ったことさえすっかり忘れていたのだ。

      

 気づけば、私の他にも休みと知らずに来たらしい2組ぐらいがいた。やがて、10人近くのグループがやってきて、解説者と思しき人が建物を指差しながら何やパペラペラと説明し始めたが、たぶん、ポーランド語らしく何もわからない。

      

 入場を諦めた私は、予め調べたポーランドでのユダヤ人の悲劇を念頭に、鎮魂の意を含めてこの大きな建造物の周りを二周した。
 何百万という人命が失われたあの喧騒の時代と、折からの風に応える頭上の葉擦れの音色のコントラストが、八〇年という歴史の落差を表しているようだった。

      

 しかし、あの歴史は本当に終わったのだろうか。かつて、ホロコーストの対象であったユダヤ人のなかのシオニストたちが、今度はパレスチナのガザ地区にパレスチナ人のゲットーをつくり、そこを対象に無差別殺戮を繰り返しているのではないか?
 2000年にわたり、ユダヤ人を差別し続けてきた欧米諸国は、自らの犠牲を払うことなく、ムスリムの土地をユダヤ人に与え、イスラエルという国家を作らせたばかりか、いままた、ムスリムへの攻撃を支援し続けているのではないか?

 私は、この旅から帰った翌日、疲れた体を引きずって、名古屋での「反ゴザ虐殺」のデモに参加した。

 写真はいずれもポーランド・ユダヤ人歴史博物館にて
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