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是枝裕和:監督作品『そして父になる』を観る

2013-10-05 15:22:29 | 映画評論
         

 生まれたすぐ後に、赤ん坊が取り替えられ、それが6年後に発覚することによって二つの家族に起こる物語だが、最後の結末についていうならば、見終わってそれでよかったのだと思った。それは、私自身が幼くして両親を亡くし(母は病死、父は戦死)、養子に出されて育ったせいで、血筋というものに対してほとんど重きを置いていないことによる結論ともいえる(ただし、血筋というのがそれほど軽い問題だとも思ってはいない)。
 戦後のどさくさで中国に残留し、そこで養父母に育てられた子どもたちの帰還問題に関しても、私はそれを複雑な思い出見ていた。何十年も彼らを育てた養父母の立場をつい考えてしまうのだ。数十年の生活と、それを越える血筋・・・?。

    

 しかしながら映画は、どんな結論に至るのかではなく、それへの過程での二組の両親の内面・外面での葛藤、それにそれぞれの子供を巡る問題を余すところなく描き出していて、まさにそこにこそ観るべきものがあるといえる。
 それらを、是枝監督はまったく無駄のないカットの積み上げのなかで、各登場人物、とりわけ福山雅治演じるエリートサラリーマンの微細な変動の軌跡を丹念になぞってゆく。この映画のなかで、いちばん試練にさらされ、そして変わることを余儀なくされるのは彼であろう。「負けを知らない」人が、意地や外聞では通らない世界に直面せざるを得ないからだ。

 とはいえ、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキーらが演じる役柄は決して軽んじられるものではない。映画はそれぞれの問題の所在を明らかにしながら進むし、それぞれのアクターがが適材適所の好演でそれに応じている。そして、二人の個性的な子どもたちの存在も欠かせない。子どもを撮る是枝監督の目線は従前より卓越したものがある。

 

 ついでながら、風吹ジュン、國村隼、樹木希林、夏八木勲らの脇は達者で揺るぎない。風吹ジュンは大河ドラマ「八重の桜」の母親役でもそうだが、いつの間にか老け役を巧みにこなすようになった。やがて、樹木希林のアクを少し薄めたような境地に至る可能性がある。
 ついでながら、夏八木勲は、この映画の後、もう一本に出演してその生涯を終えている。

 全体としては、理性的でかつ合理的な解決に至ることを勧める周辺に対し、容易にそうはならない二つの家族、その象徴としての福山雅治演じる父親の激しい揺れを炙りだしているところにその核心があるように思う。
 家族というのは、そしてさらに一般化して人間の集団というのは、決して単線化された合理性によって形成されているものではなく、したがってそこに帰属する者たちは、単なる合理性や意志の強靭さを越えた、ある意味ではそれらの手前にあるプリミティヴなものをも拾い上げながら、ある種の共存在を形成してゆくものなのだろうと思う。

 

 是枝監督は大上段に振りかぶるのではなく、事実としての映像とカットの積み重ねによって、丹念にそれらを表現してゆく。一見些細とも思われる映像やカットが、実はもっとも雄弁に事態そのものを表現している。それが事象としての映像そのもので語らせる映画という手法の勝利であり、それを導く監督の技量がものをいうところだ。

 是枝監督の追っかけとしては、その期待を裏切ることのない絵をたくさん観せてくれたことに満足している。
 蛇足ながら、タイトルの「そして父になる」は予め父がいるのではなく、彼の行為を通じて「父になる」のであり、それはまた、母も「母になる」ことを示している。
 ただし、この二つの「なる」には微妙な差異があることも映画は示していて興味深い。
 

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6 コメント

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Unknown (杳子)
2013-10-06 17:42:57
今朝の朝日新聞のGLOBEに、是枝さんの文章が載っていて、「血縁にこだわるようになったのは、戦後のことだろう」と書いているのを読んで、なるほどな、と思いました。
「誰も知らない」は私も見ていますので、これも見てみたいです。できれば…
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Unknown (六文錢)
2013-10-07 00:11:56
>杳子さん
 「GLOBE」の記事、気付いていませんでしたので、ご指摘いただいてから慌てて読みました。
 なるほどと納得できます。特に後半の、憲法が家族を規定しようとすることに疑問を呈するくだりはそのとおりだと思いました。家族は、外部からの規定によるのではなく、その成員の共存在として「形成されてゆく」ものだからです。

 私がこの映画を観て書いた感想文の冒頭部分と、結語の部分を、「GLOBE」での是枝監督の話は裏付けてくれます。
 見過ごしていたいいものを教えていただいてありがとうございました。

 あ、血縁の話ですが、これも是枝氏が言うとおり、お家大事の封建時代においても、大名家の継承は養子関係によるものが実に多くあります。
 万世一系という天皇家の歴史も、朝鮮半島からの渡来人の介在を始め、決して血統的に継承されたものでないことは日本史の常識です。

 なお、余談(自慢?)ですが、私の是枝監督の追っかけぶりは以下のとおりで、すべて劇場で観ています。

 DISTANCE(2001年)
 誰も知らない(2004年)
 花よりもなほ(2006年)
 歩いても 歩いても(2008年)
 空気人形(2009年)
 奇跡(2011年)
 そして父になる(2013年)
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Unknown (漂着者)
2013-10-08 01:14:42
 先進国の中で最近の日本は施設依存が強く、里親制度が根付かないらしいですね。私の両親はともに養子として育っています。明治生まれの父は、両親が身分違いで結婚を許されず、母親が父をお寺で産み落としたあと首を吊ったため、私生児として里親に育てられました。母も幼くして両親を失い養子として育っています。私の周りにはそういう人が多く、私自身血縁に対するイメージは複雑です。
 親子であること、親子になることの意味。「そして父になる」は、親子、血縁のボーダーをとても丁寧に、抑制のきいた手法で描いていると感じました。今回の是枝作品でいちばん好きなところは、この抑制です。ついでながら「誰も知らない」も、とても好きな作品です。
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Unknown (六文錢)
2013-10-08 23:43:13
>漂着者さん
 私も養子として育ったため、自身としては血縁には割と無頓着なのですが、一方、気質の遺伝かともいうべき血縁ゆえの一族の葛藤のようなものも身近で見ていますので、血縁侮りがたしという感想も持っています。
 当該作品では、おっしゃるように是枝監督の「抑制の効いた」演出が光っていましたね。
 もともと声高に何かのテーゼを語る人ではないのですが、この映画ではとりわけ、映像をもって語らしめよで、巧みなカット表現で状況とその変化をうまく描き出していたと思います。
 福山雅治がいい男すぎるので大丈夫かなと思っていたのですが、まさに是枝演出に沿った事態への対応、それに、リリー・フランキー演じるもう一方の父親との対照と戸惑いをうまく演じきっていたと思います。
返信する
家族というもの (杳子)
2015-02-07 23:49:57
六文錢さんのこの記事を読んで以来、ずっとこの映画を見たかったのですが、今夜テレビでやっと見ることができました。
六文錢さんのおっしゃる通り、この映画の主軸は福山雅治演じる良多だと思います。子供の取り違え発覚による彼の「再生」の物語でもありますね。
そしてまた、私自身が母として、このような立場になったらどうだろうかと考えました。長女のデッサンに私の父の影を重ねてみるとき、次女の英語の筆記体の形や性格・顔立ちに私とそっくりなところを見出したりするとき、いわゆる「血のつながり」を強く感じます。
でも、いまは養子のみならず「モザイク家族」とか「シェアハウス」とか、「血のつながり」に重きを置かない家族の形がいろいろある。私は「血のつながり」に囚われていて、自由じゃないのかもしれないと感じました。
返信する
形成される家族 (六文銭)
2015-02-08 01:00:38
 私の当時のブログを良く覚えていてくれましたね。
 本文に書きましたように、私自身が養子であるために家族の問題を「自然にある」ものとはちょっと違った視線で見てしまうのですが、この、「養子」というものにもいろいろな差異があって、昨秋、亡くなられた伊藤幹彦さんの場合も養子でしたが、その養父母との関係などかなり私とは違ったようでした。
 「カンさん、あんたはよかったなぁ」としみじみといわれたことがあります。その時、床屋のモーちゃんといわれた伊藤さんの少年時代を思いやって、少し、ジーンとくるものがありました。養子同士がもつ同一性と差異性のような会話でした。
 「父になる」というタイトルがズバリと示すように、家族は「ある」ものではなく「なる」ものだというのがこの映画のポイントで、それをもっともシリアスに体験したのが、おっしゃるように福山雅治が演じるエリート社員でした。
 私は、リリー・フランキーの演じる自然体の父に共感しつつも、福山の演じる良多がどうなるかを固唾を飲んで観ていました。

 私の場合の家庭形成期はほとんど終了しました。あとは崩壊してゆくそれにどう対応しうるかです。実はこのいわゆる「退却戦」がとても大変なのです。

 あなたの場合もある結節点を迎えていますね。親の世代がやがて去ってゆくこと(不吉な話でごめんなさい)、子どもたちが巣立ってゆくこと、これは家族にとって大きな変動の時期ですね。

 この場合の決め手はおそらく、家族間の応答可能性の有無だと思います。これらは必ずしも言語的なものではなく、情愛的なものでも構わないと思います。いってみれば、あえて言語化しなくても通じ合う次元の有無です。
 
 この前、少し書きましたが、私と養父との間にはそれがありました。私が現業に従事している間になくなってしまったので果たせませんでしたが、機会があったら父とともに、彼が兵役で行っていたハルビンへ一緒にゆくこと、そして可能なら、彼がソ連軍の捕虜として収容され、その間に作ったというシベリア鉄道沿いの街を訪れること、これが夢でした。

 血筋というか遺伝的素質は無視できないでしょうね。しかし、それをも含めて、家族は「なる」ものだと思います。
 
 同じような取り違えですが、イスラエルとパレスチナというお互い殺しあうなかでのとり違えという映画も観ています。『もうひとりの息子』でそれは、http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20131116に書いています。
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