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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

賞について少々述べまショウ 「シェイプ・オブ・ウォーター」

2018-03-17 13:26:13 | 映画評論
 子どもの頃はともかく、大きくなってからは賞とは無縁の生活をしてきた。競馬だって、有馬記念は結構いい配当でとった(それでカメラを買った。カメラにはそのとき勝った馬の名前でダイユウサクと名付けた)ことがあるが、桜花賞や菊花賞はとったことはないと思う。たぶん。

 そんなわけで、世の中で賞をとったという代物にはあまり飛びつくことはなかったというか、あえて避けていたふしもあるのだが、どういうわけか今回はそれを賞味してみようという気持ちになった。

              

 まずひとつは、アカデミー賞を取った映画「シェイプ・オブ・ウォーター」である。
 舞台は1962年のアメリカ、航空宇宙研究センターであるが、若い人にはその時代背景が分からないかもしれない。ようするに、公民権運動がやっと始まった時代で、マイノリティへの差別や偏見は日常的であった時代である。

 この映画は、徹底してそうしたマイノリティが登場する。
 主人公のイライザは幼少時のトラウマで聞こえるけど発話はできない聾唖者である。その友人のゼルダは黒人であり、1962年当時の黒人はその半世紀後には黒人大統領が登場するなどとは夢に考えられない存在だった。この二人は、航空宇宙研究センターで掃除婦として雇われている。
 また、イライザが心を許す老いたる友人はゲイであり、彼が心を寄せたマッチョな青年からは汚物のようにあしらわれる。

            

 この三人が物語のクライマックスをつくるのだが、そうしたマイノリティたちの中心に現れるのが、全くの異物、究極のマイノリティである半魚人である。
 この半魚人は、アマゾンで捕らえられ、航空宇宙研究センターでの米ソ宇宙戦争での研究対象として「飼育」されている。
 
 このもっとも異質な存在にまず心を通わせたのはイザベラであった。彼らを媒介するものはまずは食というプリミティブなものであり、ついで音楽であった。論理的な意味での理解を媒介としない共感、共存とでもいうべきだろうか。その交流は、言語をも超越し、この世界に共に存在しているという実感に基づくものかもしれない。究極の他者との共存。


            

 その半魚人が科学的必要から生体解剖されることになり、それを救うべく、上に述べたマイノリティたちが結束してその救出作戦を展開するのがこの映画の山場なのだが、その詳細は書くまい。
 ただし、マイノリティたちの原始的な作戦が、航空宇宙研究センターという高度な防御体制をまんまと出し抜くくだりはおもしろい。
 しかし、そこで映画が終わるのではない。

 イザイラの部屋で、浴室を締め切って部屋中を水でみたし、半魚人と彼女が繰り広げるセクシャルなシーンは、状況そのもののナンセンスを通り越して異次元ともいうべき美しさを醸し出す。
 そしてこの描写がラストシーンに引き継がれ再現されてゆく。

            
 
 なお監督のギレルモ・デル・トロはメキシコ人、いわゆるヒスパニックで、いまなお、トランプによって差別されているマイノリティであることも言い添えておこう。
 
 煩雑を避けるために書かなかったが、この時代は同時に米ソの冷戦時代であり、相互にスパイたちが暗躍した時代でもある。科学者、ホフステトラー博士もまたそうした軋轢の中で興味がある存在である。
 反面、航空宇宙研究センターを牛耳る軍人、ストリックランドは典型的なマジョリティとして、その家庭生活も含め、当時の白人のアメリカ人を絵に描いたような存在として描かれている。

            

 映画の主題はマイノリティ、そして私たちのコミュニケーション能力でもってしては理解し合えないかもしれない「他者」との遭遇であり、それは半世紀以上経過したいまも、変わらぬ主題であり続ける。
 そんな屁理屈を抜きにしても、ファンタジックなラブロマンスとしてじゅうぶん楽しめると思う。

 実はもうひとつの賞についても書くつもりであったが、例によってだらだらと長くなった。次回に譲りたい。

 


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