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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

中国山西省での日本軍

2012-10-23 15:19:38 | 歴史を考える
      

 以下は中国に在住している私の友人の記事につけたコメントですが、若い人たちにも読んでいただきたいため、ここに転載します。
 コメントという性質上、前後関係はわかりにくいと思いますが、大意はご了承いただけると思います。

            ==========================

 1938年!私が生まれた年です。
 その前年、1937年頃、確かに大陸での戦いが激しくなり、日本人の戦死者も急増しています。15年戦争全体での日本軍兵士の戦死者は230万人に及びますが、その内75万人が中国での戦死です。

 それらが1937年頃に急増したひとつの傍証は、川柳界の小林多喜二と言われ、やはり29歳で獄中死した鶴彬という川柳作家の作品にあります。
 彼は、農村の人身売買、女工哀史、労働者への弾圧など幅広い題材を川柳に詠み、もちろん戦争についても詠むわけですが、それが1937年にいたって急速に戦争に触れた作品が多くなるのです。
 この折はまだ真珠湾攻撃以前ですから、戦争といえばまず中国大陸のそれです。


 出征のあとに食へない老夫婦
 武装のアゴヒモは葬列のやうに歌がない
 ざん壕で読む妹を売る手紙
 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
 稼ぎ手を殺してならぬ千人針
 高梁(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
 屍のゐないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 万歳とあげて行った手を大陸において来た
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 胎内の動きを知るころ骨がつき

 これらが彼が戦争を題材とした句なのですが、このうちの「タマ除けを・・・」以下の句が37年のものです。
 そして、「手と足を・・・」の句が治安維持法に違反するとして検挙され、翌38年に獄中死をしています。

 中国戦線が国共の抵抗にあって思ったように進まぬ軍部のいらだちを、鶴の川柳がズバリ突いたので怒り狂ったのでしょうね。

 なおこれらの資料を確認している過程で、敗戦時、関東軍と国民党軍が取引をし、数千名の日本軍兵士を国民党軍に編入して(八路軍と戦わせるために)残留させた結果、これらの兵士が帰国しても「勝手な戦線離脱」とされて軍人恩給の対象外とされたいわゆる「蟻の兵隊」事件の舞台が山西省であることを改めて知りました。
 それら日本人残留兵士の痕跡については何かお聞きになったことはありますか。
 やはりそこは、八路軍と対峙していただけに最前線だったのですね。

 長くなりましたが、文革や天安門事件は中国の人にとって、なかなか語りづらいものがあるようですね。
 私の店にバイトでいた聡明な中国人留学生も、私の立ち位置をある程度了解していたものの、その双方については多くを語りたがらないようでした。
 同胞相討つですから近代以降、内戦を経験したことのない日本人にはわからない重さがあるのだと思います。

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6 コメント

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Unknown (杳子)
2012-10-24 21:38:59
私は、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という句だけは目にしたことがあります。映画『キャタピラー』の久蔵を思い出しました。作者は鶴彬という人なのですね。何となく、作風が竹内浩三の「骨のうたう」を思わせます。

それら残された言葉などからどんなに辿ろうとしても、骨身にしみるように感じるのは難しい。そしてその事情は、中国の若者にあっても同じだと思います。
でも、その隔絶感からくる失語に耐えながらも、やはり読み継ぎ、語り継いでいくしかないのだろうなとも思います。
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Unknown (K287)
2012-10-24 22:04:51
水村美苗「日本語が亡びるとき」についてコメントしようと、PCを開きました。この本の「日本人は日本語を実に粗末に扱ってきた」という意見に、大いに共鳴しているのです。ところが1938年についてのブログも興味深く、ひとこと書かせていただきます。1938年、私の父は赤紙により二等兵で出征しました。北支派遣軍です。当時数え年三歳だった私が「〇〇(父の名前)君、バンザイ!」と、出征のシーンを真似て遊ぶ姿を、家族は涙して見ていたということです。どういう戦争だったのか、何が起きていたのか、もっと知りたいと思いました。若い読者でなくスイマセン!
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Unknown (六文錢)
2012-10-24 23:25:53
>杳子さん
 鶴と竹内では微妙に時代が違い、鶴の方は全日本無産者芸術連盟(ナップ)のアクティヴな活動家であったなどの相違があるのですが、こと戦争に関する描写は詩人として雰囲気を共にするのでしょうね。
 一方では、戦争の悲惨さを覆い隠し、それを美化し若者を駆り立てる詩を書いていた戦時詩人が多かったなか、そうしたリアリズムを貫くことは容易ではなかったと思います。

 そうした先人が残したリアルな戦争の悲惨さを覆い隠すように、いわゆる修正史観が幅を利かせ、近隣諸国との問題などを安易に戦争と結びつける言動が跋扈するのは実にただならぬことだと思っています。
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Unknown (六文錢)
2012-10-25 00:10:49
>K287さん
 お父上は1938年のご出征でしたか。
 上で述べましたように、前年の37年にいわゆる盧溝橋事件が起き、国共合作での対日抗戦が始まるなど、華北での戦火が激しくなり、多くの日本兵がそちらへ投入された頃ですね。
 
 私が昨秋のちょうど今頃行ったのは、黄河を挟んで延安(毛沢東の八路軍の本拠)と対峙するような山西省の山村で、よくこんな田舎にまで日本軍がきたなぁと思うようなところだったのですが、間違いなくその戦禍の痕跡があちこちにありました。

 それらを目の当たりにしてきただけに、昨今のように、無神経に「日中もし戦わば」などという記事を「釣り」にする週刊誌などを見かけると、つい悲憤ともいうべき感情に襲われます。

 なお、当ブログは、老若男女を問わず歓迎いたします(笑)。
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Unknown (只今)
2012-10-25 09:03:57
小生、幼少の頃、「ブカンサンチン、センリョウシ、キズクハ東亜新秩序」と訳も判らずに唱っていましたが、「武漢三鎮」は1938年。
 この年、中国派遣の兵隊さんを歓迎するため名古屋駅に出掛けた隣家(指物屋)のアンちゃんは怪我して帰ってきました。多数のけが人が出たということでした。 
 
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Unknown (六文錢)
2012-10-26 00:36:00
>只今さん
 似た歌に「いちれつらんぱんはれつして…」という数え歌があり、私も歌いました。
 この「いちれつらんぱん」がわからなかったのですが、「らんぱん」は「談判」のようですね。

 「いちれつ」はネットによれば」二説あり、そのひとつは談判の決裂は1月だったので「一月=いちげつ」が訛ったのだろうというのと、もうひとつは日本と列強の談判で「日列=にちれつ」が訛ったというものだそうです。

 その数え歌の全文は以下のようです(各地で多少のバリエーションあり)が、1950年(昭和25)年ごろまで、まりつき歌として全国的に歌われていたとありました。

 いちれつらんぱん破裂して にちろ戦争始まった
 さっさと逃げるはロシヤの兵 しんでも尽すは日本の兵
 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し
 七月十日の戦いに はるぴんまでも攻め破り
 クロパトキンの首を取り とうごう元帥万々歳
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