生母の死やその他いろいろあって養父や養母のところへもらわれてきたのが80年前、私が2歳の頃のことであった。その折、やってきた「家」で私はいわゆるものごころがつき、それ以来の記憶は曖昧で色褪せつつあるものの、それを保って現在に至っている。
その「家」で養父は材木業を営んでいた。しかし、戦争による徴用や招集による入隊のため、15の歳からの丁稚奉公の結果としてやっともつことができたその店を畳まざるを得なくなった。1944年夏のこと、出征先は満州であった。
同時に、本土空襲が始まり、残された母と私は母方の在所へ疎開しその「家」を離れた。私が5歳の折りだった。
戦前、2歳から5歳まで、私が住んでいた「家」
その疎開先でやはり空襲に遭い、半焼という目にあったのだが、疎開前の家はというと、周辺まで火の手は迫ったものの、無事に残っていた。疎開から戻ったのは戦後5年もしてからだが、その「家」にはもう戻らなかった。借家借地だったのだ。
10年ほど前に確認した折、まだその「家」は残っていたが、その後の確認はしていなかった。そして先般、用があってその近辺へでかけた折、少し遠回りをして見に行ったら、なんとまだ現役のまま存在していた。扉や窓はサッシに変えられていたが、全体の面影は往時のままだった。
「家」の横には、往時、父の売り物だった木材の丸太や製材にかけたものを置く用地があったが、それもそのまま空き地で、駐車場の看板が立っていた。
「家」の横の空き地 ここにはかつて材木商の売り物が置かれていた
車を止めて小雨のなかしばし写真を撮ったりしていた。
おそらく、築85年以上になるであろう。外から見た限りでは、建物に損傷や揺るぎはないようだから、おそらく築100年まではもつだろう。
そして、私のほうが先に逝くことになるだろう。
現住人のこんなかわいい郵便受けが・・・・
先に、少しばかり同人誌にも書いたが、ここで過ごした幼年期の想い出もいろいろある。
幼年期の自分の姿を自分で想像することは困難だが、そこに立つと、年上の子たちに引き回されていたついて回りの幼い自分の姿がじんわり浮かんでくるようで、少しうるっときそうになった。
*場所が特定されると、現在お住まいの方に迷惑が及ぶことを恐れ、地名などには触れないことにしました。