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『地球で最も安全な場所を探して』旅する映画 【付】SF的補足

2021-03-19 17:40:54 | 映画評論

 世界中の原発から出るいわゆる「核廃棄物」の処分場、ようするに原発に欠落してると言われる「トイレ」を探す諸問題についてのドキュメンタリー映画だ。
 この種の映画は、頭っから反原発を掲げてのものが多いが、この映画ではそうではない。そして、それがこの問題をめぐるリアルな現実とその困難さをかえって浮き彫りにしている。

 登場する人物の中心は、イギリス出身でスイス在住の核物理学者にして廃棄物貯蔵問題専門家としても高名なチャールズ・マッコンビー氏。彼は、原発の是非はともかく、この60年にわたるその稼働によって蓄積された35万トンにわたる高レベル放射性廃棄物を数万年、場合によっては10万年の未来に至るまで、安全に保管できる場所を求めて、世界中を巡る。
 そうした安全な保管場は今のところほとんど見つかっておらず、にも関わらずそれら核廃棄物は今日も増加し続けているのだ。

          

 彼は、そうした「安全な」最終処分場を求めて、イギリス、ドイツ、スイス、スエーデンなどのヨーロッパ諸国やオーストラリア、アメリカ、中国、日本(青森県六ケ所村)などなどをめぐる。
 処分場が実現するためには、地質学上の「絶対に安全」な地盤でなければならない。国際原子力機関 IAEA が決めた基準というのは、地震がない、地下水がない、地盤が粘土質で安定しているなどだが、実は地球上にこれらの条件を満たすところはほとんどないのだ。
 それに近い場所として、オーストラリアの南部に白羽の矢が立ったことがある。しかし、オーストラリアは断った。それはそうだろう。原発をもたないこの国が、汚染のリスクを犯してまで原発の上にふんぞり返っている国々の尻拭いをしなければならない義理はないのだ。

             

 こうして、いずれの国、いずれの箇所でも、この危険を進んで受け入れようとするところは少ない。そこで登場するのが、この施設を受け入れれば、それに伴う雇用機会が増え、助成金などで地域が豊かになるという勧誘だ。
 この誘いには既視感がある。そう、原発導入に使われた懐柔手段が、その処分場の建設でも駆使されているのだ。
 つまり、原発の設置も、その結果の尻拭いも、地域格差による貧困につけ込んで行われようとしているのだ。その図式のあまりのステレオタイプさに驚くほかはない。

 かくして、なんとか増え続ける核のゴミを処分する場を確保したいという「善意の」努力も虚しく、「地球で最も安全な場所を探して」の試みは頓挫しているのだ。
 つまり世界中の原発は、その核廃棄物の処分の見通しを欠いたまま、「そのうちなんとかなるだろう」という植木等ばりの(若い人にはわからないかも)無責任さでもって今日も運転され続けているのだ。

         

 この問題は、まさにグローバルな問題であると同時に、とりわけこの日本にとっては実に深刻なのである。
 そのひとつは、世界中の原発約400基のうち約50基がこの地震列島日本に集中しているというその密度の高さにある。世界中で出る核のゴミの8分の1はこの国によるものなのだ。
 そればかりではない。それに加えてこの国は今、あのフクイチの3基の原発の廃炉作業を抱えている。これがまた、膨大な核汚染物資の処分を必要としているのだ。
 
 それについては3月14日放送の「NHKスペシャル 廃炉への道 2021」が詳しいのでそれに沿って述べよう。
 先に、現在世界で蓄積され行方の決まっていない汚染物質の総量は35万トンと述べた。では、フクイチの廃炉で出る廃棄物はどうか。核燃料やメルトダウンの結果としてのデブリ、建屋そのもの、周辺の諸施設、その地盤、などなど、「日本原子力学会」の試算によれば、その総量はなんと780万トンに達するというのだ。
 ついでながら、政府は40年で廃炉を終え、40年後には更地として再利用が可能としているが、前記、原子力学会は最短で100年、最長は300年先としている。

                     

 核廃棄物の話に戻ろう。この780万トンの行き先はもちろん決まってはいない。今のところ、フクイチの施設内に蓄積される一方だ。Nスペはそれらの蓄積地拡大の模様を航空写真で如実に捉えていた。
 しかし、そうして蓄積できる固形物はいい。そうではない冷却用の汚染水はまさに緊急の問題としてその解決を迫られている。現在は、その敷地内でのおびただしい貯水タンクに収められているが、その総量はキャパシティの90%をすでに超えている。

 どうするのか?蒸留して大気に逃がすか、海へ放出するかどちらかだという。政府や原子力ムラの連中は、それらの水は既に浄化されており、わずかなトリウムしか残っていないから安全だといい、それに危惧する言動は風評にすぎないという。
 しかし、私たちは原発は120%安全だという安全神話が覆るのを目の当たりにしてこなかったろうか。そして、今日のこれらの問題は、その安全神話を信じた結果もたらされたものではなかったのか。

         

 この映画の出発点は必ずしも原発反対ということではないと述べた。しかし、その廃棄物を処分する地を追い求めた結果から見えてくるものは、結局原発というのは人類に解決不能な難題を押し付けているいうことなのだ。これはもはや、賛成とか反対とかいうものだはなく不可能なものなのだとさえ思う。

 しかし一方、増え続ける核廃棄物への、そしてフクイチ廃炉での汚染物への対応が現実に必要なのはわかる。ここは、全人類の知恵の絞りどころだろう。
 とはいえ、一方では原発が稼働し続け、日々それらを排出し続けるなかでこれを解決せよというのはどうしてもおかしい。世界中の原発をできれば瞬時に、あるいは漸次(といってもできるだけ早く)、停止させることが前提での作業ではないだろうか。

  監督 エドガー・ハーゲン  後援:在日スイス大使館


【SF的発想による続編】
 さて、そうして核廃棄物の処分場が見つかったとしよう。そこには10万年にわたって安全に保管されねばならないという。
 ここで考えてしまうのだ。人類が文明をもち、伝達機能としての記号や文字をもつに至ったのはたかだか数千年前に過ぎない。そしてそれらの記号ないしは文字が、今日の私たちにすべて解読可能であるわけでもない。
 大英博物館にあるロゼッタストーンは解読なし得た一つの記念ではあるが、解読し得ていないものもある。例えばナスカの地上絵は上空からしか見えないそれらがなんのために描かれなにを意味しているのかはいくつかの憶測はあるものの謎のままである。

         

 なにを言いたいかというと、核廃棄物の貯蔵地が運よく見つかったとし、そこへのン万、ン百万トン単位の核廃棄物が貯蔵されるとする。もちろんこれは極めて危険であるから厳重に保管され顕わにされることはないだろう。そしてその危険性は、代々にわたって文書や記号でもって後世へと伝えられるだろう。

 しかし、やがて文明は変化し、原子力そのものが過去の野蛮な遺産として放棄され、そしてついにはそんなものがあったことすら忘却されるだろう。その折の文明の姿がどのようなものかは想像すらできないが、百年、千年後はともかく、更にそれ以上が経過した時、果たして今日の記号や言語が彼らにとって解釈可能なものとして残るだろうか。否、記号や言語を介して何ごとかを伝達するということ自体が残存するだろうか。
 つまり、危険物がここに集約されているいることをン万年後の人類にちゃんと伝えることができるだろうかという問題があるのだ。

         

 広大な砂漠や岩山が連なる一帯に、何やら頑丈な建造物群や洞窟状の箇所が集中している場所が発見された。その周辺には棒状のものが一定の間隔で立ち並び、その棒状のものが横に渡したものによって連結され、それらがこれら建造物群を取り囲んでいる。その入口と思しき場所には奇っ怪な図柄のカードのようなものや、板状の平面に細かい模様が列をなしたものが立ちふさがるように立っている。
 どうやら、古代人の遺跡のようなものだ。しかも人里離れたこんな場所に、こんなに厳重にしまい込まれているのは宗教とかいうものの秘儀のための場所だったのだろうか。

         

 あるとき、大掛かりな探検隊が組織され、入り口は破砕され、中のものが古代の遺物として運び出され、大勢の人々に公開される。
 何やら整然とした形状のものもあれば、不規則に歪められた形状のものもある。この大発見は人々の関心を呼び、世界中の各地で大々的に公開された。
 その頃から、それに触れたり、一定の距離で見たりした人を中心にバタバタと倒れる者が続出し、そのように彼らを倒した危険な毒素は、空気や河川、大洋に媒介され、地球の隅々まで拡散され、それにつれて被害がどんどん広がって行った。

 それらは、紆余曲折があってここまで生き延びてきた人類に、決定的なダメージを与えてゆくのだった。

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