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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

今池の想い出がまた一つ・・・・「壺」=「芦」との別れの夜

2021-03-14 16:29:01 | 想い出を掘り起こす

 広い意味での今池エリアの中にかつて「壺」という居酒屋があった。
 私が初めて訪れたのは、サラリーマン時代の後期、1960年代の後半だった。きっかけは、今はなき同級生の須藤氏から、「少し後輩でまだ現役の学生、堀田君が面白い店でバイトをしているから行ってみよう」と誘われたからだった。

 まずは、店主のママさんが個性的で面白い人だった。竹を割ったようなというかとにかく芯がすっと通ったような性格で、歯に衣を着せず、時折、客を叱り飛ばすような豪快な人だった。その「極妻」顔負けの啖呵は爽快で、その辺の三下などが萎縮するほどであった。
 そんな彼女であったが、実は繊細で折れやすい一面をもっていることを知ったのは後年のことだが、これの詳細は書くまい。

         

 客層も私などより一世代若い、いわば全共闘時代の人たちが多く、私のような六〇年の敗残組に新たな刺激を与えてくれるような活気があった。
 その中には数年前に他界した予備校K塾の名物講師、牧野氏(ああ、彼はその折、頭髪も黒々とし、学生服に身を包んだ現役の学生だった)などもいた。彼を始め、私より一世代若い友人たちとの交流は、この店の存在に負うことが多い。

 やがて、私自身がサラリーマンからも脱落し、今池の街で居酒屋をもつことになって、いわば同業になったのだが、交流は続いた。客のうちのどれほどかは、両方の店を行き来してくれるようになった。私の店が午前二時まで営業していた事もあって、ママをはじめ、飲み足りない客の面々がきてくれた。

 かと思うと、ママから電話がかかってきて、「立派な鯛の頭をもらったがどう調理していいかわからん。お前、ちょっときて手伝え」などといってきたりした。板場にあらましのレクチャーをもらい、出刃包丁を持って駆けつけ、もっていった大根共々、なんとかそれらしいあら炊きを作って、主客混合で飲んだりもした。

         

 その豪快なママが、癌に倒れたのは八〇年代の終わりだったろうか。野外の寺の境内で行われたその葬儀にも出て、上記に書いたK塾の牧野氏が弔事を読むのを聴きながら、何処からともなく金木犀の香りが漂ってくるのを感じ、しばし忘我の境地になったことは覚えているから10月のことだと思う。それなのに、その年が何年だったか想起できないのは私の記憶能力の劣化のせいだろう。

 ママが倒れてからも店は続いた。というのは常連たちが、このまま自分たちの居場所を失うのは辛い、なんとかみなで協力しあって店を維持したいということになったからだ。牧野氏はもちろんその中心だったが、これには前記の須藤氏や私も一枚噛んでいた。
 その息女や常連だった若い女性とママ候補はいて、実際にそのもとで営業を始めたりしたのだが、どうもスッキリしない。

 しばらくガタついていたが、やがて、開店以来の常連で、私よりやや年上のお姉さん、小芦さんが引き受けることとなって落ち着いた。私もこの小芦さんが適任だと思った。
 小芦さんとは、半世紀以上前の壺で、カウンターで肩を並べて飲んでいた仲である。
 これはあくまでも男性目線だが、前のママが「おっかぁ」という感じだったのに対し、小芦さんは「かあさん」というイメージだと思う。もちろん、二人とも、芯は一本通っていた。

         

 そうしてバトンタッチされた店だったが、既にその折ある程度の年令に達していた彼女のことも考え、土曜日一日のみの開店という変則的な運営になった。しかし、この方式は成功したようで、土曜日にそこへゆけば誰か彼か懐かしい顔ぶれに逢えるというある種の定点の役割を果たしたのだった。
 小芦さんはそうした人々をつなぐ貴重な役割を果たしてくれた。

 その後、火事騒ぎがあったりし(火元はこの店ではない)、大家の改築等の方針に、この建屋そのものを撤収することになってすぐ近くに引っ越すのだが、それを機会に「壺」を改め「芦」を名乗るようになった。小芦さんの一文字からである。
 これは無理からぬことで、かつてのママ時代からすでにして小芦さんの時代のほうがはるかに長くなっていた。

 そのうちに、私は自分の店を畳み、岐阜へと引っ込むことになった。しかし、学生時代や店で培った人脈は名古屋のほうが遥かに多く、月の内数回は名古屋に出るような生活の中、土曜日に当たる日は、この芦に立ち寄り、古くからの友人(といってもほとんど私より若い人たちだが)との旧交を温める機会としていた。

 その芦が、この三月末でいよいよ閉めることとなり、13日、久々に名古屋シネマテークで映画を観たあと、立ち寄ることにした。シネマテークを出る折に声をかけられたのだが、それがこの館の責任者、倉本氏で、じゃあ、一緒に行こうということなった。

         
 
 入り口で、C大学を定年した松林氏と出会い、中へ入るとやはり常連で一昨年、レコードやCDの音楽媒体の店「ピーカンファッジ」を閉店した元店主の張氏がいて、つい先般亡くなった共通の友人満福寿司の田中氏を惜しむ挨拶を交わした。
 やがて、名大工学部教授の黒田氏やかつてのロックの聖地、ライブハウス「ハックフィン」の元経営者、晶子さん夫妻が登場し、さらには、仕事を終えて駆けつけたウニタ書房の林氏とも逢うことができた。

 こうした人たちと同席していると、私もまた現役今池人に戻った気がするから不思議だ。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、自分の年齢と、これから岐阜まで帰らねばならないということを思い合わせ、芦をあとにした。
 帰り際に、小芦さんとがっちり握手をして、今度はまた半世紀前のように、カウンターのこちら側で肩を並べて飲みましょうと別れた。
 そして若い人たちに、この店がなくなっても、ここへ行けばこのメンバーたちに逢えるようないい店を見つけてくれと懇願したのだった。

 店を訪れたのは春宵といってよかったが、外へ出ると、一層闇が深く、ブルブルッと身震いをして、急ぎ足で駅へと向かった。
 そして、自分が店を閉めた夜のことを思った。

以下は、「壺」時代、牧野剛氏との思い出を記したブログです。
 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180620

コメント (1)
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