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言語論的考察のあとに来るもの 多和田葉子さんの小説について

2021-03-10 16:13:05 | 書評

 多和田葉子さんの小説はかなり読んできた。
 端的にいって面白かったし、それに、言語について極めて意識的な作家として見るべきものがあると思っていたからだ。
 事実彼女は、ドイツに在住し、ドイツ語でも表現活動を行い、1996年にはドイツ語を母語としないにも関わらずドイツ語で文学活動を行っている作家が選考の対象とされるシャミッソー文学賞を受賞している。

 小説ではなく言語への立場を述べた彼女の書には『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波書店2003年 のち岩波現代文庫)、『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年などがある。

            

 最近読んだのは、『星に仄めかされて』(2020年)で、これは前作、『地球にちりばめられて』(2018年)の続編をなしている。
 ざっくり言ってしまえば、もはや「NIPPON」という国もその列島も消滅してしまったと思われる未来社会において、失われた言語(日本語?)とそれを話す同胞を求めてヨーロッパを旅するHIRUKOが、それらしい人物SUSANOOに出会うという物語で、その周りにはまた、トランスナショナルな人物たちが配置されている。

 こう書いただけで明らかなように、やはりこれも言語をめぐる物語といえる。
 
 しかし、部分的に面白い点があるものの、トータルとしてはあまり印象に残らないのだ。私はなにを読んだのだろうと自問したとき、これと浮かぶような印象が希薄なのだ。

            

 なぜだろうと考える。それはどうも彼女の興味の対象の、ある種の閉塞性にあるのではないだろうか。彼女は、言語に対して意識的であると書いた。しかし、逆にその強度がまさって、メタ小説、あるいはメタ言語的な小説を目指しているのではあるまいか。その試みを全面的に否定しようとは思わないが、それによって犠牲にされているものがあるのではないかと危惧するのだ。

 確かに言語論的な意識は彼女の特異点かもしれない。とくにシニフィアン(表現される言葉や記号そのもの 例えば「花」)とシニフィエ(それによって指示される内容 例えば「花」と言われて思い浮かぶイメージなど)を峻別し、そのうちのシニフィアンのもつマテリアルな質量感とその戯れを描くのは彼女の文章の特徴ともいえる。

 しかしである、それに基づく小説となると、ある実験的な意味合いはあるとしても、それが面白いのかというと、それは別問題のようにも思われる。
 やはり、小説にはグローバルであれ、極小化された私的なものであれ、状況との切り結びのようなものが必須に思われる。
 多和田さんの近作にそれがないとはいわないが、言語論的意識高い系が目立って、そうした状況との関係が希薄になっているのではないかと思ってしまうのだ。
 そしてそれが、読み終わっても何かもの足らない印象しか残らない要因ではあるまいかと思うのだ。

            

 『献灯使』までは面白かった。たしかにここでも、ダジャレに似たシニフィアンの戯れのような表現は多くでてくるが、そこで描かれる緩やかなディストピアのイメージは、あの3・11後を示唆する近未来を思わせ、それへの応答としてのリアルさを失ってはいなかった。 

 しかし、近作の『地球にちりばめられて』や『星に仄めかされて』には、何かそうしたリアルな芯のようなものが感じられないのだ。したがって、次ページを繰る際のあのドキドキ感も以前のようではない。
 むろんこれは、私の読みの浅さにのみ起因する一方的な感想であるかもしれない。 

 読者である私が求めているのは、言語論的洞察そのものではなくて、その上に立ってどのような小説が可能かである。多和田さんもそうした点でいろいろ模索をしているのかもしれない。
 かなり否定的なことを書いたが、もう少し、この作家に寄り添って読んでみたいとは思っている。

コメント
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