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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【戦争と言葉】言葉を閉じ、他者も自分も閉じた大日本帝国

2019-04-24 11:53:28 | 日記
 締切のあるものを書いたり、その他のものを読む合間に、黒川創氏の『鶴見俊輔伝』を読んでいる。遅々として進まないが、締切分を脱稿したら一挙に読み上げる予定。

 書の冒頭から、後藤新平や鶴見一族の、分野を問わぬ絢爛豪華たる人脈の豊かさとその広がりに圧倒されている。
 それらを含めた全体の感想は読み上げた段階で書きたいが、それはともかく、いままで読み上げた日米開戦の段階の話で、ちょっと興味深い点があったので、メモ代わりに書いておこう。

            
 それ以前から、日本の大陸への侵略以来きな臭くなっていた日米関係は、1941年12月8日の真珠湾攻撃をもって抜き差しならない戦争状態に至る。
 その折、伝記の主人公、鶴見俊輔はハーバード大学へ留学中であった。

 そんな時期のことである。アメリカにおいては、敵国となった日本の言語を学ぼうとする人たちが急増し、各日本語学校は大盛況で、日本語習得のためのテキストが編纂され増刷されたというのだ。

            
 当時、ハーバードでは、戦後日本大使となるエドウィン・オールドファザー・ライシャワーが日本語を教え、後に、日本文学の研究家となり、晩年は日本に帰化し、今年2月に亡くなったドナルド・キーンもいた。

            
 この、「敵国」の言語に対する、彼我の対応がまったく対照的なのだ。
 年配の方はご存知のように、私たちの国においては、英語は敵性言語として全面的に禁止されたのだった。
 ベースボールは「野球」になり(これはいまも継承)、ストライクは「よし」、ボールは「だめ」だった。

 うかつにに英語を話そうものなら、スパイの疑いで憲兵隊へ連行され、下手をすれば拷問にあったりしたものである。
 ジャズは敵性音楽で、愛好家は押し入れで布団を被って蓄音機でそれを聞いたという。

         
 先の戦争において、アメリカが全面的に正しかったと強弁するつもりはないが、この言葉に対する対照的な対応は面白い。
 アメリカが、自分に挑んできた東洋の島国の実情を知ろうとしてその言語を学んだのに対し、私たちの国は、自同的、かつ自閉的に自らのうちに閉じこもったのであった。

 これによりこの国は、国際情報からも閉ざされたまま、無限地獄ともいえる最後の段階にまで至った。
 むやみにもてはやされた孫子の兵法、「彼を知り己を知れば百戦あやうからず 」の言葉とはうらはらに、「彼を知る」こともなく、したがってそれとの比較で「己を知る」こともなく、あの悲惨への突入を余儀なくされたのだった。

 なお、最後の写真の回答はおわかりだろうか。アレですよ、アレ。お皿にご飯を盛って、その上から、あるいはその横にかけるアレ。
 

コメント (1)
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