私が長年親しんできたナンキンハゼくん、こんな日が来るのだったら君にちゃんとした固有名を付けておくべきだったね。
「私がよく行く岐阜県図書館の正門あら道路を挟んだ岐阜県美術館の南門横のナンキンハゼ」では回りくどくっていけない。この際、南門近くのナンキンハゼだったから、きみのことを「ナンナンくん」とでも呼ぼうか。
ナンナンくん、きみにはじめて逢ったのは、もう二〇年近く前、現業からリタイアしてゆっくり書でも読もうかと図書館へ通い始めた頃だ。それまでもそこへは行ったことがあったが、そしてその折もきみはそこにいたのだが、私はさして気にもとめなかった。ごめんよ。
きみを心に留めたのは、きみのスペードのような青葉が風に揺れて、表面の深い緑と、裏面のやや白っぽい部分とが混じり合うようにグラジエイトしていたときだったろうか。それとも、深秋の頃の見事な紅葉の折だったろうか。いまとなっては定かではない。
その契機はともかく、きみは美しい樹だった。大木の大仰さもなく、若木の頼りなさもなく、ちょうど私に相応しい気の合う友のようにきみはそこに立っていた。
いつしか、図書館や美術館に行くたび、きみに挨拶し、折々のきみの姿を眺めるのが私の習わしになっていた。
私がきみを意識してからの年月、何枚きみの写真を撮っただろう。春の若葉、夏には黄緑の房のようなその花、秋の紅葉、それが散った後の真珠を散りばめたような白い実。
この実が和ろうそくの原料になることを知る人は今では少ないだろう。
私の四季は、ナンナンくん、きみとともにあっといっていい。
それなのにだ、別れというのはいつも突然やってくる。
つい先日だ。私はいつものように図書館へ行き、返すものは返し、新しく借りる数冊を選んできみに逢いに行った。
今の時期のきみは、葉もなく、むろん花や実もなく、その絡み合うような枝を広げているのみだ。それでも私はそのきみの枝ぶりが好きだった。
きみを視界に捉える地点に至った私は目を疑った。
きみがいないのだ!
きみがいたところは工事用のフェンスに覆われ、今年の11月にリニューアル・オープンとある。
で、きみは?きみがそこにいれば、そのフェンスより高いから当然、見えるはずだ。しかし、きみはいない!
きっとどこかへ移植されていて、リニューアル・オープンの際にはまたここに戻されるのだろうと思った。
し、しかし、リニューアル・オープンの予定図にはきみの姿はない。なにもない空間が広がっているのみだ。
では、きみは一体どこへいったのか。
きっとどこかへ移植されて無事に生き延びていると思いたい。
しかし一方、私は悲観的になってもいる。
ナンキンハゼなどという樹木は決して希少なものではないし、ナンナンくん自体が個体として特に優れていたわけではない。ただ私が一方的に好意を抱いていたにすぎない。
きみにくだされた運命についてはあまり考えないことにしている。とりわけ伐採という言葉は脳裏から追い払うようにしている。
いずれにしても、もうナンナンくんとは逢えないだろうと思う。
いまとなっては、長年、私の目を楽しませてくれたきみに感謝するのみだ。
ナンナンくんがそこにいた四季を、私は決して忘れないだろう。
ナンナンくん、ありがとう。そして、サヨウナラ!
きみとの別れを惜しんで、芭蕉の『奥の細道』冒頭の句を掲げておこう。
行く春や鳥啼き魚の目は涙
「私がよく行く岐阜県図書館の正門あら道路を挟んだ岐阜県美術館の南門横のナンキンハゼ」では回りくどくっていけない。この際、南門近くのナンキンハゼだったから、きみのことを「ナンナンくん」とでも呼ぼうか。
ナンナンくん、きみにはじめて逢ったのは、もう二〇年近く前、現業からリタイアしてゆっくり書でも読もうかと図書館へ通い始めた頃だ。それまでもそこへは行ったことがあったが、そしてその折もきみはそこにいたのだが、私はさして気にもとめなかった。ごめんよ。
きみを心に留めたのは、きみのスペードのような青葉が風に揺れて、表面の深い緑と、裏面のやや白っぽい部分とが混じり合うようにグラジエイトしていたときだったろうか。それとも、深秋の頃の見事な紅葉の折だったろうか。いまとなっては定かではない。
その契機はともかく、きみは美しい樹だった。大木の大仰さもなく、若木の頼りなさもなく、ちょうど私に相応しい気の合う友のようにきみはそこに立っていた。
いつしか、図書館や美術館に行くたび、きみに挨拶し、折々のきみの姿を眺めるのが私の習わしになっていた。
私がきみを意識してからの年月、何枚きみの写真を撮っただろう。春の若葉、夏には黄緑の房のようなその花、秋の紅葉、それが散った後の真珠を散りばめたような白い実。
この実が和ろうそくの原料になることを知る人は今では少ないだろう。
私の四季は、ナンナンくん、きみとともにあっといっていい。
それなのにだ、別れというのはいつも突然やってくる。
つい先日だ。私はいつものように図書館へ行き、返すものは返し、新しく借りる数冊を選んできみに逢いに行った。
今の時期のきみは、葉もなく、むろん花や実もなく、その絡み合うような枝を広げているのみだ。それでも私はそのきみの枝ぶりが好きだった。
きみを視界に捉える地点に至った私は目を疑った。
きみがいないのだ!
きみがいたところは工事用のフェンスに覆われ、今年の11月にリニューアル・オープンとある。
で、きみは?きみがそこにいれば、そのフェンスより高いから当然、見えるはずだ。しかし、きみはいない!
きっとどこかへ移植されていて、リニューアル・オープンの際にはまたここに戻されるのだろうと思った。
し、しかし、リニューアル・オープンの予定図にはきみの姿はない。なにもない空間が広がっているのみだ。
では、きみは一体どこへいったのか。
きっとどこかへ移植されて無事に生き延びていると思いたい。
しかし一方、私は悲観的になってもいる。
ナンキンハゼなどという樹木は決して希少なものではないし、ナンナンくん自体が個体として特に優れていたわけではない。ただ私が一方的に好意を抱いていたにすぎない。
きみにくだされた運命についてはあまり考えないことにしている。とりわけ伐採という言葉は脳裏から追い払うようにしている。
いずれにしても、もうナンナンくんとは逢えないだろうと思う。
いまとなっては、長年、私の目を楽しませてくれたきみに感謝するのみだ。
ナンナンくんがそこにいた四季を、私は決して忘れないだろう。
ナンナンくん、ありがとう。そして、サヨウナラ!
きみとの別れを惜しんで、芭蕉の『奥の細道』冒頭の句を掲げておこう。
行く春や鳥啼き魚の目は涙