大牧冨士夫さんは私も参加していた文芸同人誌『遊民』の同人で、私のちょうど10年先輩の1928年生まれ、過ぐる戦争の折には、少年通信兵として兵役を経験されている。
その他、波乱に富んだ経歴をお送りになってきたのだが、私にとって関心が深いのは、現在日本一の貯水量を誇る徳山ダム、歴史と伝統、数々の民俗学的有形無形の資料の宝庫であった徳山村全村を飲み込んでしまった徳山ダム、そのダムの建設に伴い大牧さんは生まれ故郷のその徳山村を追われ、現在は岐阜の郊外にお住まいになっているという事実である。
徳山ダムについてはある種の公憤がある。それはこのダムが膨大な自然と人の営みを犠牲にし、多くの血税を費やしたにも関わらず、それに見合う人びとへの恩恵を何らもたらすことなく、むしろいたずらにその管理維持費を喰う膨大なムダになっていることである。要するにこのダムは典型的な土建屋行政の象徴ともいえる巨大プロジェクトだったのだ。
さらに、私憤もある。この徳山村を流れる揖斐川上流部は20代後半から30代、40代にかけて私がいれ込んでいた渓流釣りの絶好の漁場であり聖地だった。
本流、支流、多くの谷に入ってアマゴやイワナと出会うことができた。釣った魚を民宿の囲炉裏で焼いて飲む酒は最高にうまかった。
徳山ダムはそれらすべてを奪い、貨幣というそれ自身は無味乾燥というほかはない物神を土建屋やそれに連なる政治家の懐にねじ込んだのだった。
だから、そこを追われてきた大牧さんにも特別な思いがある。これまでも大牧さん自身の口から、そして大牧さんが「編集グループ〈SURE〉」から出された『ぼくの家にはむささびが棲んでいたー徳山村の記録』や『ぼくは村の先生だったー村が徳山ダムに沈むまで』を読み、かつての徳山村に想いをよせたりしたものだ。そこには大牧さんの村での生活とともに、徳山村そのものがたんなる背景としてではなく、そこに暮らす人たちとの有機的な繋がり、まさに共に暮す空間としてあったことがよく分かるように描かれていた。
さて、その大牧さんとの関係だが、昨秋の同人誌終焉以来、メールのやり取りのほか、お目にかかることともなく過ごしてきた。
で、最近いただいたメールにはクラシック音楽を聴き始めるに初歩的な手立てはなんだろうかという質問が添えられていた。どうやら、これまで、クラシックに馴染む機会がないままにお過ごしになってきたようなのだ。
それにしても、90歳目前でクラシックにチャレンジとは大した心意気だ。ここはひとつ手伝わねばとおせっかいな私は思った次第。
もちろん私とて、さほど詳しいわけではないので、とりあえず、アマゾンで見つけた5枚組のモーツァルトのアンソロジーのようなCDをお送りし、その後は自分がもっているCDでダブっていたり多分もう聴かないでだろうものをもってお宅へお伺いすることにした。
それが14日のことであった。
持参したCDは馴染みやすいものとして、ビゼーの「カルメン組曲1・2」「アルルの女組曲1・2」、ヴィヴァルディ「四季」、ドヴォルザーク「九番 新世界より」、チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」、ショスタコーヴィチ「五番 革命」などをお持ちした。
最後はややハードルが高いかもしれないと思ったが、大牧さんがかつての左翼「青年」であったことをおもんばかったからである。
加えて、私の友人、「浪花の歌う巨人バギやん」こと趙博氏のオリジナルのCDも二枚おもちした。
温かい陽射しにも恵まれて、お連れ合いのフサエさんともども歓待していただくなかで話が弾んだ。というか、私がひたすら薀蓄を傾けたというべきか。
この会話の中で、フサエさんの方はお若い頃、「労演」などの催しで、オケなどクラシックに触れていらっしゃったことが判明した。
趙博氏のCDには笑い転げたり、あるいはしんみりしながら三人で聴いた。
楽しい時間は過ぎるのが早い。あとは持参したものをゆっくりお聴きいただくことにしてお宅を辞することに。
そうしたら、ずっしりと重いおみやげを頂いてしまった。中身はフサエさんがお育てになった大根が二本(野菜高のこの時期、ありがたい!)、それに、お酒が一本。その名も丸岡城。
丸岡というのは先般来、豪雪でしばしばニュースにもなった福井県坂井市の一角で、かつては丸岡という独立した町であった。
このお酒を大牧さんからいただくのにはある意味がある。何を隠そう、大牧さんは知る人ぞ知る中野重治の研究家で、『研究中野重治』(共著)『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などのご著作があるのだ。
で、それがなぜ丸岡かというと、その中野重治が生まれ、育った場所こそが丸岡なのである。したがってこの地では、中野重治がらみの催しが結構あり、大牧さんもよくお出掛けになるので、このお酒もその折に求められたものであろう。
だから、飲む方も心して飲まねばならない。
いただきもののハイライトはそのほかにあった。それは、「お金では決して買えない」フサエさんの手作りの料理。基本的には、フサエさんがその辺歴の中で、特に徳山での暮らしの中で身にお付けになったレシピによる田舎料理である。
それらを六品も頂いた。はっきりわかるのは梅干しとカブラの漬け物、そして白菜漬けだが、ただし、この白菜漬け、味はキムチ風。それも市販のキムチのようにベチャとした感じではなく、和風のさっぱりした白菜漬けと韓流のキムチ風味が合わさったような味わいでシャキシャキとしてとてもおいしい。
あとは和食とか洋食の概念での区分はつけがたい独特の料理である。素材も調理法もかんたんにはわからない。しかし、これが不思議で珍しく、そしておいしい。これは私がお世辞でいっているのではない。
フサエさんの料理は、「編集グループ〈SURE〉」から、『フサエさんのおいしい田舎料理』という本で紹介されているほどなのだ。
いらないようなCDでこんなものをいただくなんて、これがまさに「海老で鯛を釣る」だ。
頂いたもの殆どが保存食で日持ちがする。だから、しばらくはその味を楽しむことができる。
これを書いていたら、大牧さんから「いまドヴォルザークを聴いています」というメールを頂いた。
【おまけの感動】大牧さんが使っていらっしゃるパソコンは、けっこう大画面のディスクトップ型だが、その壁紙に使っていらっしゃる映像は、かつて住んでいらっしゃった徳山村の、さらにご自分の集落の航空写真だった。
それをカーソルで指しながら、自分のうちはここ、そして畑はここ、そこへ一輪車を押してゆく行程のつらさや勾配のきつさなどを伺った。
ここにあった誰それの家はどうしたとか、その子供がどうだとかの大牧さんとフサエさんとの会話は、もう私のついて行けない領域だったが、お二人の望郷の念がひしひしと伝わってきて、感動モノだった。
その他、波乱に富んだ経歴をお送りになってきたのだが、私にとって関心が深いのは、現在日本一の貯水量を誇る徳山ダム、歴史と伝統、数々の民俗学的有形無形の資料の宝庫であった徳山村全村を飲み込んでしまった徳山ダム、そのダムの建設に伴い大牧さんは生まれ故郷のその徳山村を追われ、現在は岐阜の郊外にお住まいになっているという事実である。
徳山ダムについてはある種の公憤がある。それはこのダムが膨大な自然と人の営みを犠牲にし、多くの血税を費やしたにも関わらず、それに見合う人びとへの恩恵を何らもたらすことなく、むしろいたずらにその管理維持費を喰う膨大なムダになっていることである。要するにこのダムは典型的な土建屋行政の象徴ともいえる巨大プロジェクトだったのだ。
さらに、私憤もある。この徳山村を流れる揖斐川上流部は20代後半から30代、40代にかけて私がいれ込んでいた渓流釣りの絶好の漁場であり聖地だった。
本流、支流、多くの谷に入ってアマゴやイワナと出会うことができた。釣った魚を民宿の囲炉裏で焼いて飲む酒は最高にうまかった。
徳山ダムはそれらすべてを奪い、貨幣というそれ自身は無味乾燥というほかはない物神を土建屋やそれに連なる政治家の懐にねじ込んだのだった。
だから、そこを追われてきた大牧さんにも特別な思いがある。これまでも大牧さん自身の口から、そして大牧さんが「編集グループ〈SURE〉」から出された『ぼくの家にはむささびが棲んでいたー徳山村の記録』や『ぼくは村の先生だったー村が徳山ダムに沈むまで』を読み、かつての徳山村に想いをよせたりしたものだ。そこには大牧さんの村での生活とともに、徳山村そのものがたんなる背景としてではなく、そこに暮らす人たちとの有機的な繋がり、まさに共に暮す空間としてあったことがよく分かるように描かれていた。
さて、その大牧さんとの関係だが、昨秋の同人誌終焉以来、メールのやり取りのほか、お目にかかることともなく過ごしてきた。
で、最近いただいたメールにはクラシック音楽を聴き始めるに初歩的な手立てはなんだろうかという質問が添えられていた。どうやら、これまで、クラシックに馴染む機会がないままにお過ごしになってきたようなのだ。
それにしても、90歳目前でクラシックにチャレンジとは大した心意気だ。ここはひとつ手伝わねばとおせっかいな私は思った次第。
もちろん私とて、さほど詳しいわけではないので、とりあえず、アマゾンで見つけた5枚組のモーツァルトのアンソロジーのようなCDをお送りし、その後は自分がもっているCDでダブっていたり多分もう聴かないでだろうものをもってお宅へお伺いすることにした。
それが14日のことであった。
持参したCDは馴染みやすいものとして、ビゼーの「カルメン組曲1・2」「アルルの女組曲1・2」、ヴィヴァルディ「四季」、ドヴォルザーク「九番 新世界より」、チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」、ショスタコーヴィチ「五番 革命」などをお持ちした。
最後はややハードルが高いかもしれないと思ったが、大牧さんがかつての左翼「青年」であったことをおもんばかったからである。
加えて、私の友人、「浪花の歌う巨人バギやん」こと趙博氏のオリジナルのCDも二枚おもちした。
温かい陽射しにも恵まれて、お連れ合いのフサエさんともども歓待していただくなかで話が弾んだ。というか、私がひたすら薀蓄を傾けたというべきか。
この会話の中で、フサエさんの方はお若い頃、「労演」などの催しで、オケなどクラシックに触れていらっしゃったことが判明した。
趙博氏のCDには笑い転げたり、あるいはしんみりしながら三人で聴いた。
楽しい時間は過ぎるのが早い。あとは持参したものをゆっくりお聴きいただくことにしてお宅を辞することに。
そうしたら、ずっしりと重いおみやげを頂いてしまった。中身はフサエさんがお育てになった大根が二本(野菜高のこの時期、ありがたい!)、それに、お酒が一本。その名も丸岡城。
丸岡というのは先般来、豪雪でしばしばニュースにもなった福井県坂井市の一角で、かつては丸岡という独立した町であった。
このお酒を大牧さんからいただくのにはある意味がある。何を隠そう、大牧さんは知る人ぞ知る中野重治の研究家で、『研究中野重治』(共著)『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などのご著作があるのだ。
で、それがなぜ丸岡かというと、その中野重治が生まれ、育った場所こそが丸岡なのである。したがってこの地では、中野重治がらみの催しが結構あり、大牧さんもよくお出掛けになるので、このお酒もその折に求められたものであろう。
だから、飲む方も心して飲まねばならない。
いただきもののハイライトはそのほかにあった。それは、「お金では決して買えない」フサエさんの手作りの料理。基本的には、フサエさんがその辺歴の中で、特に徳山での暮らしの中で身にお付けになったレシピによる田舎料理である。
それらを六品も頂いた。はっきりわかるのは梅干しとカブラの漬け物、そして白菜漬けだが、ただし、この白菜漬け、味はキムチ風。それも市販のキムチのようにベチャとした感じではなく、和風のさっぱりした白菜漬けと韓流のキムチ風味が合わさったような味わいでシャキシャキとしてとてもおいしい。
あとは和食とか洋食の概念での区分はつけがたい独特の料理である。素材も調理法もかんたんにはわからない。しかし、これが不思議で珍しく、そしておいしい。これは私がお世辞でいっているのではない。
フサエさんの料理は、「編集グループ〈SURE〉」から、『フサエさんのおいしい田舎料理』という本で紹介されているほどなのだ。
いらないようなCDでこんなものをいただくなんて、これがまさに「海老で鯛を釣る」だ。
頂いたもの殆どが保存食で日持ちがする。だから、しばらくはその味を楽しむことができる。
これを書いていたら、大牧さんから「いまドヴォルザークを聴いています」というメールを頂いた。
【おまけの感動】大牧さんが使っていらっしゃるパソコンは、けっこう大画面のディスクトップ型だが、その壁紙に使っていらっしゃる映像は、かつて住んでいらっしゃった徳山村の、さらにご自分の集落の航空写真だった。
それをカーソルで指しながら、自分のうちはここ、そして畑はここ、そこへ一輪車を押してゆく行程のつらさや勾配のきつさなどを伺った。
ここにあった誰それの家はどうしたとか、その子供がどうだとかの大牧さんとフサエさんとの会話は、もう私のついて行けない領域だったが、お二人の望郷の念がひしひしと伝わってきて、感動モノだった。