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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

破砕・裁断されるものたち  〈貨幣〉の前での〈もの〉と〈ひと〉 

2018-02-06 11:21:33 | 日記
 2月4日付の私の記事は、節分で売れ残った、あるいは売れないと判断された太巻き寿司が、節分当日の午後にはもう破砕機にかけられていることへ言及したものだったが、それについて、ドイツに居る私の友人からメールで以下のような感想が届いた。
 「確かに日本は狂ってますね。
 これも資本主義の行きつく先を暗示しています。
 《要らなくなって裁断》されるのが、寿司ではなくて人間になるときがいつか来るのでしょうか。というか、もう来ているというか。悲しい世の中になってしまいました。
 僕などは一昨日作った豚汁もどきを今日まで食べています。」

 ここには、破砕されるのが寿司ではなく不要な人間というディストピアがイメージされている。しかしこれはありえない話ではない。

            
 
 資本が支配する世界では、貨幣の増殖こそが絶対命令となる。だから、私たちが「食べもの」として認識している太巻き寿司は、資本にとっては貨幣を生み出すための用材に過ぎず、したがってそれが売れないとわかった時点で、それはより低次の貨幣の代替え物、豚の餌へと破砕される。
 ここにはもったいないという感覚などはない。あるとすれば太巻きのままの価格で貨幣と交換できなかったことを惜しむ感覚があるに過ぎない。
 ここではそのもの(この場合は太巻き寿司)への尊厳などはどうでもいいのだ。貨幣との交換のみが目指される。だから資本は、貨幣と交換しやすいものへと常に移動する。

            

 こうした社会では人間もまた資本増殖のための用材となる。大部分の人は、自分の労働力を売って生計を立てている。
 資本はより有利な条件でこの労働力(商品)を買おうとする。だから生涯雇用や年功序列型の資本にとって不合理な労働形態は極力減らしたい。それがここにきて不定期労働者の急増を導いたことはいうまでもない。

 ドイツの友人は、不要になった労働力商品としての人間、資本にとって価値を生み出さなくなった人間について言及している。さすがにまだ、まとめて裁断するには至っていないが、有能な労働力を生み出すためのプロジェクトは国家ぐるみで行われている。
 そのひとつは教育である。大学はいまや企業の求める人材の供給所として固定され、何かと小うるさい文系の学部不要論もでてきている。
 幼児の頃から教育勅語を唱和し、国家への忠誠を誓う小学校の存立に痛く感激し、共感した安倍夫妻が、その小学校の設立に特別の便宜を図ったのが森友学園問題の発端であった。

            
            

 教育のみではない。有能な労働力商品確保のために、人間生活の個人の領域にまで国家が踏み込んでくるのが今日の実情だ。生命過程への干渉は「生政治」と言われたりもする。結婚しない人、子供を産まない女性への非難の本音は、しばしば国会の野次でも登場する。障害のある子を持つ親は、野田聖子のような国会議員でも、税金の無駄遣いと非難される。

 一方で出産の段階での選別は、生前診断の普及とともに、もはや一般化されている。障害を持つ疑いがある子は、胎児の段階で始末され、反面、健全で有能なデザイナーベビーやドナーベビーが奨励される。クローン猿に成功したからには、クローン人間はもう目の前だ。
 「生政治」は、資本にとって有用な労働力商品を確保する機能をいまや公然と担いつつある。かくて、ナチスが道半ばにして果たし得なかった優生学的な人間の選別を、現代社会はそれと知られぬようにすでにして導入しているといえる。

            

 こうして、ドイツの友人がいうところの不要な人間の裁断は、いまのところその生誕での選別に送り返されてはいるのだが、資本増殖にとっての効率や合理性に特化され、インプットされたAIが生産や流通、そしてそれらを総括的に管理する国家部門を支配するとき、その「合理的判断」によっては、人間裁断というディストピアが決して夢想ではないところへと、私たちはさしかかっている。

            

 科学技術がもたらすその成果のみを享受し、その果てにあるディストピアを回避できるほど人類は賢いのだろうか。技術としても欠陥ばかりが目立つ原発の経緯が問われるのもこのレベルにおいてだ。
 近い将来、「豚汁もどき」を三日間も食べ続ける人間は、存続を許されるのだろうか。


コメント (2)
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