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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「田園まさに荒れなんとす」

2016-08-13 02:07:21 | よしなしごと
 草ぼうぼうの空き地である。これでは何があったのかもわからない。
 しかし、何年か前には、ここは整然と区画が施され、そのそれぞれに思い思いの作物が栽培されていた貸し農園だった。

  
 
 「だった」と過去形で語ってしまっていいのかどうかはよく解らない。というのはごく限られた一角では、まだ栽培が行われているからだ。しかしそれらも、伸び放題の雑草に囲まれてしまってその区画自体がほとんどわからない。というのはかつて、それぞれの区画を区分していた通路にまで雑草がはびこってしまった結果、区画そのものがわからなくなってしまっているからだ。
 かつてのここがどんなふうだったのか、ネットの中にそれとそっくりな写真があったので載せておこう。本当にこんな感じだったのだ。

          

 それがこんなにも荒れてしまったのはどうしたことだろう。いわゆる貸し農園のブームが去ってしまったのだろうか。それともここだけの特殊な現象なのだろうか?
 
 前はこの農園を通りかかるのが楽しみだった。季節の野菜やその花々をよくカメラに収めた。農作業に来ている人と会話を交わすこともあった。それによって私自身の野菜の知識も深まった。オクラの花があんなにも楚々として美しいのを知ったのもこの農園でのことだった。

          
       貸し農園ではないが個人の畠。数年前までは整然と作物が・・・。

 正直いうと、以前はこうした菜園ブームのようなものに対してはいささか斜に構えた考えをもっていた。
 地球規模で、大陸規模で、国家や地方の規模で、自然が壊滅的な打撃を被り続けるなか、こうした箱庭のようなチマチマっとした空間にお気にい入りのものを植え付けて、なんか自然と一体になったような気分に浸るなんて偽善的ではないか、といった具合であったのだが、いまではそうではない。

          
          2、3年前までは緑の稲が風にそよいでいたのに

 大状況が変わらないかぎり小状況での試みは無駄であるという考え方はとても高飛車であり、同時にある種の諦観ないしはペシミズムを招くにすぎない。どんな些細な試みであれ、それ自身の意味はあるはずなのだ。
 だからこそ、この貸し農園の衰退は気になる。そうした自然とのささやかな交流をもとうとする志向すら失われつつあるのだろうか。

             
          かつての小川。今は半年間は干上がっている

 しばらく前から、私の居住周辺の環境が急速な変貌を遂げようとしていると書いてきた。休耕田がどんどん増え、それらが売りに出され、埋め立てられ、都市機能のうちへと組み込まれてゆく。それ自身がさらに都市化を呼び込み、オセロゲームのようにその間の田畑がひっくり返ってゆく。

   
      荒廃した貸し農園の中で健気に育っているミニトマトとホオヅキ

 これは、いわゆるグローバリゼーションが先進国の周辺に及ぼしているものと相似形なのであろう。
 ふと、「田園まさに荒れなんとす」という言葉が念頭に浮かぶ。陶淵明の「帰去来」の一節であるが、もちろんこの詩とは全く状況を異にするが、やはり、そのフレーズが蘇ってくる。
 陶淵明は、都での出世を諦め故郷へ帰る意気込みを謳っている。そしてその長い詩の結語は、人の生涯は有限なのだが自然はより悠久であり、だからこそそうした自然と関わることの意味を述べている。

  http://tao.hix05.com/102kaerinan.html
 



コメント (2)
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