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映画『この国の空』を観る(ネタバレ極力なし)

2015-08-26 13:52:15 | 映画評論
 この映画は、戦後70年を意識して作られてはいるが、戦場や兵士の話ではなく、「銃後」の話である。
 銃後とは、簡単にいってしまえば戦争には直接ゆかない人たちの話だが、しかしながらそれが戦争や戦場に直結し、それらに規制された厳しいものであったことはいうまでもない。
 国民生活の一挙手一投足が厳しい統制下にあったことは、当時幼年時代を過ごした私も経験している。

 しかし、この映画はそれらを、理不尽なものとして強調するよりも、当時の自然な一般的背景であり、日常としてをさらりと描いている。
 たしかにそれらは、度重なる空襲、焼け出され、食糧難、田舎への買い出し、などなど大変なことの連続ではあるのだが・・・。

          

 それらの銃後の世相として、まずは若い男性はまったく登場しない。子どもたちも疎開の結果として町には一人もいない。いるのは女性と老人ばかりだ。
 買い出しに行った田舎で川遊びをする子どもたちを見かけ、「まあ、ここにはこんなに子どもたちが・・・」が驚くシーンが象徴的である。

 したがって、19歳という思春期を迎えた里子(二階堂ふみ)の周辺にも、若い男性はまったくいない。
 ただ一人、30代なかばで兵隊検査で「丙種(あまり健康ではない)」と認定され、召集令状を免れた銀行員の市毛が、里子の隣家に住むのみだ。

 この市毛は、家庭を持っているがその妻子を田舎へ疎開させ、単身で暮らしている。したがって、里子の性的リビドーは、その市毛を対象とするし、市毛の方も何かと身の回りの世話をしてくれる里子を心憎からず思うようになる。

          

 しかも時代は1945(昭和20)年の夏とあって、銃後といえども、引き続く空襲、米軍上陸に際しての本土決戦の切迫感と、状況はもはや急雲を告げようとしている。そんな状況を背景に、里子と市毛の関係は急速に接近する。

 そんななか、友人に新聞記者がいる市毛によって、8月14日の夜、敗戦の報がいち早く里子たちにもたらされる。
 そして、それを聞いた里子の横顔のクローズアップで、映画は終わるのだが、そのテロップには、「私の戦争は明日始まる」とという里子の決意のようなものが表明される。

          

 この瞬間まで、「銃後」は、まるで自然現象であるかのように描かれていたのだが、その銃後を銃後たらしめている戦争が、まさに人為的なものであり、それが故にその終焉を迎えつつあることが示される。
 そしてそれは、里子にとっての意識的な戦争の始まりであり、この国にとっても戦後という社会をどう作ってゆくのかの新たな戦いの始まりでもあった。

 エンディングにオーバーラップして、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」の詩が朗読される。

          

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね


          

 したがって里子の言葉である、最後のテロップは、茨木のり子がそうであったように、この時代に「一番きれいだったとき」の女性の「戦後の戦いの始まり」を示唆している。
 そしてそれは、すでに述べたように、この国の私たち全員の「戦後」という時代そのものを問うてもいるのだ。

 果たせるかな、監督の荒井晴彦は次のように語っている。

 「この国の戦後は、戦争が終ってよかっただけでスタートしてしまったのではないだろうか。まるで空から降ってくる焼夷弾を台風のような自然災害のように思って、誰が戦争を始めたのか、そして誰がそれを支持したのかという戦争責任を問わずに来てしまったのではないだろうか。戦争が終ってバンザイじゃない娘を描くことで、この国の戦後を問えるのではないかと思った。」

 その意味ではこの映画は、井上ひさしの原作で、黒木和雄監督(宮沢りえ主演)によって映画化された『父と暮らせば』とどこかで通底するのかもしれない。

 里子を演じる二階堂ふみの演技は細やかな神経がゆきとどいているし、脇を固める、工藤夕貴、富田靖子、石橋蓮司、奥田瑛二なども手堅い。里子の相手役、市毛に扮する長谷川博己は後半やや硬いように感じたが、そういう演出だったのかもしれない。

 余談だが、「この国の空」を飛ぶB29の映像がとても綺麗だった。私もあの敗戦の夏、上空を飛ぶそれを見て、恐怖心とともにすごいなぁと思った記憶がある。
コメント (2)
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