選挙の余波が続いているが、そのなかで注目すべきは投票率の低さであろう。
確かに天候の問題もあったし、あれほど事前に与党圧勝が叫ばれれば、何も俺がゆかなくても思う気持ちもわかる。投票権は、行使するもしないもその人の自由なわけだから、それを責めても始まらない。
それにしても今回の低投票率は気にかかる。
50%を切った県が8県もある。
「民主主義政治」というものの形式的な内実は「代表制」による「多数決原理」とされている。これにさまざまな意義付けを付加したり注入しても、現実にはその形式においてのみしか機能していない。
しかし、投票者が半分を切り、そのまた30%台を確保した党が政権に着くとしたら、それ自身は実は「代表制と多数決原理による」といわれる「民主主義」政治の根幹が否定されている、あるいは少なくとも揺らいでいるということではないだろうか。
「多数決原理」を支えるものは、「最大多数の最大幸福」という理念だろう。
しかし、この低投票率が示すものは、最大多数を決する分母そのものが全くその役割を果たしていない、したがって、そこで選ばれた者たちは、最大多数とはまったくいえないということだ。
誤解しないで欲しいが、これは与党のみを指していっているのではなく、国会という機関そのものが形式民主主義の理念からさえもすでに外れているということなのだ。
民主主義は、語源的にいえば民衆(デモス)の権力(クラティア)だとされる。しかし、現実はこのデモスそのものが舞台には登場してこないところにある。
なぜデモスは舞台から退くのか。「進んだ者たち」はそれを迷妄のうちにあると考え、その蒙を啓こうとする。あるいは「遅れた者たち」、「脱落した者たち」として密かに侮蔑したりする。
しかし、彼らはより利発なのかもしれない。
代理制の多数決原理による政治が、デモスの政治とは全く異質であり、予めデモスのほとんどを放置したところで行われていることを「知っている」のかもしれない。
今日の政治が「デモスの権力」とは全く別のある支配機構によって寡頭的な支配としてあることを知ってしまっているのかもしれない。
むしろ、「進んだ者たち」はそのことをどこかで知っているのだが、知らないふりをしているのではないだろうか。
その寡頭的支配者を、これと名指すことはできない。なぜなら今日的な寡頭制とはある種の複合体として機能していて、あたかもノウ・ボディの支配による如く不可視だからである。
しかし、ノウ・ボディによるとはいえ、支配は厳然としてある。
この、ノウ・ボディの背後にうっすら見え隠れする複合体の形成要素を名指すことは可能かもしれない。政(与野党すべてを含む)、官、財、学、メディア、文化人、教育者などなどである。彼らは目に見える形を形成したり指揮系統を持っているわけではない。時にはその内部での闘争もありうる。にもかかわらず、その総体があたかもひとつの一般意志のようなものとして私たちを支配している。
この視点からすれば、選挙そのものも、その支配貫徹のシステムにしかすぎない。09年の選挙のような「政権交代」も、この支配、誰のものともわからないゆるやかなノウ・ボディによる支配の一環であり、デモスの間に溜まったガスを一時的に減圧するものだったともいえる。
事実その後の三年間、「政権」は変わったかもしれないが、この複合体による支配はびくともしなかった。
この間唯一、この複合体による寡頭支配のリアルさが垣間見られたのは、原発事故を巡る諸問題においてであった。この「危機」においてもはやノウ・ボディであることをはみ出して、上に述べた複合支配の様相が浮かび上がったのだった。
それは同時に、私たち自身がその寡頭支配のうちにあっては、「放置された者」でしかないことを反照的に浮かび上がらせるものであった。
具体的なことはともかく、この複合体による寡頭支配は代表制による多数決原理というデモクラシーの仮面をまとって私たちの前に立ちはだかっている。
こうした「デモクラシー」へのいらだちというものは、いわゆる左右両翼において広がっている。右翼にはもっと明確な寡頭制への期待があるし、左翼にはどこかデモスを愚衆として侮蔑しているところがある。いずれにしてもデモスは放置されている。
これは原理的な問題だからうんと飛躍をするが、代表制による多数決原理そのものは廃止した方がいい。かといって専制や独裁を主張するわけではない。
直接民主主義は地理的、時間的制約で無理がある。
残るところは抽選、要するにくじ引きである。
代表制の残滓はあるものの、その代表の選出をまったき「偶然性」に委ねるということである。
このメリットは、「強いものが勝つ」というあらゆる寡頭制の「必然性」を断つところにこそある。
《追記》くじ引きなどというと荒唐無稽に思われるかもしれないが、ヨーロッパの地方自治体、そして世界中のあらゆる小規模自治体で採用されている方法である。ヨーロッパの場合は、政党政治家などを排除し、地方自治専門に焦点を絞って考える市民の自治形態である。議会は夜開かれ、自分の「選挙区」などに考慮することなく議論が行われる。イデオロギーや党利党略とは関連のないところで、市民目線で話が進む。
もちろん、問題が全くないわけではない。しかし、それらを差し引いても、寡頭制を排したデモスによる統治という意味はある。
確かに天候の問題もあったし、あれほど事前に与党圧勝が叫ばれれば、何も俺がゆかなくても思う気持ちもわかる。投票権は、行使するもしないもその人の自由なわけだから、それを責めても始まらない。
それにしても今回の低投票率は気にかかる。
50%を切った県が8県もある。
「民主主義政治」というものの形式的な内実は「代表制」による「多数決原理」とされている。これにさまざまな意義付けを付加したり注入しても、現実にはその形式においてのみしか機能していない。
しかし、投票者が半分を切り、そのまた30%台を確保した党が政権に着くとしたら、それ自身は実は「代表制と多数決原理による」といわれる「民主主義」政治の根幹が否定されている、あるいは少なくとも揺らいでいるということではないだろうか。
「多数決原理」を支えるものは、「最大多数の最大幸福」という理念だろう。
しかし、この低投票率が示すものは、最大多数を決する分母そのものが全くその役割を果たしていない、したがって、そこで選ばれた者たちは、最大多数とはまったくいえないということだ。
誤解しないで欲しいが、これは与党のみを指していっているのではなく、国会という機関そのものが形式民主主義の理念からさえもすでに外れているということなのだ。
民主主義は、語源的にいえば民衆(デモス)の権力(クラティア)だとされる。しかし、現実はこのデモスそのものが舞台には登場してこないところにある。
なぜデモスは舞台から退くのか。「進んだ者たち」はそれを迷妄のうちにあると考え、その蒙を啓こうとする。あるいは「遅れた者たち」、「脱落した者たち」として密かに侮蔑したりする。
しかし、彼らはより利発なのかもしれない。
代理制の多数決原理による政治が、デモスの政治とは全く異質であり、予めデモスのほとんどを放置したところで行われていることを「知っている」のかもしれない。
今日の政治が「デモスの権力」とは全く別のある支配機構によって寡頭的な支配としてあることを知ってしまっているのかもしれない。
むしろ、「進んだ者たち」はそのことをどこかで知っているのだが、知らないふりをしているのではないだろうか。
その寡頭的支配者を、これと名指すことはできない。なぜなら今日的な寡頭制とはある種の複合体として機能していて、あたかもノウ・ボディの支配による如く不可視だからである。
しかし、ノウ・ボディによるとはいえ、支配は厳然としてある。
この、ノウ・ボディの背後にうっすら見え隠れする複合体の形成要素を名指すことは可能かもしれない。政(与野党すべてを含む)、官、財、学、メディア、文化人、教育者などなどである。彼らは目に見える形を形成したり指揮系統を持っているわけではない。時にはその内部での闘争もありうる。にもかかわらず、その総体があたかもひとつの一般意志のようなものとして私たちを支配している。
この視点からすれば、選挙そのものも、その支配貫徹のシステムにしかすぎない。09年の選挙のような「政権交代」も、この支配、誰のものともわからないゆるやかなノウ・ボディによる支配の一環であり、デモスの間に溜まったガスを一時的に減圧するものだったともいえる。
事実その後の三年間、「政権」は変わったかもしれないが、この複合体による支配はびくともしなかった。
この間唯一、この複合体による寡頭支配のリアルさが垣間見られたのは、原発事故を巡る諸問題においてであった。この「危機」においてもはやノウ・ボディであることをはみ出して、上に述べた複合支配の様相が浮かび上がったのだった。
それは同時に、私たち自身がその寡頭支配のうちにあっては、「放置された者」でしかないことを反照的に浮かび上がらせるものであった。
具体的なことはともかく、この複合体による寡頭支配は代表制による多数決原理というデモクラシーの仮面をまとって私たちの前に立ちはだかっている。
こうした「デモクラシー」へのいらだちというものは、いわゆる左右両翼において広がっている。右翼にはもっと明確な寡頭制への期待があるし、左翼にはどこかデモスを愚衆として侮蔑しているところがある。いずれにしてもデモスは放置されている。
これは原理的な問題だからうんと飛躍をするが、代表制による多数決原理そのものは廃止した方がいい。かといって専制や独裁を主張するわけではない。
直接民主主義は地理的、時間的制約で無理がある。
残るところは抽選、要するにくじ引きである。
代表制の残滓はあるものの、その代表の選出をまったき「偶然性」に委ねるということである。
このメリットは、「強いものが勝つ」というあらゆる寡頭制の「必然性」を断つところにこそある。
《追記》くじ引きなどというと荒唐無稽に思われるかもしれないが、ヨーロッパの地方自治体、そして世界中のあらゆる小規模自治体で採用されている方法である。ヨーロッパの場合は、政党政治家などを排除し、地方自治専門に焦点を絞って考える市民の自治形態である。議会は夜開かれ、自分の「選挙区」などに考慮することなく議論が行われる。イデオロギーや党利党略とは関連のないところで、市民目線で話が進む。
もちろん、問題が全くないわけではない。しかし、それらを差し引いても、寡頭制を排したデモスによる統治という意味はある。