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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

デモス=放置された者たちの復活のために 民主主義原論

2014-12-17 00:43:53 | 社会評論
 選挙の余波が続いているが、そのなかで注目すべきは投票率の低さであろう。
 確かに天候の問題もあったし、あれほど事前に与党圧勝が叫ばれれば、何も俺がゆかなくても思う気持ちもわかる。投票権は、行使するもしないもその人の自由なわけだから、それを責めても始まらない。

 それにしても今回の低投票率は気にかかる。
 50%を切った県が8県もある。

 「民主主義政治」というものの形式的な内実は「代表制」による「多数決原理」とされている。これにさまざまな意義付けを付加したり注入しても、現実にはその形式においてのみしか機能していない。
 
 しかし、投票者が半分を切り、そのまた30%台を確保した党が政権に着くとしたら、それ自身は実は「代表制と多数決原理による」といわれる「民主主義」政治の根幹が否定されている、あるいは少なくとも揺らいでいるということではないだろうか。
 
 「多数決原理」を支えるものは、「最大多数の最大幸福」という理念だろう。
 しかし、この低投票率が示すものは、最大多数を決する分母そのものが全くその役割を果たしていない、したがって、そこで選ばれた者たちは、最大多数とはまったくいえないということだ。

          

 誤解しないで欲しいが、これは与党のみを指していっているのではなく、国会という機関そのものが形式民主主義の理念からさえもすでに外れているということなのだ。
 
 民主主義は、語源的にいえば民衆(デモス)の権力(クラティア)だとされる。しかし、現実はこのデモスそのものが舞台には登場してこないところにある。
 なぜデモスは舞台から退くのか。「進んだ者たち」はそれを迷妄のうちにあると考え、その蒙を啓こうとする。あるいは「遅れた者たち」、「脱落した者たち」として密かに侮蔑したりする。

 しかし、彼らはより利発なのかもしれない。
 代理制の多数決原理による政治が、デモスの政治とは全く異質であり、予めデモスのほとんどを放置したところで行われていることを「知っている」のかもしれない。
 今日の政治が「デモスの権力」とは全く別のある支配機構によって寡頭的な支配としてあることを知ってしまっているのかもしれない。
 むしろ、「進んだ者たち」はそのことをどこかで知っているのだが、知らないふりをしているのではないだろうか。

 その寡頭的支配者を、これと名指すことはできない。なぜなら今日的な寡頭制とはある種の複合体として機能していて、あたかもノウ・ボディの支配による如く不可視だからである。
 しかし、ノウ・ボディによるとはいえ、支配は厳然としてある。

 この、ノウ・ボディの背後にうっすら見え隠れする複合体の形成要素を名指すことは可能かもしれない。政(与野党すべてを含む)、官、財、学、メディア、文化人、教育者などなどである。彼らは目に見える形を形成したり指揮系統を持っているわけではない。時にはその内部での闘争もありうる。にもかかわらず、その総体があたかもひとつの一般意志のようなものとして私たちを支配している。
 
          

 この視点からすれば、選挙そのものも、その支配貫徹のシステムにしかすぎない。09年の選挙のような「政権交代」も、この支配、誰のものともわからないゆるやかなノウ・ボディによる支配の一環であり、デモスの間に溜まったガスを一時的に減圧するものだったともいえる。
 事実その後の三年間、「政権」は変わったかもしれないが、この複合体による支配はびくともしなかった。

 この間唯一、この複合体による寡頭支配のリアルさが垣間見られたのは、原発事故を巡る諸問題においてであった。この「危機」においてもはやノウ・ボディであることをはみ出して、上に述べた複合支配の様相が浮かび上がったのだった。

 それは同時に、私たち自身がその寡頭支配のうちにあっては、「放置された者」でしかないことを反照的に浮かび上がらせるものであった。

          

 具体的なことはともかく、この複合体による寡頭支配は代表制による多数決原理というデモクラシーの仮面をまとって私たちの前に立ちはだかっている。
 こうした「デモクラシー」へのいらだちというものは、いわゆる左右両翼において広がっている。右翼にはもっと明確な寡頭制への期待があるし、左翼にはどこかデモスを愚衆として侮蔑しているところがある。いずれにしてもデモスは放置されている。

 これは原理的な問題だからうんと飛躍をするが、代表制による多数決原理そのものは廃止した方がいい。かといって専制や独裁を主張するわけではない。
 直接民主主義は地理的、時間的制約で無理がある。
 残るところは抽選、要するにくじ引きである。
 代表制の残滓はあるものの、その代表の選出をまったき「偶然性」に委ねるということである。
 このメリットは、「強いものが勝つ」というあらゆる寡頭制の「必然性」を断つところにこそある。 


《追記》くじ引きなどというと荒唐無稽に思われるかもしれないが、ヨーロッパの地方自治体、そして世界中のあらゆる小規模自治体で採用されている方法である。ヨーロッパの場合は、政党政治家などを排除し、地方自治専門に焦点を絞って考える市民の自治形態である。議会は夜開かれ、自分の「選挙区」などに考慮することなく議論が行われる。イデオロギーや党利党略とは関連のないところで、市民目線で話が進む。
 もちろん、問題が全くないわけではない。しかし、それらを差し引いても、寡頭制を排したデモスによる統治という意味はある。



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4 コメント

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舞台が変わっても‥ (杳子)
2014-12-17 09:05:35
「代表制による多数決原理そのものは廃止」して、「くじ引き」にでもすれば、舞台から退き、退き続けているデモスは、舞台に戻ってくるのでしょうか?どんな舞台であろうが、自分たちでまわしていくんだという基本姿勢がないことには、果てし無い混乱を招くばかりのような気がするのですが。
返信する
果てしない混乱 (六文銭)
2014-12-17 12:04:29
 分かりにくいかもしれませんが、現状は決して混乱しているわけではありません。粛々として、ある寡頭制からなるエスタブリッシュメントの意志が予定調和的な秩序を作り上げつつあるところです。
 そしてそこで、「デモス」は放置され続けるのです。
 
 したがって民主主義は、放置された者たちの反乱としてそれに異議申立てをし、予定調和にあえて「混乱」を持ち込むのです。
 これが必然性(=寡頭制による予定調和)の政治に対し、偶然性(抽選、放置されたものの登場、言葉なき者の言葉)に依拠した流動の政治であり、専制君主や優れた者(金、力、社会的地位、家柄、学歴、などに恵まれた者たち)の寡頭制をを脱しようとする限り、そして、デモスの政治を実現しようとする限り、この立場は不可避なのです。
 
 デモスの政治は現在の寡頭制の予定調和的安定に対して混乱を持ち込むものとしてあります。そしてその混乱こそが民主主義の根幹なのです。カタストロフへ向かう必然性=寡頭制の政治に、ストップを掛け、今一度デモスのオピニオンがぶつかりあう場を創生することが必要なのです。
 しかし、これはどのような意味においてもユートピアの到来を意味するものではありません。ユートピアへの甘い誘惑がひとつの価値観の共有の強制として再び独裁や専制などの寡頭制と生み出すことを歴史は示しています。
 
 デモスの政治はそれらとは無縁です。
 吉と出るにしろ、凶と出るにしろ、それ自体がデモスによる選択であることに意味があります。

 もうひとつ言い添えるなら、現在の必然性とも思える政治とそれが生み出しつつある秩序は、上で考察してようにもはや形式民主主義の用件をも満たしていないことも鑑み、もともと無根拠なのです。

 同じ無根拠なら、その過程をデモスによる政治に取り返せというのが上の主張です。

 ただし、本文でも断っておきましたように、これはあくまでも「民主主義原論」にしかすぎません。またこれが一朝一夕に実現するとは思いません。
 しかしながら、民主主義を標榜する以上(そうでない人もいますが、彼らもそれを民主主義というオブラートに包み込んでいます)、常にこのデモスの政治は参照点であり、そこへの接近こそが目標とされるべきだと思います。

 冷戦が終わり、「民主主義の勝利」が謳歌されるなか、皮肉にも、左右両翼からの民主主義への憎悪が始まりつつあります。
 上記はこうした風潮を前提に、今回の選挙を「民主主義原論」の立場から評したもので、現段階での実践の具体的提起ではありません。
 デモクラシーを標榜する以上、それを思考してゆく上での参照点を示したものにすぎません。
 
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思考の出発点は (杳子)
2014-12-18 12:21:46
「デモスのオピニオンがぶつかりあう場」といい、「放置された者たちの反乱としてそれに異議申立て」といいますが、そもそもデモスのおおくがオピニオンを持ち、それを他者のとぶつかりあわせることができるようになるのでしょうか?
現状この日本において、デモスのおおくは自身のオピニオンを持っているでしょうか。
それを持っていたとして、それを表出し他者と議論し合うことができるでしょうか。

ニワトリと卵のたとえのごとく、適切な「舞台」が与えられればそのようになるのでしょうか。そうだといいのですが、私はそうは思えないのです。
社会の意思決定の議論がなされる際には、自身の意見を持ち、表出し、それについて責任を持つという人々の存在が前提となり、しかもそれは「一握り」でなく、社会を構成する人々の多くがそのようである状態が条件となるでしょう。
けれども、現状そうした条件は満たされていない。ならば、デモクラシーを思考して行く際の出発点は、まずどうやってそのような状態にもっていくのか、ということではないかと思うのです。その条件が満たされているならば、現行の「代表民主制」もそれなりに使えるのではないでしょうか。
返信する
デモスのオピニオン (六文銭)
2014-12-18 23:51:29
>杳子さん ご応答ありがとうございます。
 
 何度もお断りしていますが、これは「原論」としての参照点ですから、現実の可能性となることは極めて困難であり、むしろ、ある種の特異点かも知れません。
 それを前提にして再論するのですが、デモスの多くがオピニオンを持っていないとは断言できません。デモスのオピニオンの半数近くは、現実の政治状況は自分たちとは関わりのないところで演じられているお芝居のようなものであり、自分たちはそこへと招かれてはいない、いわば放置されているというのが実情ではないでしょうか。
 
 それが今回の半数近い棄権の物語っているところではないかと思います。現実のコメントとしては、忙しいからとか、ほかに興味が有ることがあるからということでしょうが、それ自身が政治とは隔絶されているということを前提としています。何をいっても、どうせどこか自分とは手の届かないところで決められるのだから、というわけです。
 そしてこれが寡頭制がもたらした結果であると同時に、寡頭制を可能にしている条件でもあります。
 
 寡頭制の形成者は、いつも「これでもってお分かりいただけると思います」とか「ぜひご理解いただきたい」などといいますが、これは、喧嘩の勝者が、「どうだ、わかったか!」というのと同様、デモスの理解を求めているのではありません。理解はともかく、「従え!」と言っているのです。政治に関わろうとしない人たちは、そのことを「知って」いるのです。
 
 まさにこれは、おっしゃるように「ニワトリと卵」の循環かもしれません。ですから、「ならば、デモクラシーを思考して行く際の出発点は、まずどうやってそのような状態にもっていくのか」とおっしゃるのはそのとおりだと思います。
 しかし、拍子抜けなさるかもしれませんが、そのための妙案などというのはありません。少なくとも私自身には思いつきません。

 ただいえることは、民主主義を標榜する以上、現行の寡頭支配という「擬制の」民主主義に対して、デモスの権力というその原点を参照しながら異議申立てを行い続けること、現行の支配が、「擬制」であり「無根拠」であることを暴き立てることは必要かと思います。あるいはそれに立脚した言動による実践活動です。デモンストレーションなどもその一つの形態です。

 文末でおっしゃっている「その条件が満たされているならば、現行の『代表民主制』もそれなりに使えるのではないでしょうか。」に関していうならば、その条件が満たされていないがゆえに、現行の「代表民主制」そのものが危機的状況にあるというのが、今回の棄権率が半数に迫っているという現実を前にしての私の論考の出発点でした。
 
 
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