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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

カント先生からボレロ、大根飯、芋粥へのクレッシェンド

2014-09-24 01:37:58 | よしなしごと
  真は北伊那谷にて 本文とは関係ありません。

 カントという哲学者は、なんとなくその名前の日本語の語感からしても固そうな感じがする人で、事実、その三大著作といわれるいわゆる『三批判』〈注〉は、固くて真面目な文章で埋め尽くされています。

《注》『三批判』とは『純粋理性批判』(人は何を知ることができるのか)、『実践理性批判』(人はどう振る舞うべきなのか)、『判断力批判』(人はどのようにして判断することができるのか)がそれで、つまり、「真・善・美」について述べているわけです。

 しかし、それらと平行して書かれてという『人間学』(正確には『実用的見地における人間学』)の方は、「実用的」というだけに、『三批判』で展開したものを、実際の人間の生き様に適用したような書物で、結構砕けた表現や世俗的な話題が出てきて面白いのです。

          

 例えば、「セックスほどいいものはない」という話が出てきたかと思うと「ご婦人の下着」についてなどが話題になります。
 私はまだ、「人間の感覚」などについてのところまでしか読んでいないのですが、目次を見ると、その後も、「お調子者の多血質」とか「苦虫くんの気鬱質」、あるいは「お山の大将の胆汁質」などという見出しが並んでいて面白そうなのです。

 昨日読み終えたところには、「感覚の充足状態に至るまでの漸増」として「後続する感官表象が先行する感官表象より絶えず強くなってゆくとこの系列には緊張の極限があって、それにより感覚は次第に覚醒してゆくが、そこ(頂点)を過ぎると弛緩してゆく。感覚の強度を徐々に高めてゆくこと。楽しみを自分のコントロール下に置くこと」(私のノートからですから意訳です)などという箇所がありました。

          

 これは平たくいうと、感情が次第に充足してゆくためには、その刺激を少しづつ高めていって頂点に持っていったほうがいいということです。カントは、その例として、演説や牧師様のお説教を挙げています。
 しかし、私が思いついたのはそうではなく、音楽においてのいわゆるクレッシェンド(音楽記号でいうと< を細長くしたもの)でした。そして、世界一長いクレッシェンドをもつという、ラヴェルの『ボレロ』を思ったのでした。演奏時間十数分というこの曲は最弱音から始まり、次第に音量が大きくなり、それが最大になった時に「ダダダダン」と終わります。
 まさに「感覚の充足状態に至るまでの漸増」をそのまま音にしたような音楽ですね。

 https://www.youtube.com/watch?v=ssIemc6ob5U

 それから、私のノートからの引用の最後に「楽しみを自分のコントロール下に置くこと」というのがありますが、これについてはまったく個人的な思い出があります。
 それは戦中戦後の食糧難の時代の話ですが、今のように米の飯を普通に食べるなどということは一般には不可能でしたので、いわゆる代用食でお腹をもたすしかありませんでした。
 それらの割合マシなものの方に、『おしん』で有名になった大根飯や芋粥がりました。

          

 『おしん』の大根飯はどうやら大根を角切りにして少量のコメと一緒に炊きこんだもののようですが、私が食べていたのは、大根を千切りにしてご飯というより粥状に炊き込んだものでした。はっきりいってそれほど嫌なものでもありませんでした。
 それから芋粥ですが、これもまた、芥川龍之介の『芋粥』とはいくぶん違っていました。芥川のそれは、山芋を甘葛(あまづら)という甘味のある植物の汁で煮込んだもののようですが、私の食べた芋粥はさつまいもをサイコロ状にして少量の米と一緒に炊いたものでした。これもさほど嫌な食べ物でもなかったのですが、やはり米の飯が食べたいのは事実でした。

          

 そこで私は一計を案じました。芋粥が出た折のことです。サイコロ状のさつまいもから、周りについた米粒を払い落とすようにして、先に芋だけ食べてしまうのです。すると、茶碗の底に盃に一杯か、一口分ぐらいの米粒が残るのです。大根飯の場合は、大根が千切りでしたから、こうした分離は困難でした。

 さて、最後に残った米のご飯を、という段階でいつも大人たちにからかわれました。
 「オヤ、六は米の飯が嫌いか?じゃ、食べてやろうか」
 「イヤじゃ!」
 私は必至で茶碗を抱え込みました。
 それがおかしいというので、またドッと笑いが起こるのでした。

          

 え?それがカントとどう関係があるかですか?
 ほら、いってるじゃないですか、「楽しみを自分のコントロール下に置くこと」って。
 私はまさににそれを実践し、自分の最高の欲望を最後の瞬間にまで遅延させることによって「感覚の充足状態に至るまでの漸増」を図っていたのです。
 「いや、カントはそんな意味でいってるのではない」ということですか?
 でもいいんです。哲学って抽象概念の繋がりのようなものですが、時折こうした卑近で世俗的なレベルにまで降りてこないと空疎なままに終わることもあるのですから。
 だからほら、カント先生だって、いきなりセックスや女性の下着の話までして私を驚かせるのですから。
 え?まだ何か?
 驚いてなどいなくてほんとは喜んでるんだろうですって?
 もう、あなたもくどいですね。ほっといて下さいよ。
 カントせんせ~い、助けて下さい!



 
コメント
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