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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「駅裏」が「駅西」になった理由とは?

2014-09-07 00:16:40 | 想い出を掘り起こす
 今は「駅西」というが、かつては「駅裏」といわれた場所である。
 この場合の駅とは東海道線や新幹線の名古屋駅のことである。
 この辺りの地理に詳しくない方はよく誤解するのだが、名古屋地区では東海道線は東西にではなく南北に走っている。したがって街は、その東側と西側に広がっている。

 この駅「西」が駅「裏」と呼ばれた頃、その東側との違いは天と地、陽と陰ほどの違いがあった。もちろん、東が天で、陽で、そして表であった。
 これから想定されるように、この名称の違いは単に地理的方角を表すのみならず、明らかにある価値観をも含んだものであったといえる。
 極端に言えば、この裏は、表にとっての異郷の地、境界の向こう側であったといえる。

        

 当時この地区は、東の山谷、西の釜ヶ崎と並んで日本の三大スラムといわれた地区であった。

 私が名古屋へ通い始めたのは1957(昭和32)年で、敗戦後12年を経過していて、駅の東側はなんとか都市の玄関の風貌をもっていたが、西側、つまり駅裏はバラック建てが主体の雑然とした街であった。そして少し大きい建物(といっても二階どまりがほとんどだったが)はいわゆるドヤ街で、日雇いの人たちの街といっても良かった。
 
 先輩たちたちからはよく、「あそこは怖い街だから行ってはいけない」といわれた。ただし、「物の値段などは表側と比べたら雲泥の差で安いのだ」ともいわれた。そうした情報は、そこがヘテロトピア(異他なる場所)であることを私に刷り込むこととなった。
 
 ところで、当時の私は列車で通学していたから、毎日、その「駅裏」を横目で眺めていたことになる。
 そして、そうするうちに、怖いもの見たさと、安く飲めるという意地汚さで、駅舎からあまり遠くないところ(いざとなったら逃げられるところ)で飲食をしたりもした。確かに安かった。それを先輩たちに話すと、それは犬や猫の肉を使っているからだといわれた。

 ドヤ街に一度だけ泊まったことがある。「駅裏」から少し離れた大門(かつての遊郭があった街)で友人と飲んでいて、遅くなってしまい、駅に駆けつけたのだが終車に乗り遅れてしまったのだ。
 まともな旅館に泊まる金はもちろんない。意を決してドヤ街へ泊まった。
 おっかなびっくりだった。目覚めたら身ぐるみ剥がされいたなどという話がまことしやかに語られていたからだ。だから鞄を抱くようにして寝た。

 確かに駅裏は雑然としたスラムであったが、今にして思うに、それにまつわる悪評のようなものは、そのほとんどは都市伝説のような曖昧な根拠しかもたず、あからさまな差別の眼差しに依るものだったと思う。
 しかもこうした場所の存在は、往時の戦後復興から高度成長に至る右肩上がりの状況の裏側に張り付いたこの国の必要不可欠な一面だったのだと思う。

 その間の事情は岡林信康の『山谷ブルース』(68年)が歌い上げるとおりである。
 https://www.youtube.com/watch?v=yuPyhdzyGlI

 しばらく間があって、「駅西」と名を変えたその地区へ私が足を向けるようになったのは故・若松孝二監督が「シネマスコーレ」と言う独自色の強い映画館を作ってからである。
 その頃には、もうすっかり様変わりしていて、予備校やホテル、大手の家電店などがそびえ、かつての「駅裏」の面影は、歩道まではみ出るように商品を並べて商う八百屋や乾物店などにわずかに留まるのみであった。そこには微かにではあるが、かつての闇市の匂いが残っている。
 
 そうした街への移行の過程を少しだけ知っている。
 昔の友人に名古屋市の都市計画課の土地整理かなんかの仕事をしている人がいて、彼曰く、駅裏で火事だとの報せがあると、夜中であろうがなんだろうが消防士よりも早いくらいに現場へ飛んでゆくのだそうである。
 なぜそんなことをするのかというと、その焼け跡に地権者ではない人たちが新たな建物を建てないよう、いち早く焼け跡を囲い込んでしまうというのだ。

 これはまるで、イタリアのネオ・リアリズムの映画『屋根』(1956年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督)の真逆のような話である。
 http://eiga.com/movie/50239/

 そんな経緯もあって、戦後いち早くそこに根付いた人たちをさまざまな手段や方法で駆逐してできた街が現在の「駅西」なのである。したがって、「駅裏」という言い方をしないのは、「表」に対する差別的な意味合いをなくすということでもあろうが、同時に、かつてこの街がもっていたリアルな差別の歴史を消し去ってしまおうというアンビバレンツな衝動をも秘めているといえる。
 そうした呼称の変化は、名古屋の伝統的なアウラと結びついていた町名がほとんど剥ぎ取られ、「名駅◯丁目」などという機能本位の無味乾燥なものに取って代わられた過程と平行している。

 今の駅西を見る人の目には、かつてのスラムは古層に埋まった遺跡のようにその姿を見せることはない。しかし、そこには確かに、戦後の日本がたどってきた歴史の片鱗が埋まっている。
 色とりどりのネオンがきらめく現在のこの街の華やかさが、格差や規格外の過重労働によって支えられているように。

 9月に入っての僅かな間に、奇しくもこの駅裏=駅西に二回足を運ぶ機会があった折の感慨である。

 
コメント (4)
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