*写真は直接関係ありません。身近な春爛漫です。
言葉にはそれ自身が担っている伝統的な価値評価のようなものがあります。例えば、「責任」と「無責任」を並列されると、つい、「責任」の方を選択してしまいがちです。また、「積極的」と「消極的」との場合では、なんとなく「積極的」の方がいいんじゃないのと思ってしまいがちです。
政治の言葉は、それらを巧みに使います。いわゆるレトリカルな使用というやつです。
うちのすぐ脇のハルジオン
われらが安倍首相もそうした言葉の使い方を多用するのですが、それが実はその言葉がもつ伝統的な価値を利用した詐術であることがしばしばで、私たちはその言葉が意味するものからしたら、実は正反対のものを掴まされている場合があるのです。
以下に例を挙げてみましょう。
「責任野党」
安倍首相は、本年冒頭の施政方針演説において、さまざまな政策を述べたあと、それらを推し進める主体として、自公の与党は当然として、それをさらに外から支える野党として、「責任野党」という言葉を用いました。
この、無責任ー責任の分類には、「何にでも反対するしか能のない野党」を念頭に、場合によっては自分たちを支えてくれるであろう野党への期待をにじませたものでした。とりわけ憲法の改正等には、三分の二という壁がありますから、より多くの「健全で責任ある」人たちを集めたいわけでしょう。
一般的にいっても、こうして野党を分断しようという戦術は巧妙といっていいかもしれません。
ところで、首相がそれを述べた折、具体的に念頭に置いていたのはどこでしょうか。ひとつは、橋下氏率いる「日本維新の会」でしょう。そしてもうひとつは、渡辺代表が率いていた「みんなの党」だろうと思われます。
あるいは党全体ではないにしても、改憲の志を同じくする、民主党内の人たちへの語りかけであったのかもしれません。
南天の新葉 右上が私の軟禁されている部屋
ところで、それらの責任野党はその後どうなったでしょうか。
まずは「日本維新の会」ですが、橋下代表の「大阪都構想」がなかなか理解されない(?)ということで、いきなり市長を離職し、何十億の税を無駄に用いて出直し選挙に訴える事となりました。
結果はご承知のように、橋下氏の再選となりましたが、有権者総数に対する絶対得票率は17.85%であり、二位は67,500票の無効票という異例の展開となりました。
結果として、橋下氏の信頼度が増したかというとそれは逆効果という他なかったと思います。それにも増して露呈したのはこの党のデタラメさで、相変わらず、共同代表の石原氏の言説はちゃらんぽらんで、東は東、西は西といった具合です。
そんなわけで、私たちはこの政党が何を目指そうとしているのか、何にどう責任をとろうとしているのかもさっぱり見えてこないのです。
やっと開き始めたわが家のツツジ
もう一つがみんなの党です。もともと、「ジミンなの党」と揶揄されるぐらいですから安倍氏の期待の大きさはわかりますが、この党がとんでもない金権政党であることが公になってしまいました。
化粧品会社の会長から借りた(?)8億円で渡辺党首が熊手を買ったと言い繕っていたのですが(国民を馬鹿にした説明ですね)、それがもたないと見るや急遽、党首の座を降りたものの、その事態がなぜ公職選挙法や政治資金規正法に違反しないのかは未だに闇の中です。
これらが「責任野党」の「責任」の実態なのです。
間違いはどこにあるのでしょうか。
「おともだち内閣」にふさわしく、自分たちに近いものに「責任」などの形容をやたらつけることが間違っているのです。こうした安倍氏の主観的願望とは違い、国民にとって「責任ある野党」とは、政権与党の足らざる点や、危険な政策をちゃんと把握し、それを国民に伝える野党本来の仕事をするところなのです。
風邪のため疲れています。
もう一つの「積極的」という安倍氏流の言葉の用法の逆転ぶりについては次回に譲ります。
言葉にはそれ自身が担っている伝統的な価値評価のようなものがあります。例えば、「責任」と「無責任」を並列されると、つい、「責任」の方を選択してしまいがちです。また、「積極的」と「消極的」との場合では、なんとなく「積極的」の方がいいんじゃないのと思ってしまいがちです。
政治の言葉は、それらを巧みに使います。いわゆるレトリカルな使用というやつです。
うちのすぐ脇のハルジオン
われらが安倍首相もそうした言葉の使い方を多用するのですが、それが実はその言葉がもつ伝統的な価値を利用した詐術であることがしばしばで、私たちはその言葉が意味するものからしたら、実は正反対のものを掴まされている場合があるのです。
以下に例を挙げてみましょう。
「責任野党」
安倍首相は、本年冒頭の施政方針演説において、さまざまな政策を述べたあと、それらを推し進める主体として、自公の与党は当然として、それをさらに外から支える野党として、「責任野党」という言葉を用いました。
この、無責任ー責任の分類には、「何にでも反対するしか能のない野党」を念頭に、場合によっては自分たちを支えてくれるであろう野党への期待をにじませたものでした。とりわけ憲法の改正等には、三分の二という壁がありますから、より多くの「健全で責任ある」人たちを集めたいわけでしょう。
一般的にいっても、こうして野党を分断しようという戦術は巧妙といっていいかもしれません。
ところで、首相がそれを述べた折、具体的に念頭に置いていたのはどこでしょうか。ひとつは、橋下氏率いる「日本維新の会」でしょう。そしてもうひとつは、渡辺代表が率いていた「みんなの党」だろうと思われます。
あるいは党全体ではないにしても、改憲の志を同じくする、民主党内の人たちへの語りかけであったのかもしれません。
南天の新葉 右上が私の軟禁されている部屋
ところで、それらの責任野党はその後どうなったでしょうか。
まずは「日本維新の会」ですが、橋下代表の「大阪都構想」がなかなか理解されない(?)ということで、いきなり市長を離職し、何十億の税を無駄に用いて出直し選挙に訴える事となりました。
結果はご承知のように、橋下氏の再選となりましたが、有権者総数に対する絶対得票率は17.85%であり、二位は67,500票の無効票という異例の展開となりました。
結果として、橋下氏の信頼度が増したかというとそれは逆効果という他なかったと思います。それにも増して露呈したのはこの党のデタラメさで、相変わらず、共同代表の石原氏の言説はちゃらんぽらんで、東は東、西は西といった具合です。
そんなわけで、私たちはこの政党が何を目指そうとしているのか、何にどう責任をとろうとしているのかもさっぱり見えてこないのです。
やっと開き始めたわが家のツツジ
もう一つがみんなの党です。もともと、「ジミンなの党」と揶揄されるぐらいですから安倍氏の期待の大きさはわかりますが、この党がとんでもない金権政党であることが公になってしまいました。
化粧品会社の会長から借りた(?)8億円で渡辺党首が熊手を買ったと言い繕っていたのですが(国民を馬鹿にした説明ですね)、それがもたないと見るや急遽、党首の座を降りたものの、その事態がなぜ公職選挙法や政治資金規正法に違反しないのかは未だに闇の中です。
これらが「責任野党」の「責任」の実態なのです。
間違いはどこにあるのでしょうか。
「おともだち内閣」にふさわしく、自分たちに近いものに「責任」などの形容をやたらつけることが間違っているのです。こうした安倍氏の主観的願望とは違い、国民にとって「責任ある野党」とは、政権与党の足らざる点や、危険な政策をちゃんと把握し、それを国民に伝える野党本来の仕事をするところなのです。
風邪のため疲れています。
もう一つの「積極的」という安倍氏流の言葉の用法の逆転ぶりについては次回に譲ります。