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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【いよいよ神無月】秋空の造形とネズミ色のクレヨン

2013-10-01 14:26:33 | よしなしごと
 ひとはさまざまな指標によって季節を感じる。
 花鳥風月はむろんのこと、祭りなどの伝統的な行事、料理、ひとの服飾、さらには、大切な人がなくなったとき金木犀が匂い立っていたなどという個人的な思い出まで、ひとが季節を知る要因は多種多様だ。

 

 私の場合、こと秋に関する限りは、やはり空模様からだろう。
 幸い私の住む郊外では、自分の部屋からでも、近くへ出かけた折でも、広々とした視野でふんだんに空を見渡すことが出来る。
 
 秋の空には、天の高さとそれをバックとして繰り広げられる雲の造形の美しさがある。冬の垂れ込めるだけの重々しさや、春の霞んだような曖昧さ、夏の猛々しい入道雲とは違って、意志を持ったものがデザインしたかのような文様が描かれてゆく。

   
 
 まだ疎開地の大垣にいた小学校三年の折、夏休みの自由研究に空の観察というのを行ったことがある。毎日、画用紙一枚にその日の空、特徴のある雲を描くのだ。サボったりするとわからなくなるので、「母ちゃん、昨日ってどんな空だった?」と尋ねて書くのだから資料としての信憑性はあまりない。

   
 
 しかし、その力作が認められて、大垣市長賞をもらった。受賞作品の展示場へ母と一緒に見に行った。展示場といっても敗戦後2年目の1947(昭和22)年のこと、美術館やら公民館などというものはすべて焼かれていてなかった。
 で、会場はというと今となってはもうろ覚えなのだが、焼け残った大きなお寺さんであった。

 私の作品は圧倒的であった。提出した折には三十数枚の画用紙を日付順に重ねて出したのだが、展示の際は、それらは平面に繋がれ、まるですだれのように本堂の一画、それもかなりの部分を占めていた。クレヨンで書かれたそれは、ほとんど青色と白、それにねずみ色で、雨降りにはねずみ色のバックに白い雨脚がよぎっていた。

 

 しょぼくれてうつむき加減に歩いていても、時折瞳をあげて空を見つめるのはそうした少年の日からの習性だろうか。
 そこに季節を彩る雲などの巧まざる配置や漂いを見ると、思わず気が晴れる。

 空は天蓋、私たちを包み保護する大いなる広がりだ。その正体が大気であることを知っている私たちは、もはやそれが落ちてくることを杞憂することはない。
 ただし、大気であるがゆえにそこへと人間が放出するものが確実にそれを犯す。

 

 フクシマから放出される放射能物質、中国南部で大量に排出されている微小粒子状物質(PM2.5)、目には見えない二酸化炭素などの温暖化に係る諸物質、それらがこの悠久とも思える大気の層、空を攻撃し続けていることは許せないと思う。

 秋らしい文様にあふれた空を満喫して帰ったら、TVは昼なお暗い天安門の驚くべき模様を報じていて暗澹たる気分に襲われた。2年前の秋、私はそこに立っていたが、さいわいその折は普通であった。
 私が北京の小学生で、いま雲の研究をするとしたら、ねずみ色のクレヨンをどっさり用意しなければならないだろうなと思う。哀しいね。

コメント (2)
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