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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ちょっと真面目な手紙・最終回】

2007-11-07 03:04:13 | ラブレター
  K

 もう三回目になってしまったね。
 「明瞭に思考するものは明瞭に語る」という言葉がある。
 どうも、僕はそれに値しないようだ。僕の回りくどい言説に、君がイライラしているのが目に見えるようだ。

 前回は、「ひと」と「もの」が極端に抽象化され、その実質性を喪失しているのではないかということをのべたのだった。
 ここでの問題は、そうした状況をあたかも人間にとっての自然条件のようにしてそこへと安住できるならばともかく、そうでないとしたらどうなのだろうかということだ。

 君はずっと以前、「もう突き詰めたことを考えることはやめて優しく(易しく)生きる」と宣言してそれを実践していたかのような時期があった。僕はそんな明確な決意すらなく、ただデスペレイトな生活を送っていた。
 気がついたら君は、「やはり優しくは生きられない」と猛然と勉強をはじめた。

 
 以下の連続写真は私の部屋からの朝焼け。電線が煩いが何とも仕様がない。

 僕はといえば、何を学んだらいいのかさえ見当がつかず、悶々としていたのだが、ひとつの切り口として、前々回に述べた広義のスターリニズム、あるいは全体主義を可能にした思想的背景、近代を可能にしたもの全体の再検討をしてみようとやっと思いついたのだった。
 そこで出会ったのが、ソシュールであったり、フロイトであったり、ニーチェであったり、あるいはマルクスの再検討であったり、さらにはハイデガーとの出会いであったりするのだが、その内容は書くまい。それらについては、君の方がうんと詳しいはずだからだ。

 それらや、それに連なるフランスの現代思想などから僕が学んだものは、荒っぽくまとめてしまうと、あらゆるものをひとつの全体へと同一化して行く形而上学的なものに対し、そうした全体からつねにはみ出して行く他者、無限なものの対置であり、そちらの側に自分の身を置くことであった

 

 こんな風に書くと、凄く抽象的で一般的になってしまうが、しかし、ここにはまちがいなく、僕らの主体というものの倫理的なありようをも含む問題があるのだと思う。
 
 それは例えば、未来に対する構え方の内にもある。
 例えば、ひとつの全体化された物語の次の一コマとしてそれを捉えたり、あるいはもっと極端に言えば、フランシス・フクヤマのように「すでにして歴史は終わった」とするような立場がある。
 この場合、僕らにはもはや「決められた」未来や「決まってしまった」今しかないのだ

 それに対するアレントの「複数性」に依拠した「公共空間」や、ナンシーの「無為の共同体」や、そして、デリダの「来るべき民主主義」などは、全体化されない他者、無限へと開かれた未来像を見据えている。
 それらはいずれも、あるひとつの「体制」のようなものを提示はしていないが、それこそ、ディスコントラクティヴな営為の連続として、僕らをなにかへと縛ろうとするものへの絶えざる抵抗となるはずだ。

 

 この素描は、同時に、左翼や右翼という篩い分けがいかに無効になっているかも示している。旧態然とした世界へと私たちを縛り付けようとするいわゆる「右翼」が問題であるとしても、「左翼」を自称する言説の中にも、完全に閉ざされた、同一性への思考が往々にしてあるのだ。
 とりわけ、スターリニズムを狭義にしか捉えていない言説にはそれが目立つ。

 あ、それからこうした開かれたものへの志向は、二回目の手紙で縷々述べた、「ひと」と「もの」との抽象的で疎遠な関係をも問いただすことになるだろう。なぜならそこでは、交換価値という抽象化された全体性の内へとすべてが吸いとられ、「ひと」や「もの」がもっているはずの無限な可能性が完全に閉ざされているからだ
 交換価値の中には詩や芸術は存在し得ない。あるいは詩や芸術すら、交換価値の中に吸収されてしまう。

 

 やはりなんか尻切れとんぼだが、この辺でこの手紙はお終いにしようと思う。
 「その歳になってやっとそれが分かっただけか」と君は笑うかもしれない。確かにそうだろう。だが僕は今、例え遅々としてであれ、何かへと漸進しているように思う
 この間に読んだ本のノートも、いつの間にか何十冊かたまった。それらを読み返す作業と並行して、今、悪戦苦闘しながらエマニュエル・レヴィナスと向かい合っているところだ。

 書いた僕も疲れたが、読まされた君も疲れたろう。
 今度会った時は、最初の一杯は僕がおごろう


<追伸>僕は遅れてきた青年だ。それが証拠に、十一月になってから蚊に刺された



コメント
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