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平和ボケ? 誰が?

2007-06-23 18:08:09 | 社会評論
 この「平和ボケ」という言葉、つい最近まで、軍備強化を主張する人や近隣諸国へもっと強権をもって臨むべきだという人々が、それに反対する、いわゆる「平和主義者」に向かって発する言葉だと了解していた。
 いわば、平和な状況に飼い慣らされて、戦時への備えを忘れているというわけである。

 しかし、最近どうもそうでもないように思えるようになってきた。逆に、「平和ボケ」という言葉を使う人たちの方が、本当に戦争の実態を知らず、「平和ボケ」しているように思われるのだ。

 

 よく論争になる問題として、南京虐殺や従軍慰安婦問題、そして最近では、沖縄においての軍による強制自決などがあるが、これらの問題がなかった証拠として、常に引き合いに出されるのが、そうした事実を示す「公式文書」はないということである。

 最後に述べた沖縄自決問題にしても、中学校の歴史教科書から抹消されることになった理由が、この、「公式文書にない」という理由であった。
 これに対し、現にそれを経験した沖縄県人から激しい抗議が噴出し、沖縄県議会が自民・公明を含む全会一致で文部科学省への抗議の決議を行ったのは耳新しいことである。
 自民党員である県会議長は、自らの経験を添えて自決抹殺に反論している。

 この、「公式文書にない」という言い分こそ、実は「平和ボケ」の言説そのものではないだろうか?
 というのは、敗戦国が、戦争責任や、ましてや戦争犯罪に関する「公式文書」を後生大事にとっておいて、占領軍に、「ハイ、私はこれこれのことを致しました」と差し出すことはありえないからだ。
 年金の基礎資料すら、どこかへやってしまうような国においてである(これはミスや怠慢であるが)。

 それらの文書は、意図的に焼却され、処分されたのだ。
 敗戦確定の8月15日に先立つ12日に、既にして内務省は「新情勢二対応スル言論出版取締基準」を制定し、「所謂(いわゆる)戦争責任を追及する如きもの、之を示唆暗示するもの」への言及を禁止し、それらの文書の破棄をも示唆している。

 
 
 事実、その方針に添って、各部署で膨大な資料が焼却された
 当時の情報局に勤務して職員は、「情報局・敗戦前夜」という文書で、以下のように述べている。
 「情報局は内務省の建物の5階にあった。階段を上がり下がりするのは大変だというので、空襲時の非常持ち出し用の袋に書類を詰めるだけ詰めて、窓から内庭にいくつも投げ落とした。
 下を見れば燃え続ける文書の山、内務省はこちらより大量に焼却するものがあるようで、内庭の中央部はまさしく紅蓮地獄であった」

 これが敗戦前後の情報抹殺の実状である。まさか、8月の中頃に、暖をとるために焚き火をしていたとは強弁できないだろう。
 こうした戦争というものの実状を何ら理解することなく、「公式文書がない」などとシレ~ッとしていえるのは、まさに「平和ボケ」ではないかと思うのだ。

 こうした資料の抹消に、各種報道機関、とりわけ新聞社も右へ習えをした。
 当時の新聞社勤務の人たちの証言によれば、中国など戦地での日本軍の実状を撮した写真の内、内務省の検閲により紙面には公開されなかった多くのものが保管されていたのだが、それらもすべて焼却処分された。

 かくして、わが国の公式文書や報道機関の資料の中から、戦争責任や戦争犯罪に関するほとんどの証拠が失われるところとなった。
 これこそが戦争の実状なのだ。既に述べたように、自らの不利益になる「公式文書」を敗戦時にも保管する戦争などはどこにも存在しないのだ。

 従って、そうした公式文書はちゃんと保管されているはずで、それがないからそうした事実もなかったという主張こそ、まさに「平和ボケ」と言わざるを得ないのだ。

 

 確かに公式文書はない。しかし、それを体験した人々の記憶の中に、それらは深く刻み込まれている。
 私自身、南京虐殺に加わり、中国人の首をはねたという体験談を、その本人から聞いている
 彼は(当然、私より年上だが)、こう語った。
 「縛り上げておいて、順番に首を切るのだが、人間の首はそんなに簡単に切れないから、結構手間がかかる。そうすると、順番待ちのチャンコロたちはだらしないもんで、泣きわめいたり、中にはションベンを漏らす奴もいた」

 酒が入っていたせいもあろう、彼はそれを得々として語っていたが、私の顔色が変わっているのに怯んで、幾分トーンダウンした。
 私は、
 「もし、あなたが首を切られる方だったら泰然としていられますか?」
 と、尋ねた。
 彼は、何か曖昧なことを行ってそそくさとして席を立った。
 私は、もっと何かをいうべきだったのだろう。だが、あまりの無神経な得意話に、正直なところ、言葉を失っていた。

 これは、敗戦から何十年も経ってからの話だが、敗戦直後、戦地から引き揚げてきた兵隊の口から、これと似た話が全国で話されていた(利口な人は口をつぐんでいたが)ことはゴマンとある事実なのである。

 

 日本軍の残虐行為を否定する人たちは、我が同胞はそんなおぞましいことをするはずがないという思いこみが前提としてある。実のところ、私もそう思いたい
 しかし、そこにもある種の「平和ボケ」がある。

 戦争というものは、生と死が無媒介に隣り合う状況である。いわば、パニック状態の大量生産なのである。
 検証不能な情報が飛び交い、人々を煽り、恐怖へのカウンターとしての過剰な行動が日常茶飯事となる。
 ここにはもはや、理性の介入する余地はない。平常ならば狂気でしかないような反応こそが生存を支えるよすがのように思われる。そして、そうした狂気は集団という支えの中で増殖され、実現される。
 ナチのユダヤ狩りを筆頭に、あらゆる戦地で多かれ少なかれ、こうした狂気が残虐行為を現実のものとする。
 新しくは、イラク戦線での、米軍による残虐行為を想起すれば充分だろう。
 
 戦時におけるこの集団狂気を見ようとしない者、そこから目を背ける者こそ、「平和ボケ」した人たちというほかない
 先に引いた例に戻ろるならば、中国人の首切りを私に得意げに話した彼は、市民としては仔犬や仔猫をこよなく愛するペットショップの経営者であった。何が彼を残虐行為に駆り立てたのか、戦争という事態は、「平和ボケ」した人たちの想像力を越えているとしか言いようがない。

    


 確かにもう、60年以上前のことである。それ以後生まれた人たちに責任がないといえばない。
 ただし、そうした前史を背負って今日があること、そして、それが示すように、戦争は日常とは異なった状況の中で、人に狂気をももたらすことは重々、知っておくべきだろう。
 再び、三度、その過ちを繰り返さないためにも・・。
 善良なあなたが、残虐行為の主人公にならないためにも・・。

コメント
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