六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

音楽と食の祭典 ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜

2019-05-22 02:13:51 | 音楽を聴く
 5月19日、岐阜サラマンカホールで行われた「ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜」にでかけた。「ジャコバン」といっても、フランス革命後に暴虐の限りを尽くしたというあのジャコバン党とは関係がない。
 この音楽祭を主催者のパンフから拾うとこうなる。

          
 「薔薇色の街がピアノに染まる。世界でもっとも美しいピアノ音楽祭。フランス南西部にある中世のレンガ造りの街並みが美しい《薔薇色の街》トゥールーズ。
 13世紀ゴシック建築のジャコバン修道院を舞台に、半世紀前から世界中のピアニストたちに愛されてきたピアノのための音楽祭、《ジャコバン国際ピアノ音楽祭》があります。
 

       
 リヒテル、ブレンデル、アルゲリッチ…。この音楽祭の歴史を彩ってきたのは、きら星のようなピアニストたち。音楽祭のコンセプトは、とてもシンプル。テーマもなく、ジャンルもない、ただピアノだけ。ピアノでみんながひとつになる。
 新たな国際交流の第一歩が、いま、はじまります。
 主催:サラマンカホール 共催:岐阜新聞・ぎふチャン
 後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
 協力:大野町、大野町バラ苗生産組合、アペリティフ365 in 岐阜実行委員会」

          
       ホールに飾られた薔薇の塔 白いのはヤマボウシの花

 コンサートはマチネ(昼の部)とソワレ(夜の部)に別れるが、次の予定があったのでマチネのみを聴く。
 マチネの一部は三浦友理枝さんのピアノ。
 ラヴェル、サティ、プーランク、ドビュッシーとフランス一色。
 そのせいか、弾きまくるという感じではなく、繊細なタッチをじっくりと聴かせるタイプ。このようにまとめて聴かせてくれると、同じピアノ曲でも、おフランスのそれはやはり独自性をもっていることがよく分かる。

       
 このひと、演奏もいいが、その解説がいい。作曲家ごとにトークが入るのだが、それがとてもいい。滑舌の良さもだが、その内容が要点を的確に衝いている。
 例えば、ラヴェルは印象派に数えられてしまうが、その枠を出てより前衛的なものを志向していた反面、ドイツバロックではなくフレンチバロックへの先祖返り的志向があったこと、ドビュッシーの前期と後期の曲想の相違などがそれだ。
 こういう形で整理できる人は、自分が弾いている作曲家のコンセプトを掌握しながら演奏できるのではないかと思った。

       
 マチネの二部は、フランスからやって来たフィリップ・レオジェというジャズピアニストで、前の三浦友理枝さんとは違ってガンガン弾きまくるタイプで、最初の三曲ほどのシャンソンのスタンダードナンバーをアレンジしたものはわかったが、、その後の曲はアレンジのせいか、もともと私が知らない曲なのか、曲名もよくわからなかった(プログラムにも非表示)。
 しかし、その迫力溢れる演奏は、ジャンルを超えたピアノという楽器の表現の可能性を追求しているようで、心地よい後味を残す演奏であった。
 小さなライブハウスや、ジャズクラブでの演奏スタイルとは全く異なり、コンサートホール向けの演奏だと思ったが、小ホールではそれに合った演奏をするのだろう。

          
 マチネが終わった夕刻、サラマンカのホワイエでは、ピアノのミニコンサートが続いていたし、サラマンカが入るふれあい会館の大ロビーでは、デリカテッセンの催しが全開で、ワインとフレンチの一品料理を楽しむ人、ソフトドリンクとケーキに舌鼓をうつ人で溢れていたが、次の予定のためにその場を後にせざるをえなかった。

 余談だが、陽気が良かったので自転車で会場に向かったのだが、道半ばで、肝心のチケットを忘れたことを思い出し、全速力で自宅へ取って返し、また全速力で会場へ向かった。はじめに、余裕を持って家を出たので、なんとか開演には間に合ったが、八〇歳を過ぎての数キロのツール・ド・フランスなみの自転車の全力疾走、やはり腰に来て、翌日から激しい腰痛に悩まされている。



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リリー・クラウスの足跡を偲んで

2019-05-18 15:01:10 | 音楽を聴く
 You Tube で、モーツァルト弾きといわれたリリー・クラウス(Lili Kraus 1903-86)のモーツァルトピアノ協奏曲全曲集を見つけた。
 PCを立ち上げた折には、これをバックに作業をしている。とてもオーソドックスな演奏だと思う。
  *オケはウィーン祝祭管弦楽団
  *指揮者はスティーヴン・サイモン(Stephen Simon)

   

 この人、戦時中に演奏旅行で滞在していたジャワ島(インドネシア)で、家族とともに日本軍によって第二次世界大戦終結まで軟禁(保護?)されていた経歴がある。
 1966年には、ニューヨークで、9夜でモーツァルトのピアノ協奏曲全曲を演奏する偉業を成し遂げたというから、以下の録音はその折のものと思われる。

https://www.youtube.com/watch?v=FHwmL8Md22w&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr

https://www.youtube.com/watch?v=ZntL9Y7vcDM&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=jvRhkZLM__E&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=3

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春を呼ぶ至福のコンサート 辻彩奈&大阪フィル

2019-03-17 14:21:06 | 音楽を聴く
 変な話だが、私にとって岐阜の春は大阪フィルの岐阜公演から始まる。毎年この時期にやってくる定期演奏会は今年で42回を迎えるが、そのうち、おそらく20回ぐらいは聴いている。ここ10年以上は、欠かさず毎年出かけている。
 というわけで、春宵の一刻、岐阜はサラマンカホールでの公演に出かける。

           
 今年はソリストに地元出身の辻 彩奈さんを迎えてのオール・チャイコフスキーのプログラム。もちろんその中心はヴァイオリン協奏曲だ。指揮者は井上道義氏。

 前半最初は、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ。小手調べであるが、チャイコフスキー独特のこってりした叙情のなかに、やはりロシアの調べが隠しようもなく漂う。

           
    辻さんが育ったホームグラウンドのような宗次ホールからの花が届いていた

 そしてお目当ての辻 彩奈さんが弾くヴァイオリン協奏曲。
 いや~、すばらしいっ! 
 実は昨年の4月20日、同じこのサラマンカホールでの彩奈さんのリサイタルを聴き、そのスケールの大きさに驚き、なおも伸びしろのある才能だと評価している。
   https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180421

 その折の期待を裏切らないすごい演奏だった。一音一音に込められた音の密度が濃い。だから粘ばっこい音が紡ぎ出され、前後の音と言語的に言えばリエゾンして、音符を奏でるという効果以上の一連の有機的な音楽が表現される。
 音楽が音符という記号の連なりではなく、まさにマテリアルな現象としてそこにあるといっていいだろう。

 地元びいきを超えて、心底、才能があるひとだと思った。
 ソリストアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番ガヴォット。
 これがまた、「おまけ」の域を超えてすごかった。感動モノだった。

         
 今春からは、スイスロマンド交響楽団との協演で、メンデルスゾーンの協奏曲で全国を回るようだ。

 後半は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から、指揮者の井上道義氏がセレクトしたコレクションを組曲として演奏。
 メロディメーカーとしてのチャイコフスキーの、これはどうだという曲たちだが次々と繰り広げられる。しかし、この叙情味溢れるメロディのなかに垣間見られる、ある種の不安のような要素は、19世紀末から20世紀初頭へのあのロシアにおける歴史的な大変換の予兆を含んでいるのではあるまいか。

         
 井上道義氏の指揮ぶりは、ビジュアル的にも面白い。下半身を含めて全身を柔軟に使ったその表現への姿勢は、それ自身でじゅうぶん絵になる。
 とりわけヴァイオリン協奏曲においては、指揮台を撤去し、指揮棒ももたず、ソリストの間近での指揮は、踊るように流麗で、オケを背景にソリストとダンスを共演しているかのようであった。

 後半の「白鳥」でも、著名曲になると聴衆を振り向いてみせるなど、その場に居合わせるすべてと、演奏という行為とその味わいの共有を図っているよう、マエストロの多様性を垣間見させてくれた。

 とにかく、素晴らしくかつ楽しいコンサートだった。

         
 オケのアンコールはチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章。
 この楽章、弦はいっさい弓を弾かないピチカートのみで、始まった途端、あ、あれだと思った。

         
     サイン会での辻さん 本当は写真を撮ってはだめだとあとから知った

 大阪フィルの岐阜定期演奏会は、私にとって、岐阜の春を告げる必須のイベントといえる。いろいろあって、ちょっとメランコリーになっていたが、それが払拭できそうだ。
 春宵一刻値千金、わが春愁よ去れ!


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初コンサートはプラハ国立劇場の「フィガロ」

2019-01-14 01:25:25 | 音楽を聴く
 モーツァルトとプラハは相性が良かったようだ。
 その歌劇、「フィガロの結婚」のウィーンでの初演は、さして評判にならなかったようだが、プラハでのその公演は大好評で、市内のあちこちから、「フィガロ、フィガロ」という声が聞こえると、モーツァルトはその手紙に自慢げに書いている。
 そんなこともあってか、その後、彼のオペラ、「ドン・ジョバンニ」や「皇帝ティトの慈悲」はプラハで初演されている。
 そんなプラハ国立劇場オペラが、新春早々、「フィガロ」を引っさげて来日するというので、12日の名古屋公演へ出かけた。今年の初クラシックライブである。

        
 この公演、昨秋から続く第36回名古屋クラシックフェスティバル(中京テレビ主催)の一環であるが、この「フィガロ」の全国の公演日程を見て驚いた。1月3日から始まって1月20日までの間、全国各地で13公演をするというのだ。
 そのうち、4日間連続が2回もあって、大道具の搬入設置だけでも大変だと思われる。いやそれ以上大変なのは身体が楽器だという歌手たちであろう。
 いろいろ調べてみると、果たせるかな主演級はすべてダブルキャスト、トリプルキャストであった。

        
 この公演の目玉は、伯爵夫人をエヴァ・メイが歌うということなのだが、残念ながら名古屋公演ではマリエ・ファイトヴァーというソプラノ歌手であった。ただし、後者の名誉のためにいっておくと、そのリリックな歌声はしっとりと伯爵夫人の悲哀を歌い上げていて聴衆の反応も良かった。

 スザンナもダブルキャストで、そのうちの一人は、沖縄出身の金城由紀子さんだったが、これも残念ながらもうひとりのヤナ・シベラの方だった。

        
 オケはプラハ国立劇場管弦楽団、指揮はエンリコ・ドヴィコだったが、今回は小編成だったと思う。だいたい、今回の名古屋市民会館も古い劇場でオケのためのピットもなく、舞台前方に設けた臨時のそれは狭小だった。
 だから、序曲が始まったときに若干の違和感を覚えていた。ふつうこの曲を私たちがナマで聴く場合は、オケの公演などの小手調べや、あるいはアンコールで聴く場合が多い。それらに比べてやはり音量が違い、これからオペラが始まるのだというオペラ・ブッファの名前奏曲と言われるこの曲のワクワク感がイマイチのような気がしたのだ。

        
 もっとも幕が開き始まってしまえば、そんな危惧も忘れ舞台の展開に溶け込むことができたのだが。
 あと、欲をいえば、スザンナが小振りすぎたこと、その対比でケルビーノが大柄すぎたことなどもあろうか。

        
 ただし、これらの私が感じたマイナスイメージは、私がかつて見たこのオペラの本場のそれを基準としていることを白状すべきだろう。
 1991年8月27日、モーツァルト没後200年のいわゆるモーツァルトイヤー、私はザルツブルグの祝祭劇場で、ベルナルト・ハイティンクが振るウィーン国立歌劇場管弦楽団のもと、このオペラを見ているのだ。
 その折には、まだオペラについてはまったくの初心者だったが、逆にそれが脳裏にしみ付いている。
 オケのピットも当然のことながらもっと広く、序曲を始め、あらゆる演奏がはるかに豊かに響きわたっていた。

        
 いちばんもの足りなかったのは第4幕だ。これは第3幕までに散りばめられたエピソードがすべて集約されるということで、奥行きの深い舞台が要求される。一般にオペラのステージはその間口よりも深い奥行き、あるいは同等ぐらいのそれを要求される。それだからこそ、複数のエピソードが同時進行的に展開されるこの第4幕にはその奥行きが欲しかった。
 そこでの歌声も、遠いものは遠く、近いものは近く、立体的に響き、もともと虚構の舞台とはいえ、その虚構にリアリティを添えることとなる。
        
 しかし、もともと、オペラ用ではない名古屋市民会館の舞台にそれらを要求するわけにはゆかないことを重々承知の上でこれを書いている。

        
 なお、今回の演出についていえば、ケルビーノを強調しているのが目立った。ちょこまかする彼を強調するため、二人のケルビーノを登場させたり、必要以上に伯爵夫人にいちゃついたりするシーンが目立った。
 これは、ボーマルシェの三部作(「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「罪ある母」)について、「フィガロ」の続編の「罪ある母」での伯爵夫人とケルビーノのエピソードを意識した演出のようにも思えるのだが、そこまで先読みをすべきかどうかはいささか疑問が残るところだ。
 「フィガロ」はそれとして閉じてもいいのではないだろうか。

 いろいろ批判めいたことも書いたが、それはそれとして、久々にナマのオペラを観ることが出来て、楽しく、かつ、エキサイティングな夜だった。

        
 
1991年、ザルツブルグでの「フィガロ」のデータを貼り付けておこう。収録日にズレはあるが、バルバリーナに尾畑真知子さんが起用されるなど、ほぼこのとおりだったと思う。

ハイティンク指揮の『フィガロの結婚』のデータ
ベルナルド・ハイティンク指揮,ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
演出ミヒャエル・ハンペ

キャスト
伯爵(トーマス・アレン),伯爵夫人(リューバ・カザレノフスカヤ),スザンナ(ドーン・アップショー),フィガロ(フェルッチョ・フルラネット),ケルビーノ(スザンネ・メンツァー),マルチェリーナ(クララ・タクカス),バルトロ(ジョン・トムリンソン),バルバリーナ(尾畑真知子),アントーニオ(アルフレート・クーン),バジリオ(ウーゴ・ベネルリ)

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松尾葉子さん&岐阜県交響楽団の音楽とマドレーヌ寺院の想い出

2018-12-18 00:41:46 | 音楽を聴く
 いわゆる名演奏とはいえないかもしれないが、その場を感動に満たす演奏会がある。それがライブのお面白さなのだと思う。たとえていうならば演奏技術などのみでは測れないような臨場感を伴う感動がそれである。

 そんな演奏会に出会った。しかも始めてのホールでのことだ。
 場所は私の住む岐阜市の南に隣接する羽島市の文化センターにあるスカイホール。車で30分弱である。
 キャパは1,300ほどで汎用性のあるホールである。座席の傾斜も適度で、後方からはオケの打楽器部門もよく見える。

       
           羽島文化センター スカイホール

 訪れたのは12月16日(日)。プログラムは以下。
 序曲「ローマの謝肉祭」 ベルリオーズ
 ピアノ協奏曲イ短調作品54 シューマン
   ー休憩ー
 交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」 サン=サーンス

          
 指揮は松尾葉子さん
 オケは岐阜県交響楽団
 ソリストは小見山純一(ピアノ)
      吉田 文(オルガン)

       
       開演前のロビーコンサート 金管のクインテット(逆光)
 
 岐阜県交響楽団はアマチュアのオケだが、地元のよしみでこれまでの数回は聴いている。だいたいは指揮も地元の人が振る場合が多いが、今回は90回の記念コンサートということで、松尾さんを招いたものと思われる。

 ベルリオーズの序曲は、同じ題名をもつレスピーギのそれに比べると、短い曲ながら多彩な表現が次々と展開されて、まさにカーニバルの華やぎが伝わる楽しい曲だ。

 シューマンの協奏曲は、はじめの出足以降、濃厚なシューマン節が流れ、シューマンの実存をかけた音楽に興味のある私には心地よい緊張を伴う時間だった。
 ソリストの小見山氏も、余計な抑揚を削ぎ落として端正に弾ききっていたと思う。

       
 いちばん感動したのは、サン=サーンスのオルガン付きであった。松尾さんの指揮は、オケの水準をまったく感じさせない力演で、この曲の魅力を余すところなく表現していたと思う。冒頭に述べたまさにライブならではの感動を呼ぶ演奏であった。

       
              ロビー 東郷青児の壁画

 指揮者の松尾さんは、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで女性初、日本人としては小澤征爾氏以来二人目の優勝者となった方である。
 彼女は、音楽家の留学先としてはドイツ語圏が多い中、フランスへ留学している。それはまた、この日のプログラム、ベルリオーズとサン=サーンスにもよく現れていた。

       
            マドレーヌ寺院 2018/8/7
 
 ところで、サン=サーンスが「オルガン付き」を作曲した経緯には、彼がパリのマドレーヌ寺院のオルガニストであったという事実がある。松尾さんはいまもパリを訪れる機会が多いのだが、その都度、マドレーヌ寺院へ足を運ぶという。
 そんな背景もあって、松尾さんのサン=サーンスは渾身のタクトであり、それに導かれた岐響のメンバーも力量以上の音を紡ぎ出したのであろう。とてもいい演奏だったと思う。

 繰り返すが、私にはとても感動的だった。そしてそれにはもう一つ理由がある。
 今夏、ひょんな経緯で訪れたパリで、初日、サンラザール駅前のホテルに着いたのはもう夕刻だった。中途半端な時間なので、まずは歩くことのできる範囲での散策を決め込んで、オペラ座の周辺を周回し、次に辿りついたのがマドレーヌ寺院だった。
 古代ローマの神殿を模したコリント様式のこの寺院の存在は圧倒的で、周辺の広場や空き地では、スポーツをする人、戯れる恋人たち、子どもを遊ばせる母親と、日没が遅いこの地ならではの賑わいだった。

       
          マドレーヌ寺院周辺の風景 2018/8/7

 このマドレーヌ寺院こそ、かつてサン=サーンスがオルガン奏者を努め、松尾さんがしばしば訪れるところだったのだ。
 
 演奏会に戻ろう。松尾さんのやや短めの白いタクトによって紡ぎ出されるサンサーンスの楽の音に酔いしれながら、私はあの夕景の中に佇むマドレーヌ寺院とその周辺の景観をまざまざと思い浮かべていた。
 寺院を包む夏の空の青みが少しずつ増し、藍色から深い暗紅色に至るまでの間、私はそこにいたのだが、その折の私といまのこの私を繋ぐ音楽がまさに鳴っていたのだった。

       
        マドレーヌ寺院を起点にした並木道 2018/8/7
 
 オルガンの重厚な音色が、私の感傷を包み込むようにしながら鳴り響き、私はその振幅のままに身を委ねて、もはや此処でもなく、かつ、今でもない時空を超えた境地をさまよっていた。


なお、写真でご覧のように、羽島文化センターのスカイホールは、マドレーヌ寺院同様、古代ギリシャのコリント様式の神殿を模している。



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ポ〜ッと見ていたオルガンの秘密 日本・スペイン国交50周年記念コンサートへ行く

2018-09-24 15:00:35 | 音楽を聴く
 日本スペイン外交関係樹立150周年記念「音楽の花束」と銘打ったオルガンコンサートに行って来た。
 場所は岐阜サラマンカホール。何百年も故障したままだったスペインのサラマンカ大聖堂のオルガンを、岐阜にオルガン工房をもつ辻宏氏が見事復活させたのを機縁に、サラマンカ市と岐阜市が姉妹関係を結び、この音楽ホールが「サラマンカホール」と名付けられたとあって、冒頭のような催しにはうってつけの場所である。

          

 演奏者は、現在サラマンカ国立高等音楽院で古楽科主任教授などを務める、ピラ・モント・チカさん(女性)と自らオルガン設置などの事業に携わりつつオルガン奏者でもある後藤香織さん。

 アンコールも含めて、7曲の演奏だったが、4手のものや2台のオルガンのためのものは二人で、ソロの曲はピラ・モント・チカさんの演奏だった。
 曲目のほとんどがスペインの作曲家によるもので、不勉強な私が知らないひとの、知らない曲ばかりであった。
 しかし、オルガンの荘厳な音色は心地よく、とくに4手の場合の音の広がりは、オケにも相当するぐらいで、全身をその音響に包まれるような心地がする。

 プログラム最後の「日本古謡 さくらさくら(4手のための組曲)」はスペイン風のインプロビゼーションとカデンツァを含むもので、全体の構成としては組曲というより変奏曲といった感じであった。馴染みのメロディが、次々と異なる衣装をまとってたち現れる変奏の妙はやはり聴いていて楽しい。

          

 演奏された楽曲はむろん楽しかったが、このコンサートの第二部は、「スペインオルガンの秘密」と題したオルガンに関するレクチャーで、奏者の二人が、オルガンの基本構造、スペインにおける各都市とその設置状況などをスライドと実演を交えて聴かせるもので、これが楽しかった。

 無知な私は、オルガンなんてどれもこれも基本的には同じだろうと思っていたのが大間違いで、地方や時代によって大きく異なるとのことで、例えば、サラマンカのそれに見られる水平に突き出たトランペット管はスペインオルガンの特徴だという。
 さらには、何となくぼんやり観ていたオルガンの各種パーツの説明も目からウロコだった。
 例えば、鍵盤(サラマンカの場合は3段)の両脇に縦にならんでいるノブ(サラマンカでは60個)はストップノブ(音栓)といって、これによって音色を変えることができ、この操作次第では、鍵盤の中央から左右でまったく音色が変わってしまうこと、さらには足鍵盤(ペダル)は30鍵もあり、それにより、オルガンの左右にある巨大なパイプを鳴らすのだとのこと。

 その他、知らないことばかりで、少なくとも、鍵盤楽器が弾けたらオルガンも弾けるなどという生易しいものではないことは十分わかった。

          
      この白い部分がスクリーンで、演奏者の手元が映し出されていた

 このコンサートでもう一つ特筆すべきは、オルガン奏者は高いところで観客に背を向けて演奏するため、音は聞こえるものも、どのように演奏しているのかがピアノ演奏のようにはわからない。
 このコンサートではそれを解消する方法がとられていた。それは、演奏者の位置する高い演奏場所の下にスクリーンを設置し、それに斜め上方から撮ったその手元の映像が映し出されていたことである。これにより、ピアノのコンサート同様に、否、それ以上に演奏者の手元が鮮明に捉えられ、とりわけ4手の演奏などではそれぞれの手があるいは交差し、あるいは3段ある鍵盤を行き来するなど、その有様がよくわかった。

 オルガンと私との距離をうんと近づけてくれたコンサートであった。
 同時に、スライドで紹介された4台ものオルガンを設置しているというスペイン古都の大聖堂を訪れ、その4台の同時演奏を聴いてみたくなったりもした。
 帰途、程よい気候の中、私の頭蓋骨は、荘厳なオルガンの音色にすっかり満たされていたのであった。


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五嶋 龍 リサイタル @岐阜サラマンカホール

2018-07-31 00:34:04 | 音楽を聴く
 岐阜サラマンカホールでの五嶋龍のヴァイオリンリサイタルに行ってきました。
 そのプログラムの形式が(構成ではなく)ちょっと変わっているのです。
 普通は、作曲者と曲名があり、その簡単な説明があるのですが、そんなものは一切なく、ただ作曲者と曲名がぽんと書かれているのみなのです。

          

 曲目は、「シューマン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番ニ短調」「イ・サンユン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番(無調)」「ドビュッシー ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調」と、真ん中のものを除いては比較的演奏機会が多いものですが、先程述べたように、曲についての説明は一切なく、その代わりに、五嶋龍の散文が載せられていて、三人にさらっと触れたかと思うと、以下のようないくぶん挑発的な叙述が続きます。
 
 「くしくも今回のプログラムには、抗えない異次元の悲哀と叫びが渦巻く苦悩がある。それらが彼らの音楽の原点であろうが、誰がそんなものを味わってみたいか」
 そして次のように、続くのです。
 「とはいえ、聴き様によると、いや弾き様によると、同じダイナミックで、同じテンポで弾いても希望に繋がる音になる。そう思えるのは僕だけか?」

          
 
 ようするに彼は、シューマンの、イ・サンユンの、あるいはドビュッシーの曲に自らの解釈を加えてそれを表現するという一般的な次元を超えて、彼らの曲を「題材」にしながら、そのなかから自分だけにしか引き出せないものを引き出してみせようという自負を語っているのです。
 そこには、いくぶん尊大かもしれない自信が溢れているようです。

 で、実際の演奏はというと、その言葉に違わず、三人の作曲者のなかにあって五嶋自身にこだまするような響きを力強く引き出していたように思います。
 「シューマン節」は一層その輝きと艶を増し、イ・サンユンの現代音楽はロマン派のそれのようにスムーズに流れ、ドビュッシーの刹那的な身の翻しをも的確に表現していたように思いました。

          

 それに比べるとアンコールの最初の二曲は、彼にとっては鼻歌のようなもので、いくぶん物足りなく思っていたのですが、その三曲目の「サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ」は、そのロマ的な情熱と血の騒ぎのようなものを存分に聴かせてくれて、その曲のボリュームと合わせて、まるまるプログラム一曲分を得したような気分で、観衆も最高潮に盛りあがっていました。

 ちょっと気取った自負のようなものが散見できたリサイタルでしたが、その気取りが彼自身の表現の質と幅を後押ししていたかのようで、終わってみると結構爽やかなコンサートでした。

 なお、ピアノはマイケル・ドゥセク。五嶋の演奏とうまくフィットしていたように思いました。


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ついに舞台に立つ! フォルテピアノとフレンチジャズ 

2018-06-13 16:44:20 | 音楽を聴く
 面白いコンサートへ行ってきた。
 「ジャコバン国際ピアノ音楽祭 2018in岐阜 6月10日のマチネ・コンサートで
 まず前半は「フォルテピアノで聽く名曲たち」そして後半はフランスのジャズピアニストのソロ演奏というその組み合わせ自体が面白い。

             

 フォルテピアノのリサイタルというのは初めてで、媒体を通じてではない生の音も初めてだ。当日の楽器はモーツァルトなどが弾いた時期から数十年下った1830年代産のアントン・シュヴァルとリンク。この時代になると、当初脇の鍵盤や膝で操作していたペダル装置がつくようになる。しかし、全般の形状は華奢で、まだチェンバロの面影を宿している。

             

 演奏が始まった。下に添付した内容とは変わって、ショパンの2曲の間に、フンメル、モーツァルト、クララ・シューマン、ロベルト・シューマンを挟むような構成だった。
 演奏者は小川加恵さんで岐阜県は池田町の出身。中学生の折、ザルツブルグのモーツァルトの生家でみた古いピアノに魅せられ、東芸大の古学科修士課程、オランダは、デン・ハーグ音楽院修士課程などを経て、フォルテピアノの弾き手としてヨーロッパ各地と日本で活躍している。

 彼女の活動は演奏家としてのそればかりではない。自らが魅入られた古楽器、とくにフォルテピアノの特色、歴史的経由、その魅力などなどを伝えるためのレクチャーに力を入れている。
 この日の演奏会でも、一曲ごとにマイクを握り、その時代とその楽器をいつくしむような説明をしてくれた。古楽器に入れ込み、同時にその演奏家である彼女の解説は、モーツァルトが、ショパンが、シューマン夫妻が、この楽器でどんな音を紡ぎ出していたのかを彷彿とさせるもので、とても面白かった。

             

 ところでその演奏というか音色だが、今様のピアノに比べまずは音が小さい。そして音色が柔らかい。高音部でもその音は決して鋭角的ではなく、どこか優しい。そうなんだ、モーツァルトのピアノ曲はこんな音だったのだと改めて納得するところが多かった。

 ところでサプライズはその後にあった。
 演奏を終えたソリストの小川利恵さんが言ったのだ。
 「フォルテピアノに興味のある方はどうか舞台に上がって身近にご覧下さい」
 もちろん、私も見たいと思った。
 またたく間に前方の客が両サイドの階段から舞台へ上がり、フォルテピアノを取り巻いた。
 小川利恵さんは鍵盤のところで説明をしているようだが、十重二十重と取り巻く群衆で立錐の余地もない。

            

 そこで私は、待機作戦を取り、舞台上での人の減少を待った。これぐらいならフォルテピアノも見えるだろうという時期を見計らって舞台に上る。
 しかし、小川さんが解説する鍵盤側は人でいっぱい。そちらは諦めて反対方向から写真を撮る。

 今様のピアノだって内部をまざまざと見たことはないのだが、やはり全体に華奢である。弦もハンマーも優しい風貌をしている。何よりも、全体の形状がチェンバロに似ている。
 チェンバロは撥音楽器であり、ピアノは打楽器であることは知っているが、しかし、その間には明らかに連続性がある。その生き証人がこのフォルテピアノなんだと思う。
 写真は、舞台公開の後半に撮ったものだが、やはり鍵盤側には近付けなったため反対側から撮った。しかしおかげで、上方画面中央、ドレス姿で説明している小川さんがよく撮れた。

             

 なお、私は、このサラマンカホールのメンバーも20年近くで、年数回としても100回ほど通っているのだが、この舞台に登ったのは初めてだった。フォルテピアノに夢中な人をしりめに、オペラのアリアでも歌ってやろうと思ったのだが、あいにく思い出される歌は、演歌ばかりだった。
 
 小川利恵さんは、滑舌も良く、MCとしても優れた能力をもっている。そして何よりも、若き日に魅せられたというフォルテピアノへの情熱をもち続けている。大成を期したい。

 コンサートの後半は、フランスの気鋭のジャズピアニスト、レミ・パノシアンのリサイタルで、こちらの方は普通のグランドピアノ。やはり音量と音の響きの振幅が違う。
 ところで、ジャズの方だが、ひところよく聴いたのは、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、セレニアス・モンクなどなど1950~60年代のもので、もっているCDもそのへんのところである。
 その後のジャズの歴史がどうなっていったのかはまったくわからないのだが、このレミ・パノシアンの演奏はそれらのどれとも異なっているようだった。アレンジメントとインプロビゼーションが錯綜しいて、かなり重層的な構成になっていた。

             
 
 曲目は、最近お映画の主題歌などのアレンジや、もともと知らない曲などであったが、スタンダードナンバーの「キャラバン」はわかった。もともと大編成のバンドなどでも取り上げられる曲だが、ピアノソロでのその後半の熱演はホール全体にあふれるほどのエネルギッシュなもので、あちこちからブラボーの声がかかっていた。
 アンコールはフレンチピアニストらしく「枯れ葉」。

 フランスは、アメリカ発祥のジャズをいち早く取り上げ、1950年代から60年代にかけてはモダンジャズを取り入れた映画が多く作られたことでも知られているが、フランス特有の演奏スタイルなどというものはあるのだろうか。
 その辺のところはまったくわからないのだが、この奏者の演奏を聞きながら、バラード調の静謐なところではドビュッシーが、次第にクレッシェンドする箇所ではラヴェルのイメージが重なって聴こえたのは、おそらく私の先入観によるものだろう。

    https://salamanca.gifu-fureai.jp/1411/
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「中くらいの友だち」の一周年記念コンサート

2018-05-21 00:51:31 | 音楽を聴く
 『中くらいの友だち』という面白い名前の同人誌がある。
 ありていに言えば韓国で暮らす日本人と、在日韓国人との架け橋のような雑誌である。
 日韓、あるいは韓日の間には、隣国だけあって深い歴史的経緯があって、ともすれば政治やイデオロギーとして語られる側面が多いのだが、ある意味では、それらを棚上げして、とりあえずは相互の文化交流のようなところに視点を据え、そこから見て考えたことを率直に表現するということがコンセプトのようだ。

 それを前提にこの同人誌を読んでゆくと、新聞やTV、あるいはネットでも知ることができない相互の交流の実状が、それを担う当事者たち(それぞれの国で活躍するそれぞれの人たち)の視線でみえてきてとても面白い。

          

 ところで、ここに書こうとしたのはその雑誌についてもだが、発刊以来、一年が経過し、その第3号が出来上がったことを記念して行われた【『中くらいの友だち』と韓国ロックの夕べ ”李銀子(伽倻琴)/佐藤行衛(ギター)"】(@得三 名古屋今池)というライブについてである。
 
 この李銀子さんとはほぼ30年を遡る知り合いで、そのお連れ合いもよく知っている。
 佐藤行衛氏は韓国へ渡った日本のギタリストで、「コブチャンチョンゴル」というバンドを率いてソウルを中心に活躍している。コブチャンチョンゴルとはごった煮とかモツ鍋を意味していて、彼自身、『中くらいの友だち』には「コブチャンチョンゴルの飲んだり、食べたり、歌ったり」という日韓の民衆音楽の交流や、韓国の、主としてB級グルメの楽しい紹介を行ったりしている。

          

 李銀子さんの伽倻琴というのは、日本の琴に似た楽器だが、琴ほど鋭角的な音色ではなく、ソフトでまろやかで、コントラバスのピチカートにも似た低い音も出るし、曲の聴かせどころでは聴き手の体に響くほどのパンチがある音も出る。
 この楽器を聞くのは三回目だが、その都度、なんだか郷愁にも似た懐かしさを感じる。

             

 佐藤氏は今回はアコースティック・ギターでの登場だが、そのギターが上手い。もちろん歌もうまい。ロック特有のガナリ声も表情豊かに聞こえるし、洗練された高音も伸びやかであった。

          

 さらには金利恵さんの歌もしっとりと聴くことができた。この金利恵さん、本業は韓国舞踊とのことだが、最後のフィナレーの身のこなしでその片鱗を見ることができた。
 なお、ローマ字で書くと私と同姓同名になってしまう私の友人にして俳人と、この金さんは俳句仲間とのことで、回り回った縁でもある。

 出演者ひとりひとりの表現もだが、そのそれぞれのコラボがとても面白かった。伽倻琴とギター、そして歌、それらの絡み合いは、冒頭に述べた同人誌、『中くらいの友だち』のコンセプトが、音響として耳から飛び込んでくるかのような趣があった。

          

 なお、佐藤氏のライブ当日についての記述がMixiの以下ところにあるので、お読みいただければそのライブの内容がお分かりいただけると思う。

 http://mixi.jp/list_diary.pl?id=5675730&year=2018&month=5&day=19 
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伸びしろのあるスケールの大きさ 辻彩奈さんのリサイタル

2018-04-21 12:04:19 | 音楽を聴く
 20日、地元岐阜出身のヴァイオリニスト・辻彩奈(あやな)さんのリサイタルへ行った。
 2016年、モントリオール国際音楽祭で第一位をとったほか、併せて、バッハ賞、パガニーニ賞、カナダ人作品賞、ソナタ賞、セミファイナルベストリサイタル賞をとったというから、なんかとった賞が多すぎるのではないかとすら思ってしまう。

          

 プログラムは、ベートーヴェンの「クロイッェル」のほかは、ポピュラーなものも含めて割合短めな曲で構成されたいた。
 
 演奏に関しては、弓使いが伸びやかでくっきりしていて、滑舌のいい人の朗読を聽くように説得力のある演奏だと思った。

 私のお気に入りはバッハの無伴奏パルティータ第2番ニ短調「シャコンヌ」で、ヴァイオリン一丁を感じさせないほど華やかな音色を醸し出していた。大家のくぐもった演奏に比べ、こんなに開放的な無伴奏もあったのかと、改めて感じ入った次第。

             

 圧巻はやはり、モントリオールで賞をとった折の演奏曲で、サン=サーンスが名ヴァイオリニスト・サラサーテのために作ったという「序奏とロンド・カプリッチョ―ソ」。
 華麗さと繊細さがない混ぜになったこの曲は、それ相当のテクニックと、細やかな表現力を要請するもので、辻さんはそれを完全に手中のものとしていた。
 これなら、モントリオールで、聴衆がスタンディングオーベーションで絶賛したのもわかる気がする。

 まだ弱冠20歳、まだまだ伸びしろがあるヴァイオリニスト。今年5月には、ズビン・メータ率いるイスラエルフィルハーモニーとの共演で、シベリウスの協奏曲を弾く予定とか。
 世界に羽ばたくことができる人だと思う。
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