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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

音楽の年越しそば・第九 & 長良川慕情 

2019-12-24 00:34:10 | 音楽を聴く

 岐阜県には、公益法人の岐阜県交響楽団があり、学校めぐり他、定期公演などでクラシックの普及に努めている。

 そしてその他に、県下唯一のプロのオーケストラとして、ウィーン岐阜管弦楽団がある(1991年創立)。経済的にも文化的にも、名古屋の衛星都市化している岐阜の地で、プロのオケを維持してゆく大変さは想像に余りあるものがある。
 このオケの姉妹組織にウィーン岐阜合唱団がある(1998年創立)。こちらはアマチュアの合唱団で、老若男女メンバーはいろいろである。

         

 この2つの組織を統括しているのは、作曲家にして指揮者の平光 保氏で、サンクトペテルブルクで国立エルミタージュ管弦楽団を指揮したり、ブタペストのバルトークホールでスタンディングオベーションで迎えられた経歴をもつが、なんといっても氏の功績はこの岐阜の地にクラシックを根付かせるような活動を長年続けてきたことだと思う。

 そんなこともあって、彼の指揮するコンサートをこれまで10回近く聴いているが、いちばんの思い出は、十数年前、岐阜交響楽団を率いてベートーヴェンの7番を演奏し、第4楽章のクライマックスにさしかかった折、その飛んだり跳ねたりの指揮ぶりの結果、脚に痙攣を起こし、最後はびっこを引いて演奏を続けたことだろう。
 彼のこうした音楽魂に、満場の客からは感嘆の拍手が寄せられたのであった。

          

 その彼が、ウィーン岐阜管弦楽団と、ウィーン岐阜合唱団による第九を振るというので、それを今年のコンサートじまいとすることにした。
 この取り合わせによる第九は、合唱団員をを飛騨地方や福井県からの参加者も含めて膨らませ、一週間前に「高山千人の第九」を成功させたばかりである。

 岐阜での会場は、長良川国際会議場の大ホール「さらさ~ら」で、キャパは1,600人と岐阜県下最大のホールである。
 ほぼ満席であった。楽団や合唱団のメンバーが、その縁故をも最大限に利用して集客に涙ぐましい努力をした成果であろう。地方楽団の存続にはそうした努力が欠かせない。そしてまたそれが、クラシックファンの裾野を広めることにもつながる。

          

 プログラムの詳細は述べないが、前半はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロメオとジュリエット」に始まり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第一楽章のみ(ピアノ:山口湖苗美)。
 後半は、混声合唱が入って、歌劇「ナブッコ」(ヴェルディ)より「行けわが思いを、金色の翼にのって」、佐藤眞「大地讃頌」、そして第九(第四楽章のみ)。

 こうした楽章をちょん切ったようなプログラムは、その曲に込めた作曲家の表現全体をじっくり聴こうとする向きにとっては邪道と思われるかもしれない。
 しかし、こうした聴き方、聴かせ方にも一理はあるのだ。
 ひとつは、地方楽団のコンサートとして、この年末にこそ、そのもてるレパートリーの幅や表現力をすべて羅列した集大成にしたいということはよく分かる。
 さらにいうなら、こうしてちょん切られた楽章は、それのみでも十分に鑑賞に耐えられる、あるいは、ちょん切ってでも聴きたい、聴かせたいと力をもっているともいえる。

              

 果たせるかな、ラフマニノフも第九も、前半、後半を締めくくるにふさわしい力演であった。
 特筆すべきは、アマチュアからなる合唱団が素晴らしかったことだ。それに参加している人たちの情熱、それを豊かな表現にまとめ上げる平光氏の総括者としての力量を讃えるべきだろう。
 演奏後にはブラボーの声が飛び交う熱演ぶりであった。

              

 会場の熱気に火照ったまま外に出る。千数百の聴衆がバス停に殺到するのだから混むのは必定と、そこは諦めて別の路線のバスに乗るべく、長良川河畔に沿って数百mを歩く。


 折からの冬至、まさに暮れなぞむ長良橋周辺は鵜飼シーズンの夏とはうって変わって静謐な佇まい。
 川面へ映り込む金華山と岐阜城、その水面を滑るかのように静かに下る川船が一艘、そしてシーズン中に活躍した遊覧船などが静かに憩う船溜まり。それらが、第九の最終楽章のアップテンポな部分の合唱とオーバーラップして、遠い日のデジャヴをなぞるような少しばかりの感傷をはらんだ懐かしい気分に満たされる。

              

 そして、心のどこかで思う。これは死ぬ瞬間に思い浮かべてもいい風景だなと。

    

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記念ガラ・コンサートは赤ワイン付きで・・・・@岐阜サラマンカホール

2019-11-17 15:25:30 | 音楽を聴く

 岐阜サラマンカホール会館25周年記念 ガラ・コンサートにいってきた。
 25年前というと、まだ居酒屋稼業に追われていて、コンサートもままならなかったが、リタイヤーして即、サラマンカメイトに入ってから20年近くになる。そして、私が最も多くのライブ・コンサートを聴いたホールでもある。

   
 

 そのお祝いのようなコンサート、これは是が非でも行かずばなるまいということで、この日、重複した名古屋での、やはりクラシック関連の例会を欠席して、でかけた。
 そうした祝祭気分もあってか、通常のコンサートよりも晴れ着姿の聴衆が多かった。私はいつものドブネズミスタイルのまま。

           
 

 岐阜に工房を構えていたパイプオルガンの世界的な製作者・辻宏氏が、スペイン最古の大学都市、サラマンカにある大聖堂の、もう何年も演奏不可能だったオルガン「天使の歌声」の修復に尽力したことから生まれたサラマンカと岐阜との関係、それがサラマンカホールの由来だ。
 このホールのホワイエを飾るレリーフは、そのサラマンカ大聖堂のもののレプリカである。

           

           
 

 だから、このホールも立派なパイプオルガンをもっている。このオルガン、表面からはそれとわからないが、2,997本の大小のパイプからなっている。ちょっと中途半端な数のようにも思えるが、オルガンの上部を飾る三人の天使が吹いてる笛を加えて3,000本のパイプになるという。

 出演者や演奏曲目は下に載せるが、長年ウィンフィルのコンマスを努めたライナー・キュッヒルを始め、フルートの工藤重典、ピアノの仲道郁代、ギターの荘村清志を含めたソリスト9名に加えて、この地で活躍する若い音楽家で構成された12名による「サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ(弦楽オケ)」による演奏は、どれも奏者の蓄積した技巧を最大限に発揮したもので、ただただ楽しい演奏会というほかはなかった。

 最後の「天国と地獄・序曲」は、上に挙げた全員の参加によるものだが、そのどこかで、それぞれのソリストをクローズアップするように編曲されたもので、ジャズのコンサートなら、リーダーが演奏者の名前を改めてコールするような雰囲気であった。
 曲の終盤には、「ラデツキー」のように、客席から手拍子が起き、演奏終了後はスタンディング・オベーションと歓声が起こっていた。

              

 祝祭気分に華を添えたのは、演奏前や休憩中に振る舞われたスペインはサラマンカ近くのワイナリーで醸された赤ワイン(飲めない人にはジュースなど)だった。
 何を隠そうこの私、それ目当てに、いつもは車で出かけるのを、公共交通機関にしたのだった。
 ワインは、サラマンカ近郷特有のぶどう種・ルフェテとスペイン赤ワインの普遍的な品種・テンプラニーリョのブレンドで、スッキリしたフルーティな味わいの後に、豊かな残響が口腔に残るといった感の美味しさだった。

 こうした振る舞いワインの他に、一本3,000円で販売していて、けっこう売れているようだった。ちょっと食指が動いたが、考えてみたら、酒量が落ちた今、月極めでとっているテーブルワイン(ボルドーが主)が、飲みきれないまま、ワインセラーの中に眠っているではないか。ということで諦めた。

               
 なお、サラマンカホールでは、この25周年を契機に名古屋の篤志家から寄贈された40挺の弦楽器(ヴァイオリン22、ヴィオラ10、チェロ8)の名器を、「清流コレクション」と名付け、音楽を学ぶ若者たちに無償で貸与する事業を始めたという。名付けてSTROAN(ぎふ弦楽器貸与プロジェクト)。
 これらの楽器の大半は、イタリアのパルマ、クレモナ、プレシア、マントヴァなどで製造されたもので、弦楽器の名器を世に送り出した地区のものである。

           

 これはとてこ良いプロジェクトだと思う。無名のうちに音楽を学び続ける若者にとって、然るべき楽器を手にすることはさらにそのリスクを高めるであろう。それを側面からこうした形で支援することは、次世代の音楽家を育てるためにとても有効だろうと思う。

 それやこれやで、コンサートの残響と、口腔に残るワインの残り香を反芻しながら心地よく家路についたのだった。終演時間を30分オーバーする熱のこもったコンサートであった。
 

【演奏曲目と演奏者は以下の通り】

*R.ジャゾット:アルビノーニのアダージョ
  フルート/工藤重典 オルガン/石丸由佳
*クララ.シューマン:3つのロマンス 作品22
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル ピアノ/仲道郁代
*ベートーヴェン:モーツァルト「魔笛」の主題による12の変奏曲 作品66
  チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/仲道郁代
*L.ボッケリーニ/J.ブリーム:序奏とファンダンゴ
  ギター/荘村清志 チェンバロ/曽根麻矢子
*ヴィヴァルディ:チェロ・ソナタ 第5番 ホ短調
  チェロ/新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
*ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 「英雄」
  ピアノ/仲道郁代
*ボルヌ:カルメン幻想曲
  フルート/工藤重典 ギター/荘村清志
*J.シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」
  ピアノ・トリオ形式 ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/へーデンボルク洋

  休憩
 
*J.ウィリアムズ:スター・ウォーズ・メドレー
  オルガン/石丸由佳
*A.ヴィヴァルディ:「四季」 作品8-3 ヘ長調 "秋" RV.293
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*A.ヴィヴァルディ:2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.531
  チェロ/へーデンボルク直樹 新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*F.ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 第2楽章「ロマンス」
  室内楽版 ピアノ/仲道郁代 サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*J.オッフェンバック/倉知竜也編曲:喜歌劇「天国と地獄」序曲
  全員合奏

  《アンコール》エルガー 威風堂々 全員合奏

 なお、岐阜つながりでいえば、荘村清志は岐阜出身 へーデンボルク兄弟は大垣藩10万石の城主、戸田家の末裔、その4代前の戸田家夫人は、ブラームスに所望されて、その眼前で琴を奏でたことがあるという。

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肉体で聴く音楽シーン@名古屋今池祭り

2019-09-18 14:42:32 | 音楽を聴く
今年も名古屋の今池祭りに行ってきた。
 懐かしい知己に会うことが出来た。

         
            
         
 今回はその音楽シーンについて書くことにしよう。
 正直いって、ともに、いつも聞くジャンルではないのだが、これらについては今池つながりということでジャンルもへったくれもなく、身内の音楽のようなものだ。
 
 今池に寄り添い、今池とともにあるようなバンドが三つある。
 そのひとつは、生粋の今池生まれ、「バレーボールズ」だ。ブルースっぽいものが主体だがその幅は広い。リーダーの森田裕氏は、私から数えて6代目の今池祭りの実行委員長だ。

https://www.youtube.com/watch?v=JpvSYiBaAoY

 もうひとつは、今池では絶対の人気を誇るロックバンド、「原爆オナニーズ」だ。
 彼らの舞台はハードだが、同時に開放的でもある。興にのった聴衆は誰でも舞台に駆け上る。そしてそれぞれのパフォーマンスを披露した後、客席に向かってダイブすることとなっている。女性もしている。
 私もしようかと思ったが、それで寝たきりになってはと思い、自重した。

https://www.youtube.com/watch?v=gCe7oOWxXv8
 
 もうひとつは、何年か前、紅白にも出た「nobodyknows+ 」である。ラップのバンドだがそのハーモニーはなかなかのものだ。
 今回は残念ながら、時間の都合で聴けなかった。

            
         

 代わりにやはり、今池祭りの常連で、練り歩きの演奏なども披露する、「ホットハニーバニーストンバーズ」を紹介しよう。とてもファミリーなバンドである。
 一見、デキシーランド風だがそれとも違う。私の感想では、「アンダーグラウンド」や「ライフ・イズ・ミラクル」の映画監督、エミール・クストリッツァが用いるバンドに似ているように思う。もっともあそこでは、チューバが音の厚みを出していたが、このバンドにもかつてはチューバがあったように思う。

https://www.youtube.com/watch?v=zXN9yXz36Ig

 最後に今一度、「バレーボールズ」を載っけておこう。
 正直いって、ラジオなどの媒体から聞こえてきても、あまり反応しない私だが、やはりなまで聴くと、肉体が反応する。

https://www.youtube.com/watch?v=82syLHoVNe0
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音楽と食の祭典 ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜

2019-05-22 02:13:51 | 音楽を聴く
 5月19日、岐阜サラマンカホールで行われた「ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜」にでかけた。「ジャコバン」といっても、フランス革命後に暴虐の限りを尽くしたというあのジャコバン党とは関係がない。
 この音楽祭を主催者のパンフから拾うとこうなる。

          
 「薔薇色の街がピアノに染まる。世界でもっとも美しいピアノ音楽祭。フランス南西部にある中世のレンガ造りの街並みが美しい《薔薇色の街》トゥールーズ。
 13世紀ゴシック建築のジャコバン修道院を舞台に、半世紀前から世界中のピアニストたちに愛されてきたピアノのための音楽祭、《ジャコバン国際ピアノ音楽祭》があります。
 

       
 リヒテル、ブレンデル、アルゲリッチ…。この音楽祭の歴史を彩ってきたのは、きら星のようなピアニストたち。音楽祭のコンセプトは、とてもシンプル。テーマもなく、ジャンルもない、ただピアノだけ。ピアノでみんながひとつになる。
 新たな国際交流の第一歩が、いま、はじまります。
 主催:サラマンカホール 共催:岐阜新聞・ぎふチャン
 後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
 協力:大野町、大野町バラ苗生産組合、アペリティフ365 in 岐阜実行委員会」

          
       ホールに飾られた薔薇の塔 白いのはヤマボウシの花

 コンサートはマチネ(昼の部)とソワレ(夜の部)に別れるが、次の予定があったのでマチネのみを聴く。
 マチネの一部は三浦友理枝さんのピアノ。
 ラヴェル、サティ、プーランク、ドビュッシーとフランス一色。
 そのせいか、弾きまくるという感じではなく、繊細なタッチをじっくりと聴かせるタイプ。このようにまとめて聴かせてくれると、同じピアノ曲でも、おフランスのそれはやはり独自性をもっていることがよく分かる。

       
 このひと、演奏もいいが、その解説がいい。作曲家ごとにトークが入るのだが、それがとてもいい。滑舌の良さもだが、その内容が要点を的確に衝いている。
 例えば、ラヴェルは印象派に数えられてしまうが、その枠を出てより前衛的なものを志向していた反面、ドイツバロックではなくフレンチバロックへの先祖返り的志向があったこと、ドビュッシーの前期と後期の曲想の相違などがそれだ。
 こういう形で整理できる人は、自分が弾いている作曲家のコンセプトを掌握しながら演奏できるのではないかと思った。

       
 マチネの二部は、フランスからやって来たフィリップ・レオジェというジャズピアニストで、前の三浦友理枝さんとは違ってガンガン弾きまくるタイプで、最初の三曲ほどのシャンソンのスタンダードナンバーをアレンジしたものはわかったが、、その後の曲はアレンジのせいか、もともと私が知らない曲なのか、曲名もよくわからなかった(プログラムにも非表示)。
 しかし、その迫力溢れる演奏は、ジャンルを超えたピアノという楽器の表現の可能性を追求しているようで、心地よい後味を残す演奏であった。
 小さなライブハウスや、ジャズクラブでの演奏スタイルとは全く異なり、コンサートホール向けの演奏だと思ったが、小ホールではそれに合った演奏をするのだろう。

          
 マチネが終わった夕刻、サラマンカのホワイエでは、ピアノのミニコンサートが続いていたし、サラマンカが入るふれあい会館の大ロビーでは、デリカテッセンの催しが全開で、ワインとフレンチの一品料理を楽しむ人、ソフトドリンクとケーキに舌鼓をうつ人で溢れていたが、次の予定のためにその場を後にせざるをえなかった。

 余談だが、陽気が良かったので自転車で会場に向かったのだが、道半ばで、肝心のチケットを忘れたことを思い出し、全速力で自宅へ取って返し、また全速力で会場へ向かった。はじめに、余裕を持って家を出たので、なんとか開演には間に合ったが、八〇歳を過ぎての数キロのツール・ド・フランスなみの自転車の全力疾走、やはり腰に来て、翌日から激しい腰痛に悩まされている。



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リリー・クラウスの足跡を偲んで

2019-05-18 15:01:10 | 音楽を聴く
 You Tube で、モーツァルト弾きといわれたリリー・クラウス(Lili Kraus 1903-86)のモーツァルトピアノ協奏曲全曲集を見つけた。
 PCを立ち上げた折には、これをバックに作業をしている。とてもオーソドックスな演奏だと思う。
  *オケはウィーン祝祭管弦楽団
  *指揮者はスティーヴン・サイモン(Stephen Simon)

   

 この人、戦時中に演奏旅行で滞在していたジャワ島(インドネシア)で、家族とともに日本軍によって第二次世界大戦終結まで軟禁(保護?)されていた経歴がある。
 1966年には、ニューヨークで、9夜でモーツァルトのピアノ協奏曲全曲を演奏する偉業を成し遂げたというから、以下の録音はその折のものと思われる。

https://www.youtube.com/watch?v=FHwmL8Md22w&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr

https://www.youtube.com/watch?v=ZntL9Y7vcDM&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=jvRhkZLM__E&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=3

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春を呼ぶ至福のコンサート 辻彩奈&大阪フィル

2019-03-17 14:21:06 | 音楽を聴く
 変な話だが、私にとって岐阜の春は大阪フィルの岐阜公演から始まる。毎年この時期にやってくる定期演奏会は今年で42回を迎えるが、そのうち、おそらく20回ぐらいは聴いている。ここ10年以上は、欠かさず毎年出かけている。
 というわけで、春宵の一刻、岐阜はサラマンカホールでの公演に出かける。

           
 今年はソリストに地元出身の辻 彩奈さんを迎えてのオール・チャイコフスキーのプログラム。もちろんその中心はヴァイオリン協奏曲だ。指揮者は井上道義氏。

 前半最初は、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ。小手調べであるが、チャイコフスキー独特のこってりした叙情のなかに、やはりロシアの調べが隠しようもなく漂う。

           
    辻さんが育ったホームグラウンドのような宗次ホールからの花が届いていた

 そしてお目当ての辻 彩奈さんが弾くヴァイオリン協奏曲。
 いや~、すばらしいっ! 
 実は昨年の4月20日、同じこのサラマンカホールでの彩奈さんのリサイタルを聴き、そのスケールの大きさに驚き、なおも伸びしろのある才能だと評価している。
   https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180421

 その折の期待を裏切らないすごい演奏だった。一音一音に込められた音の密度が濃い。だから粘ばっこい音が紡ぎ出され、前後の音と言語的に言えばリエゾンして、音符を奏でるという効果以上の一連の有機的な音楽が表現される。
 音楽が音符という記号の連なりではなく、まさにマテリアルな現象としてそこにあるといっていいだろう。

 地元びいきを超えて、心底、才能があるひとだと思った。
 ソリストアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番ガヴォット。
 これがまた、「おまけ」の域を超えてすごかった。感動モノだった。

         
 今春からは、スイスロマンド交響楽団との協演で、メンデルスゾーンの協奏曲で全国を回るようだ。

 後半は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から、指揮者の井上道義氏がセレクトしたコレクションを組曲として演奏。
 メロディメーカーとしてのチャイコフスキーの、これはどうだという曲たちだが次々と繰り広げられる。しかし、この叙情味溢れるメロディのなかに垣間見られる、ある種の不安のような要素は、19世紀末から20世紀初頭へのあのロシアにおける歴史的な大変換の予兆を含んでいるのではあるまいか。

         
 井上道義氏の指揮ぶりは、ビジュアル的にも面白い。下半身を含めて全身を柔軟に使ったその表現への姿勢は、それ自身でじゅうぶん絵になる。
 とりわけヴァイオリン協奏曲においては、指揮台を撤去し、指揮棒ももたず、ソリストの間近での指揮は、踊るように流麗で、オケを背景にソリストとダンスを共演しているかのようであった。

 後半の「白鳥」でも、著名曲になると聴衆を振り向いてみせるなど、その場に居合わせるすべてと、演奏という行為とその味わいの共有を図っているよう、マエストロの多様性を垣間見させてくれた。

 とにかく、素晴らしくかつ楽しいコンサートだった。

         
 オケのアンコールはチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章。
 この楽章、弦はいっさい弓を弾かないピチカートのみで、始まった途端、あ、あれだと思った。

         
     サイン会での辻さん 本当は写真を撮ってはだめだとあとから知った

 大阪フィルの岐阜定期演奏会は、私にとって、岐阜の春を告げる必須のイベントといえる。いろいろあって、ちょっとメランコリーになっていたが、それが払拭できそうだ。
 春宵一刻値千金、わが春愁よ去れ!


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初コンサートはプラハ国立劇場の「フィガロ」

2019-01-14 01:25:25 | 音楽を聴く
 モーツァルトとプラハは相性が良かったようだ。
 その歌劇、「フィガロの結婚」のウィーンでの初演は、さして評判にならなかったようだが、プラハでのその公演は大好評で、市内のあちこちから、「フィガロ、フィガロ」という声が聞こえると、モーツァルトはその手紙に自慢げに書いている。
 そんなこともあってか、その後、彼のオペラ、「ドン・ジョバンニ」や「皇帝ティトの慈悲」はプラハで初演されている。
 そんなプラハ国立劇場オペラが、新春早々、「フィガロ」を引っさげて来日するというので、12日の名古屋公演へ出かけた。今年の初クラシックライブである。

        
 この公演、昨秋から続く第36回名古屋クラシックフェスティバル(中京テレビ主催)の一環であるが、この「フィガロ」の全国の公演日程を見て驚いた。1月3日から始まって1月20日までの間、全国各地で13公演をするというのだ。
 そのうち、4日間連続が2回もあって、大道具の搬入設置だけでも大変だと思われる。いやそれ以上大変なのは身体が楽器だという歌手たちであろう。
 いろいろ調べてみると、果たせるかな主演級はすべてダブルキャスト、トリプルキャストであった。

        
 この公演の目玉は、伯爵夫人をエヴァ・メイが歌うということなのだが、残念ながら名古屋公演ではマリエ・ファイトヴァーというソプラノ歌手であった。ただし、後者の名誉のためにいっておくと、そのリリックな歌声はしっとりと伯爵夫人の悲哀を歌い上げていて聴衆の反応も良かった。

 スザンナもダブルキャストで、そのうちの一人は、沖縄出身の金城由紀子さんだったが、これも残念ながらもうひとりのヤナ・シベラの方だった。

        
 オケはプラハ国立劇場管弦楽団、指揮はエンリコ・ドヴィコだったが、今回は小編成だったと思う。だいたい、今回の名古屋市民会館も古い劇場でオケのためのピットもなく、舞台前方に設けた臨時のそれは狭小だった。
 だから、序曲が始まったときに若干の違和感を覚えていた。ふつうこの曲を私たちがナマで聴く場合は、オケの公演などの小手調べや、あるいはアンコールで聴く場合が多い。それらに比べてやはり音量が違い、これからオペラが始まるのだというオペラ・ブッファの名前奏曲と言われるこの曲のワクワク感がイマイチのような気がしたのだ。

        
 もっとも幕が開き始まってしまえば、そんな危惧も忘れ舞台の展開に溶け込むことができたのだが。
 あと、欲をいえば、スザンナが小振りすぎたこと、その対比でケルビーノが大柄すぎたことなどもあろうか。

        
 ただし、これらの私が感じたマイナスイメージは、私がかつて見たこのオペラの本場のそれを基準としていることを白状すべきだろう。
 1991年8月27日、モーツァルト没後200年のいわゆるモーツァルトイヤー、私はザルツブルグの祝祭劇場で、ベルナルト・ハイティンクが振るウィーン国立歌劇場管弦楽団のもと、このオペラを見ているのだ。
 その折には、まだオペラについてはまったくの初心者だったが、逆にそれが脳裏にしみ付いている。
 オケのピットも当然のことながらもっと広く、序曲を始め、あらゆる演奏がはるかに豊かに響きわたっていた。

        
 いちばんもの足りなかったのは第4幕だ。これは第3幕までに散りばめられたエピソードがすべて集約されるということで、奥行きの深い舞台が要求される。一般にオペラのステージはその間口よりも深い奥行き、あるいは同等ぐらいのそれを要求される。それだからこそ、複数のエピソードが同時進行的に展開されるこの第4幕にはその奥行きが欲しかった。
 そこでの歌声も、遠いものは遠く、近いものは近く、立体的に響き、もともと虚構の舞台とはいえ、その虚構にリアリティを添えることとなる。
        
 しかし、もともと、オペラ用ではない名古屋市民会館の舞台にそれらを要求するわけにはゆかないことを重々承知の上でこれを書いている。

        
 なお、今回の演出についていえば、ケルビーノを強調しているのが目立った。ちょこまかする彼を強調するため、二人のケルビーノを登場させたり、必要以上に伯爵夫人にいちゃついたりするシーンが目立った。
 これは、ボーマルシェの三部作(「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「罪ある母」)について、「フィガロ」の続編の「罪ある母」での伯爵夫人とケルビーノのエピソードを意識した演出のようにも思えるのだが、そこまで先読みをすべきかどうかはいささか疑問が残るところだ。
 「フィガロ」はそれとして閉じてもいいのではないだろうか。

 いろいろ批判めいたことも書いたが、それはそれとして、久々にナマのオペラを観ることが出来て、楽しく、かつ、エキサイティングな夜だった。

        
 
1991年、ザルツブルグでの「フィガロ」のデータを貼り付けておこう。収録日にズレはあるが、バルバリーナに尾畑真知子さんが起用されるなど、ほぼこのとおりだったと思う。

ハイティンク指揮の『フィガロの結婚』のデータ
ベルナルド・ハイティンク指揮,ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
演出ミヒャエル・ハンペ

キャスト
伯爵(トーマス・アレン),伯爵夫人(リューバ・カザレノフスカヤ),スザンナ(ドーン・アップショー),フィガロ(フェルッチョ・フルラネット),ケルビーノ(スザンネ・メンツァー),マルチェリーナ(クララ・タクカス),バルトロ(ジョン・トムリンソン),バルバリーナ(尾畑真知子),アントーニオ(アルフレート・クーン),バジリオ(ウーゴ・ベネルリ)

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松尾葉子さん&岐阜県交響楽団の音楽とマドレーヌ寺院の想い出

2018-12-18 00:41:46 | 音楽を聴く
 いわゆる名演奏とはいえないかもしれないが、その場を感動に満たす演奏会がある。それがライブのお面白さなのだと思う。たとえていうならば演奏技術などのみでは測れないような臨場感を伴う感動がそれである。

 そんな演奏会に出会った。しかも始めてのホールでのことだ。
 場所は私の住む岐阜市の南に隣接する羽島市の文化センターにあるスカイホール。車で30分弱である。
 キャパは1,300ほどで汎用性のあるホールである。座席の傾斜も適度で、後方からはオケの打楽器部門もよく見える。

       
           羽島文化センター スカイホール

 訪れたのは12月16日(日)。プログラムは以下。
 序曲「ローマの謝肉祭」 ベルリオーズ
 ピアノ協奏曲イ短調作品54 シューマン
   ー休憩ー
 交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」 サン=サーンス

          
 指揮は松尾葉子さん
 オケは岐阜県交響楽団
 ソリストは小見山純一(ピアノ)
      吉田 文(オルガン)

       
       開演前のロビーコンサート 金管のクインテット(逆光)
 
 岐阜県交響楽団はアマチュアのオケだが、地元のよしみでこれまでの数回は聴いている。だいたいは指揮も地元の人が振る場合が多いが、今回は90回の記念コンサートということで、松尾さんを招いたものと思われる。

 ベルリオーズの序曲は、同じ題名をもつレスピーギのそれに比べると、短い曲ながら多彩な表現が次々と展開されて、まさにカーニバルの華やぎが伝わる楽しい曲だ。

 シューマンの協奏曲は、はじめの出足以降、濃厚なシューマン節が流れ、シューマンの実存をかけた音楽に興味のある私には心地よい緊張を伴う時間だった。
 ソリストの小見山氏も、余計な抑揚を削ぎ落として端正に弾ききっていたと思う。

       
 いちばん感動したのは、サン=サーンスのオルガン付きであった。松尾さんの指揮は、オケの水準をまったく感じさせない力演で、この曲の魅力を余すところなく表現していたと思う。冒頭に述べたまさにライブならではの感動を呼ぶ演奏であった。

       
              ロビー 東郷青児の壁画

 指揮者の松尾さんは、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで女性初、日本人としては小澤征爾氏以来二人目の優勝者となった方である。
 彼女は、音楽家の留学先としてはドイツ語圏が多い中、フランスへ留学している。それはまた、この日のプログラム、ベルリオーズとサン=サーンスにもよく現れていた。

       
            マドレーヌ寺院 2018/8/7
 
 ところで、サン=サーンスが「オルガン付き」を作曲した経緯には、彼がパリのマドレーヌ寺院のオルガニストであったという事実がある。松尾さんはいまもパリを訪れる機会が多いのだが、その都度、マドレーヌ寺院へ足を運ぶという。
 そんな背景もあって、松尾さんのサン=サーンスは渾身のタクトであり、それに導かれた岐響のメンバーも力量以上の音を紡ぎ出したのであろう。とてもいい演奏だったと思う。

 繰り返すが、私にはとても感動的だった。そしてそれにはもう一つ理由がある。
 今夏、ひょんな経緯で訪れたパリで、初日、サンラザール駅前のホテルに着いたのはもう夕刻だった。中途半端な時間なので、まずは歩くことのできる範囲での散策を決め込んで、オペラ座の周辺を周回し、次に辿りついたのがマドレーヌ寺院だった。
 古代ローマの神殿を模したコリント様式のこの寺院の存在は圧倒的で、周辺の広場や空き地では、スポーツをする人、戯れる恋人たち、子どもを遊ばせる母親と、日没が遅いこの地ならではの賑わいだった。

       
          マドレーヌ寺院周辺の風景 2018/8/7

 このマドレーヌ寺院こそ、かつてサン=サーンスがオルガン奏者を努め、松尾さんがしばしば訪れるところだったのだ。
 
 演奏会に戻ろう。松尾さんのやや短めの白いタクトによって紡ぎ出されるサンサーンスの楽の音に酔いしれながら、私はあの夕景の中に佇むマドレーヌ寺院とその周辺の景観をまざまざと思い浮かべていた。
 寺院を包む夏の空の青みが少しずつ増し、藍色から深い暗紅色に至るまでの間、私はそこにいたのだが、その折の私といまのこの私を繋ぐ音楽がまさに鳴っていたのだった。

       
        マドレーヌ寺院を起点にした並木道 2018/8/7
 
 オルガンの重厚な音色が、私の感傷を包み込むようにしながら鳴り響き、私はその振幅のままに身を委ねて、もはや此処でもなく、かつ、今でもない時空を超えた境地をさまよっていた。


なお、写真でご覧のように、羽島文化センターのスカイホールは、マドレーヌ寺院同様、古代ギリシャのコリント様式の神殿を模している。



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ポ〜ッと見ていたオルガンの秘密 日本・スペイン国交50周年記念コンサートへ行く

2018-09-24 15:00:35 | 音楽を聴く
 日本スペイン外交関係樹立150周年記念「音楽の花束」と銘打ったオルガンコンサートに行って来た。
 場所は岐阜サラマンカホール。何百年も故障したままだったスペインのサラマンカ大聖堂のオルガンを、岐阜にオルガン工房をもつ辻宏氏が見事復活させたのを機縁に、サラマンカ市と岐阜市が姉妹関係を結び、この音楽ホールが「サラマンカホール」と名付けられたとあって、冒頭のような催しにはうってつけの場所である。

          

 演奏者は、現在サラマンカ国立高等音楽院で古楽科主任教授などを務める、ピラ・モント・チカさん(女性)と自らオルガン設置などの事業に携わりつつオルガン奏者でもある後藤香織さん。

 アンコールも含めて、7曲の演奏だったが、4手のものや2台のオルガンのためのものは二人で、ソロの曲はピラ・モント・チカさんの演奏だった。
 曲目のほとんどがスペインの作曲家によるもので、不勉強な私が知らないひとの、知らない曲ばかりであった。
 しかし、オルガンの荘厳な音色は心地よく、とくに4手の場合の音の広がりは、オケにも相当するぐらいで、全身をその音響に包まれるような心地がする。

 プログラム最後の「日本古謡 さくらさくら(4手のための組曲)」はスペイン風のインプロビゼーションとカデンツァを含むもので、全体の構成としては組曲というより変奏曲といった感じであった。馴染みのメロディが、次々と異なる衣装をまとってたち現れる変奏の妙はやはり聴いていて楽しい。

          

 演奏された楽曲はむろん楽しかったが、このコンサートの第二部は、「スペインオルガンの秘密」と題したオルガンに関するレクチャーで、奏者の二人が、オルガンの基本構造、スペインにおける各都市とその設置状況などをスライドと実演を交えて聴かせるもので、これが楽しかった。

 無知な私は、オルガンなんてどれもこれも基本的には同じだろうと思っていたのが大間違いで、地方や時代によって大きく異なるとのことで、例えば、サラマンカのそれに見られる水平に突き出たトランペット管はスペインオルガンの特徴だという。
 さらには、何となくぼんやり観ていたオルガンの各種パーツの説明も目からウロコだった。
 例えば、鍵盤(サラマンカの場合は3段)の両脇に縦にならんでいるノブ(サラマンカでは60個)はストップノブ(音栓)といって、これによって音色を変えることができ、この操作次第では、鍵盤の中央から左右でまったく音色が変わってしまうこと、さらには足鍵盤(ペダル)は30鍵もあり、それにより、オルガンの左右にある巨大なパイプを鳴らすのだとのこと。

 その他、知らないことばかりで、少なくとも、鍵盤楽器が弾けたらオルガンも弾けるなどという生易しいものではないことは十分わかった。

          
      この白い部分がスクリーンで、演奏者の手元が映し出されていた

 このコンサートでもう一つ特筆すべきは、オルガン奏者は高いところで観客に背を向けて演奏するため、音は聞こえるものも、どのように演奏しているのかがピアノ演奏のようにはわからない。
 このコンサートではそれを解消する方法がとられていた。それは、演奏者の位置する高い演奏場所の下にスクリーンを設置し、それに斜め上方から撮ったその手元の映像が映し出されていたことである。これにより、ピアノのコンサート同様に、否、それ以上に演奏者の手元が鮮明に捉えられ、とりわけ4手の演奏などではそれぞれの手があるいは交差し、あるいは3段ある鍵盤を行き来するなど、その有様がよくわかった。

 オルガンと私との距離をうんと近づけてくれたコンサートであった。
 同時に、スライドで紹介された4台ものオルガンを設置しているというスペイン古都の大聖堂を訪れ、その4台の同時演奏を聴いてみたくなったりもした。
 帰途、程よい気候の中、私の頭蓋骨は、荘厳なオルガンの音色にすっかり満たされていたのであった。


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五嶋 龍 リサイタル @岐阜サラマンカホール

2018-07-31 00:34:04 | 音楽を聴く
 岐阜サラマンカホールでの五嶋龍のヴァイオリンリサイタルに行ってきました。
 そのプログラムの形式が(構成ではなく)ちょっと変わっているのです。
 普通は、作曲者と曲名があり、その簡単な説明があるのですが、そんなものは一切なく、ただ作曲者と曲名がぽんと書かれているのみなのです。

          

 曲目は、「シューマン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番ニ短調」「イ・サンユン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番(無調)」「ドビュッシー ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調」と、真ん中のものを除いては比較的演奏機会が多いものですが、先程述べたように、曲についての説明は一切なく、その代わりに、五嶋龍の散文が載せられていて、三人にさらっと触れたかと思うと、以下のようないくぶん挑発的な叙述が続きます。
 
 「くしくも今回のプログラムには、抗えない異次元の悲哀と叫びが渦巻く苦悩がある。それらが彼らの音楽の原点であろうが、誰がそんなものを味わってみたいか」
 そして次のように、続くのです。
 「とはいえ、聴き様によると、いや弾き様によると、同じダイナミックで、同じテンポで弾いても希望に繋がる音になる。そう思えるのは僕だけか?」

          
 
 ようするに彼は、シューマンの、イ・サンユンの、あるいはドビュッシーの曲に自らの解釈を加えてそれを表現するという一般的な次元を超えて、彼らの曲を「題材」にしながら、そのなかから自分だけにしか引き出せないものを引き出してみせようという自負を語っているのです。
 そこには、いくぶん尊大かもしれない自信が溢れているようです。

 で、実際の演奏はというと、その言葉に違わず、三人の作曲者のなかにあって五嶋自身にこだまするような響きを力強く引き出していたように思います。
 「シューマン節」は一層その輝きと艶を増し、イ・サンユンの現代音楽はロマン派のそれのようにスムーズに流れ、ドビュッシーの刹那的な身の翻しをも的確に表現していたように思いました。

          

 それに比べるとアンコールの最初の二曲は、彼にとっては鼻歌のようなもので、いくぶん物足りなく思っていたのですが、その三曲目の「サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ」は、そのロマ的な情熱と血の騒ぎのようなものを存分に聴かせてくれて、その曲のボリュームと合わせて、まるまるプログラム一曲分を得したような気分で、観衆も最高潮に盛りあがっていました。

 ちょっと気取った自負のようなものが散見できたリサイタルでしたが、その気取りが彼自身の表現の質と幅を後押ししていたかのようで、終わってみると結構爽やかなコンサートでした。

 なお、ピアノはマイケル・ドゥセク。五嶋の演奏とうまくフィットしていたように思いました。


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