六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【パニックと悲報 もう名付けはやめよう】

2020-05-17 00:18:33 | ひとを弔う

 メダカが来てから一週間。メダカの天敵がいることは予想していた。小魚を捕食する水生昆虫などは近くにもいないし、火鉢の中へやってくることはないだろう。
 とすると、あとは猫か鳥類だ。そこで、夜間には網戸のネットを利用したカバーを掛けることにした。われながらいいアイディアだと思った。

 しかし、いつも掛けておくわけではなく、餌をやる時間は全開し、昼間は半分、ないしそれ以上は開けておくことにしている。だって、メダカたちにも、ホテイアオイにも、充分陽の恵みを与えてやりたいではないか。

           

 彼らがやってきて以降、それでうまくやってきた。だから16日も、朝、餌をやってから半分以上を開放状態にしておいた。

 昼、覗きに行って、ア、と思った。なんと、ホテイアオイの葉の上に、アマガエルが一匹乗っているではないか。これは想定外だった。
 慌てて追いかけ回し、捕らえて火鉢の外へ追放した。
 メダカたちは何ごともなかったように元気に泳ぎ回っている。

 そこでハッと気づいた大問題は、アマガエルはメダカを食うかどうかだ。さっそくネットで検索した。
 ところがどうだ。その回答はほぼまっ二つ。
 「アマガエルは陸上で昆虫などを捕食し、水中のものは食べません、うちでは、メダカとアマガエルが共存しています」というものがある一方、「アマガエルは陸上だろうが水中であろうが、小さな動くものに反応し捕食します、うちのメダカが減ったのはそのせいだろうと思います」というのもあって、10近くの回答のうち、その可否はほぼ半々。

           
 ならば自分の目で確かめてみようと火鉢のヘリで目視の観察。ホテイアオイも引き上げて数えてみる。
 わが家へ来たときの構成はこうだった。緋メダカ5、スタンダード3、シルバーまたはホワイト3(この中には脊椎が曲がったノートルもいた)、そして真っ黒が1、で計12尾。

 懸命に数える。緋色の5尾はすぐ確認できる。スタンダードは地味で数えにくいから後回し。続いて白ないしはシルバー、ん?2尾は確認、残るはノートル・・・・、目を凝らすが見当たらない。
 後で確認するとしてほかを探す。黒いのは底の方にいた。そしてスタンダード。よくわからないが、2尾は確認できた。
 
 もう一度最初から数えてみる。ノートルがいないのは確実だ。スタンダードの残り一尾も怪しい。結局、12尾中確認できたのは10尾。

 では、アマガエルが食べたのであろうか?それはあまり信じたくはない。うちにはアマガエルはいっぱいいる。しかも彼らは、メダカたちがくる前はこの家のアイドルだったのだ。
 近づいてもあまり逃げようともせず、夜、彼らの居そうな繁みに向かって、「ケケケケケケ」とやや高い声で呼びかけると、時として「ケケケケケケ」と鳴き返してくれる愛嬌もの。
 そんな彼らが、メダカの天敵だとは思いたくないではないか。

           
 たまたまアマガエルが火鉢の中のホテイアオイの上にいた。そしてメダカの数が減った。これは並行して起こったことだが、この間を因果関係で結びつけるのはやめようと思う。
 ただし、網戸用のネットを利用した防御措置は一応強化しよう

 それから、もうひとつ、メダカたちを個別に識別し、それに名付けることもやめようと思う。なまじっか名付けたりするから、それの「死」を意識しなければならない。単にメダカたちとのみ心に留めておけば、「数が減った」で済むではないか。

           
 ナチスだって、ユダヤ人を名前で記憶せず番号で呼んでいた。だから、「殺す」という意識を抜きに、「移送」し「最終処分」できたのだ。
 さらにいうなら、日本軍の731部隊も、生体解剖の対象を「丸太」とし、一本、二本と数えることで「殺す」のではなく「実験対象」とし得たのではなかったか。

 とはいえ、唯一名付けた「ノートル」は、やはり「減った」のでなく「死んだ」のだ。しかも名付けたことによって、その死は悼ましい。

 生き物を飼うということはこういうことなのだ。

  写真の白いメダカはすべて在りし日のノートル

 

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「朝日歌壇」諏訪兼位さんと松田姉妹について

2020-03-29 11:29:03 | ひとを弔う

 

   

 今日の「朝日俳壇・歌壇」、時節柄、「時疫(ときえき)に心ならずも春ごもり」などの句が目立ち、とりわけ時事性の高い短歌ではそうしたものが目立った。
 そんななか、歌壇の方の常連で、毎週のごとく秀歌が採られていた諏訪兼位さんの遺作とともに、その訃報が伝えられていた。
 名古屋大学理学部長、日本福祉大学学長などと、名古屋地区に縁が深かった地球学者で、文系理系の垣を超えて思考し表現する人だった。
 写真は、その第二歌集「若き日のヘーゲル」を掲げる同氏。私よりちょうど10歳上の享年91歳、三月一五日がに亡くなられた模様。

 パレスチナのガザはガーゼの語源の地 人間(ひと)の業(ごう)深しいまも血塗られて は数年前の作品らしい。 ご冥福を!

 なお、最近掲載が減っていた富山の松田梨子・わこの姉妹、わこさんは大学入試を突破し、梨子さんの方は就活が始まる春らしい。

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奥美濃で出会った郡上一揆義民たちの墓所

2019-05-16 11:49:11 | ひとを弔う
 ちょうど先月の中頃、奥美濃へ観桜に出かけたとこのブログにも書いた。
 メインのお目当ては、郡上市は白鳥(シロトリ)町から牛道谷沿いに登った箇所にあるエドヒガン桜の古木、善勝寺桜だった。この名称は文字通り、善勝寺という寺院の境内にこの樹があるからだ。
 麓の町中のソメイヨシノはもう満開状態だったので、期待をもって山道を登ったのだが、ああ、何と途中から残雪がここかしこに見えるではないか。

           
        
        

 到着して、のぞみは消え失せた。路肩に雪が残り、わずかに蕗の薹が覗くのみ。お目当ての桜はというと、蕾の膨らみすら見せぬまま、つれなくそびえている。ただし、その樹の大きさからして、これが花をつけたらさぞかし見事だろうとは思わせる偉容ではあった。
 なお、その折の模様は以下のブログに書いた。

https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20190417

 諦めて帰る前に、寺の墓所に立ち寄って、ん、ここにこれが、という息を呑む光景に出くわした。
 それは、江戸三大百姓一揆の一つといわれる郡上一揆の義民(犠牲者)35名を祀る墓所であった。
 もちろん、オリジナルではないし、もともと35名がまとめて葬られた場所もないのだが、これを建立したひとがその義民の末裔であり、これらの墓碑それぞれが史実に則ったものとあってはやはりないがしろには出来ない。

        
        

 なお、傍らにあった義民のうちの一人、細ケ谷村彦助の墓はオリジナルの模様である。

           
        

 ところでこの一揆、1750年代中頃(宝暦)に郡上八幡の金森家の年貢取り立ての増加に対し、奥美濃一円の農民たちが反対して立ち上がったもので、その過程で作られた首謀者を解らなくするための唐傘連判状がよく知られている。そのレプリカは郡上八幡城に展示されている。

        
        

 百姓たちの闘いは数年に及び、その経緯は一言では語れないほど錯綜している。
 事態は江戸表の政治的思惑をも巻き込んで混迷を極め、一時は百姓側の勝訴ともいえる結論がでたことがあったが、最終的には、百姓側がその責任を追及され、獄死や処刑など多くの犠牲者を見るに至った。

           

 ただし、この騒動で、金森家は所領を没収され、追放同然に身柄預かりになっているし、その後にやってきた藩主青山は、その教訓を汲んで藩政の改善に務めたといわれる。
 徹夜踊りで有名な郡上おどりは、この一揆で散った百姓たちへのレクイエムとして始まったといわれる。
 余談だが、東京の港区青山は、この青山藩の江戸屋敷があったところで、その関係で、いまもこの地区では郡上八幡の踊りと連携して、毎夏郡上おどりが開催される。

        

 郡上一揆は、理念から始まったものではなく、年貢の増強による生活破壊への抵抗として始まった広範な闘いであった。もちろん、百姓側にも利害の差異があったり、見通しへの違いなどがあって、いわば、裏切りのようなこともあったようだ。
 しかし、それも含めて、百姓たちが自分の生命を賭して権力にノンを突きつけた稀有な事態であった。

        

 ひるがえって、私たちは、これだけの緊張感をもって事態と対峙しているだろうか。あからさまな不正が横行し、所得配分の格差がじわじわと広がりつつあるいま、それらに対する不感症が私たちの習性になっているのではないか。怒り、立ち上がるという機能を奪われているのではあるまいか。
 なにをいっても、なにをしても、状況は変わらないというニヒリズムが私たちを支配しているのではなかろうか。

        

 電話もメールもない時代、いくつもの広範な山里に分散された郡上の百姓たちが、どのように連絡し合い、どう行動を一致させたのか、興味は尽きないが、きっと、このままでは自分たちは人間として暮らしてゆくことは出来ないという生の尊厳への思いが、技術上の困難や制約を超えて、彼らを団結させていったのではあるまいか。

 早春ともいえないほどの、奥美濃の古寺の奥まった個所で、そこに設えられた義民たちの墓碑は、「〇〇村の**」と記されていて、それがまさに彼らの生前の土着性を表現しているようだった。
 私たち現代人は、彼らのもっていた地理的なアウラを背負った生き様や、状況と真摯に対峙する生の在りようから遠く隔たってしまったのかもしれない。
 






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永遠の映画青年、平野勇治氏を悼む。

2019-02-01 01:13:21 | ひとを弔う
       
 今年最初の悲しい出来事は、その学生時代から知っていた名古屋シネマテークの支配人、平野勇治氏の逝去だ。
 葬儀に行った。大勢の映画を愛する人たちが集い、会場はあふれんばかりだった。
 ほとんど無名時代に、平野氏が上映作品として取り上げた監督たち、いまはメジャーになっているその人たちからの弔電やメッセージもあった。
 
 その平野氏が、私にふれた文章を残していた。以下にそのURLを貼り付けておく。
 この記事の中で、「六文銭のマスター」というのが私のことだ。
 これを読んで、三十数年前の若かりし彼の姿が彷彿とし、改めてこみ上げるものがある。

 http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=6624&comment_sub_id=0&category_id=245

 
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逝ってしまった先達二人に再会した日 稲垣喜代志&若松孝二

2018-11-05 14:38:18 | ひとを弔う
 4日日曜日、同人誌などでご一緒した先達の一周忌を受けて、それを偲ぶイベント、「反骨の編集者稲垣喜代志の眼差し」展へでかけた。会場は「文化のみち二葉館」(名古屋市東区 日本初の女優といわれる川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元した洋館)で、この日は、その展示会の特別企画のトークイベント「出版人・稲垣喜代志の”志”」が行われた。

             
          
 
 稲垣さんは、1963年、それまで勤めていた「日本読書新聞」を退職し、名古屋の地に「風媒社」という出版社を起こし、文芸出版、評論、ルポルタージュ、などなどの良書を半世紀以上にわたって世に送り出してきた。
 とりわけ、公害問題やハンセン病問題、原発問題などについては、それらが一般に問題視される前に、率先して取り上げ、警鐘を鳴らし続けてきた。

 なかでも、原発問題については、フクシマ原発事故に先立つ16年前の1995年に『原発事故…その時、あなたは!』を世に問い、「もし日本の原発で重大事故が起きたらどうなるか?近隣住民の被爆による死者数、大都市への放射能の影響」などをシュミレートし、「原発安全神話」を真っ向から切り崩す衝撃的な書を出した。
 そのあまりにも的確な予言に、実際の事故が起こったあと、初版後十数年を経過した書が版を重ねるという珍しい現象を引き起こした。

          
          

 風媒社の概要や出版物については、以下を参照されたい。
    http://www.fubaisha.com/index.html

 私との関係についてはほぼ40年ほどになるが、最初は私がやっていた居酒屋の客として、それから、いろいろ話をしたり情報を交わす仲になり、さらに10年ほど前からは同じ同人誌の先達として、毎月一回以上会う間柄だった。
 
 トークイベントのパネリストは、風媒社の初期の頃の社員でいまは独立した事業をなさっている方お二人と、私の友人の作家、山下智恵子さんとの三人(司会は劉編集長)で、それぞれが、私が知らない側面での稲垣さん像を語るなど、いまは亡き先達をいま一度彷彿とさせるものであった。

              
     稲垣さんの遺品 ステッキやメガネ、腕時計などどれもいつも見ていたものだ
 
 この催しに参加したあと、いま一人出会ったのは、これもいまは亡き映画監督の若松孝二氏で、出会ったのはいまも存続する若松プロダクションの映画、『止められるか、俺たちを』(監督:白石和彌)という作品の中でのことである。
 若松監督が名古屋に開設した映画館、シネマスコーレにおいてであった。

 映画は、1969年から71年の三年間の若松プロダクションに集う人々、その周辺の人々を描いている。そのストーリーとしては、若松孝二の助監督となった吉積めぐみ(演じるのは門脇麦)を巡るものだが、その状況の中心にはいつも若松孝二(演じるのは井浦新)がいる。
 その意味ではこの映画は、若くして世を去った吉積めぐみへのメモリーズであるとともに、いまは亡き若松孝二へのオマージュでもある。

             

 そこには映画作りに情熱を燃やすハチャメチャなエネルギーが存在した。
 なんとしてでもなにかを生み出し、フィルムに焼き付けようとする情熱。
 そのためには、既存のものを超え、あえて常軌を逸することを目指す、そんな映画製作者たちの姿が、これでもかこれでもかと展開される。

          

 さて、私と若松監督の関係だが、35年前、自分の上映館、シネマスコーレを名古屋にもった監督は名古屋を頻繁に訪れ、若い映画人たちとの交流を持つに至った。そんな折などに、やはり私が営んでいた居酒屋に来ていただいたのが最初だった。その後、しばしば大勢の若者たちを引き連れて来店の折には、常にその中央には若松監督がいた。
 時折、少人数や一人での来店の際には、カウンター越しにいろいろ話を交わすことができた。私の店の若い常連の映画好き(年間200本の映画を観ていた)が、縁あって監督の類縁に繋がることになったこともあり、その来店も何度かにわたった(その類縁関係は不幸な結果になるのだがそれはこの際、言わないでおく)。

          

 監督が客として私の店を訪れた頃には、上記の映画で見たようなむき出しの荒々しい情熱は影を潜め、むしろ若い人たちに囲まれて好々爺然とした笑顔を見せることもあった。むろん情熱を失ったわけではなく、それらは静かに作品の中に沈殿していったようだ。

          

 こうしてこの日、私は逝ってしまった二人の先達に再会したのであった。
 そのひとり、出版人として反骨を貫いた稲垣さんとは、その人となりが語られたトークイベントの中で、もうひとりの、映画というキャンバスに溢れる思いをつねに叩きつけてきた若松監督とは、その後衛たちが作り上げた映画の中で。

          

 二人に共通するもの、それは閉塞した状況に圧倒されることなく、マジョリティのもつ抑圧的な価値観にマイノリティの立場から抗い続けることでなにかを生み出し続けるという反骨の精神、そしてそれを新たな創造へのバネとしたチャレンジ活動を手放さなかったことだろう。

 時代の閉塞感は、こんにち、一層募ってると思うのだが、現今の大勢をみるや、それに順応することが「うまく生きること」であるとする向きが多い。そしてそのことが、閉塞の重みをますます増加させ、さらにそれに順応するという悪しきスパイラルが自らの牢獄の壁をますます厚くしているかにみえる。

 「時代はもう、稲垣さんや若松監督のものではないんだよ」とささやく声が聞こえる。「彼らを、《かつて》の記念碑として安らかに葬ることが必要なのだ」とその声は続く。
 しかし、彼らが目指した世界の流動性のようなものを失った世の中は、流れを失った水が腐敗するように、次第次第に「生きた人間」を窒息死させてゆくことになるだろう。
 そうした状況に警鐘を鳴らし続けてき彼ら二人の声に、いま一度、耳を傾けてもいいのではないか。彼らの背中をみて生きてきた私は、能う限りそのように生きたいと改めて思った。



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戦後をリードしてきた俳人、金子兜太さん逝く!

2018-02-21 13:12:36 | ひとを弔う
   


 先般、時事通信社がフライイングでその死去を報じてしまった俳人の金子兜太さん、どうかず~っと嘘のままでいてほしいと思っていたが、とうとう本当になってしまった。
 
 俳句は門外漢の私だが、金子さんの花鳥風月に留めない状況と切り結ぶありようが印象的だった。長年選者を務めていた「朝日俳壇」での金子さんの選ぶ句は、やはりそうした姿勢を反映して面白いものが多かった。
 その選者をこの1月から休まれていたので、復活されることを心待ちにしていたが叶わぬこととなってしまった。
 
 またひとつ、「私たちの時代」が遠のいてゆくようで、寂しくもあり残念でもある。
 合掌。

  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180221/k10011336981000.html
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先達にして同人、稲垣喜代志さんを悼む!

2017-10-31 14:27:22 | ひとを弔う
 私の家の居間にここ20日ぐらい前から、新しい絵(正確にはリトグラフ)が飾られるようになった。タイトルは「海」らしい。「らしい」というのは作品のなかにはそれと明記してあるわけではなく、私にそれをくれた人がそう言ったからである。ただし、後日ネットで確認はとったがやはりそうだった。

 全体に黒のモノトーンンによる墨絵のような作品であるが、縦長のそれの三分の二以上を空が占める。その下が海なのだが水平線は水平ではなく弧を描いている。
 画面右側からは岬、ないし半島が突き出ていて、右手前にはその半島のものと思われる岩礁が描かれている。
 よくみると、水平線と半島が交わる辺りの上空に、10羽近くの鳥が飛翔している。

            

 どこか底知れぬ寂寥感が漂うが、にも関わらずそれ自身は決して無機的ではなく、かつての童謡や唱歌の短調の曲のように、どこか人恋しく、懐かしさを覚えるような作品だと思う。
 なお、この半島は知床だということだ。
 
 画家は香月泰男。旧満州で兵役中に敗戦、ソ連軍によりシベリアに抑留され、収容所で強制労働に従事した。そのせいで、シベリア・シリーズなどそれを画題にした作品が多い。
 私の養父(実父はインパールで戦死)がほぼ彼と同じ経験をしているせいもあって、私自身も彼の作品にはシンパシーを持っている。

 この絵が私のうちに来たについては以下のような事情がある。
 私はここ8年ほど、同人誌『遊民』に関わってきた。この雑誌は2010年平均年齢76歳で発足し、この月初めに刊行した16号でもって終刊を迎えたが、現在の平均年齢は83歳に至っている。
 中部地区発の緩やかな、しかし一本筋が通った連帯をバックとした雑誌で読者はこの地区のみならず、北海道から沖縄にまで点在し、熱心な感想をくれたりするコアな支援者たちに支えられてきた。

 当初の主宰者、伊藤幹彦さんが病に倒れた結果、この雑誌の後半の編集作業は私に託されることになった。
 この同人の中では私は若造でしかなかったが、編集を託された以上、年長の先達をも相手に、原稿の遅れなどをチェックし、時にはやや強くそれを促すこともしなければならなかった。
 その先達のひとりにしていつも遅筆で、最も私がマークしていたのが稲垣喜代志さんだった。
 その稲垣さんの訃報が入ったのが10月28日の夜半であった。

 彼が連載していた「怪人・加藤唐九郎伝」は、若くして唐九郎に魅せられ、その内懐にまで入って親交を結んだ彼にしか書けないもので、多くのファンをもっていた。
 それだけに、欠筆のままの発刊は避けたいところであった。残念ながらそれは2号を数えたが、終刊号は私のマークがあっけないほどに締め切り前にちゃんと入稿があって有終の美を飾ることができた。しかし心残りはまだまだ未完ということであった。
 
 最終号の見通しがったったある時、私は機会を見て稲垣さんと話し、2つの点で詫びを入れた。そのひとつは、毎号毎号、締切が迫るにつれ、稲垣さんの出来具合を厳しくチェックし、その遅れをただすように督促を続けたことへのそれであった。
 そして第2には、その「唐九郎伝」が未完のまま終刊しなければならなくなったことであった。

 そうした私の詫びを、まったく意に介さないと言ってくれたのみか、ご苦労だった、ついては君にもらって欲しい絵がある、とのことだった。
 いささか驚き、かつ嬉しかった。若輩者の私の無礼を水に流してくれるのみか、それを評価し、記念のものすらいただけるというのだ。

 後日、名古屋のホテルのロビーでお逢いし、それをいただくこととなった。そしてその折にいくらかの話を交わした。
 私の方からの話は、もっぱら未完の「唐九郎伝」で、ぜひ何らかの媒体で書き続けるか、描き下ろしで単行本にまでもっていってほしいということだった。
 稲垣さんからは、君は勉強家だからこれからも新しいことを学ぶだろう、どこかそれを発表する場があればいいのにという温かい言葉を頂いた。

 それが、冒頭に書いた香月の絵が私の家の居間にあるいきさつである。

                 
 
 稲垣さんについては多くを語るまい。知る人ぞ知るだし、添付した新聞記事が要点をうまくまとめている。
 ただ私との、30年ほど前に遡る個人的付き合いについては若干述べておこう。

 最初の出会いは私がやっていた「炉端酒房 六文銭」の顧客としてだったが、もちろん風媒社という出版社は知っていた。常連となってくれた稲垣さんは、晩年と違ってけっこう飲んだ。カウンターを挟んだ客と亭主という関係だけでなく、今池界隈の飲み屋で、肩を並べて飲んだことも幾度かある。

 そんなわけで、「お前も俺のところで何か書け」ということになって、豚もおだてりゃ木に登るで同社から本を出してもらったのがもう20年以上前になる。
 その本は、一日14時間労働という厳しい条件のなかで書き急いだのと、私自身の未熟さで失敗作に終わり、稲垣さんの会社には迷惑をかけたが、それにもかかわらず、今日まで温かいお付き合いをさせていただいた。

 絵を頂いてから、もう一度、亡くなられる10日ほど前、同人一同とともに会ったが、11月には終刊の打ち上げを兼ねて、岐阜は長良河畔で会えることをお互い楽しみにしていたのに・・・・。
 一番最後に、どんな言葉を交わしたのか覚えてないない。
 当分は、稲垣さんがくれた絵に向かって話しかける以外ないのだろう。

 いろいろな別れが続き、冬へと向かう。寂しいことだ。 





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亡き友の枕辺で飲んだ酒を求めて

2017-06-02 11:34:47 | ひとを弔う
 もう先月になる。高校時代からの友人を亡くしたことはすでに書いた。彼を含む5人組が当時のその高校の文系サークル(新聞部・文芸部・演劇部・歴史研究会・うたごえ運動支部など)を横断的に牛耳っていたことも書いた。

 その通夜のことだ。基本的には家族葬だが、私たち4人が招かれた。うち一人、岡崎在住の友は、自身体調が悪くて欠席。残るは3人だが、そのもとに遺族の子息(私たちとは顔見知り)から申し入れがあった。最寄りの駅まで送迎するから、決して車で来ないでほしいというのがそれだった。

 ようするに酒を飲むということだが、それが故人の遺言だというのだ。亡くなった彼の枕辺で、私たちが語らいながらおおいに飲んでほしいということだった。
 それに従った。

             

 通夜の儀式が終わったあと、彼の棺を祭壇から控室に移し、私たちはその枕辺に陣取って飲んだ。
 私たちと息子二人、それに彼に先立った連れ合い(俳句を嗜むなどなかなかいい女性だった)の弟さんという人とで彼の思い出をこもごも語らいつつ飲んだ。

 そのとき、用意されていたのが上の写真の缶入りの酒であった。「ふなぐち 菊水 一番搾り」とある。
 「ふなぐち」とは、蔵元の説明によれば以下のようだ。

 【もろみを搾る「ふね」から流れ出る搾りたての原酒を当社では「ふなぐち」と呼び、酒蔵を見学に来られた方だけに振る舞われる「蔵の酒」として大変な評判を博していました。 火を一切あてない、調合もしない酒本来の姿そのままの「ふなぐち」。 もろみを搾る「ふね」から流れ出る搾りたての原酒を当社では「ふなぐち」と呼び・・・・(略)・・・・ 火を一切あてない、調合もしない酒本来の姿そのままの「ふなぐち」】

 そんな次第で、たかが「缶入り」などとみくびるなかれ、けっこう旨い。「どうしてこの酒を?」という問いに、息子たちは「親父はこれを愛飲していたのです」とのこと。
 長い付き合いで、数え切れないほど盃を重ねてきたが、うかつにもそれは知らなかった。

 彼の遺言に忠実に、あるいはそれ以上に、私たちはしこたまそれを飲んだ。そして語った。はじめは遺族の手前、彼の美点を述べていたはずが、いつの間にか悪口に変わっていた。悔しかったら、起き上がって一緒に飲めといわんばかりに話が弾んだ。
 それが彼との私たちの別れであった。

             

 それから10日も経っていない昨日、酒専門店の前を通りかかり、通夜の酒を思い出した。車を駐車場に入れ、広い店内を探したがそれらしい缶入りの酒はない。
 よく探したら、同じ酒蔵の純米酒のの一升瓶があったので迷わずそれをゲット。彼と最後に外出した折、私がアッシーを努めた礼だといって麦焼酎を買ってくれた彼の行為を思い出し、少し胸を突くものがあった。

 入手したこの酒、むかしのようにグビリグビリと飲むことはできないが、しんみりした晩など、彼を忍びながらチビリチビリとたしなみたい。
 高校、大学と私のいささかワイルドな目覚めの時期があった。そのなにがしかを彼と共有した。そしてそれ以降の付かず離れずの付き合い、そして晩年は穏やかな語らいの機会を何度ももった。
 それらを反芻しながら飲むにはいい酒だと思う。


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60年の付き合いといったら半世紀以上だろう、N君よ!

2017-05-25 01:21:48 | ひとを弔う
 写真は別の記事の挿絵にと撮ったものですが、彼の悲報に接し、彼への手向けの供花とします。人参の花、キュウリの花、トウモロコシの花などです。

 24日未明、60年来の友人、ということは高校一年生の頃からの友人、N君が逝った。
 昨年春、末期の肺がんで余命三ヶ月と宣告されてから一年余、よく頑張ってきたがついに力尽きた。
 本人はもとより、私たちもその宣告を知っていたから、決して衝撃ではないが、やはりいざ逝かれてみると寂寞感が襲いくるのを避けるすべはない。
 最期は、苦しむことなく眠るがごとく逝ったというから、それをもってささやかな慰めとしたい。
 
          

 加えて、彼を最後の最後まで、友人として見送ってやることができたことも、悲劇的な出来事の中でもいくぶんの満足を覚えることとなっている。
 彼ともう一人の友人H君と私とで、彼の希望する料亭の支店で、鯛の兜煮定食を共にしたのは二月の初めだった。たぶんそれが、彼にとって最後の外食だったろうと思う。というのは、それから二週間後には入院を余儀なくされ、そのまま外へ出ることはなかったからだ。

             

 私とH君は、それ以後、四回ほど見舞いに行き、かなり長時間にわたって、出会いの頃から今に至る過程での思い出などを語り合った。
 その中でよかったのは、私がプロデュースし、すこし遠隔地にいる友人も含め、彼と親しかった四人を集めての見舞いを実現し得たことだ。
 彼は、「わざわざ遠いやつまで集めなくとも」と私にいったのだが、その言葉とは裏腹に、嬉しさを隠すことはできなかった。彼も、そして集まった連中も、これが最後であることを重々知っていたからだ。
 別れ際に彼は、病人とも思えないはりのある声で、「ありがとう、ありがとう」と私たちの手を握りしめるのであった。

          

 この、見舞いに行った四人と彼を含めた五人は、高校時代、私たちの高校の文系サークルの中枢を牛耳っていたつわ者どもである。
 新聞部、文芸部、歴史研究会、演劇部、当時盛んだったうたごえ運動の学内支部などを横断的に私たちが仕切っていた。横断的にというのは、例えば私は、演劇部を主体にしつつ、文芸や新聞、うたごえ運動にも関わり合っていたし、ほかのメンバーもまた、マルチな関わりのなかで活動していた。

 これらのメンバーを招集したのは四月の末のことであった。
 H君と私は、その後、今月の中頃にもう一度見舞いに行っている。なにしろ、肺がやられているのだから体力の衰えは隠すべくもなかったが、それでも病院の売店から取り寄せた新聞を材料に時事問題などを語り合った。まさに、「雀百まで踊り忘れず」である。
 それから二週間近く、そろそろまた見舞いにと思っていた矢先の悲報であった。

          

 彼については、まだまだ語るべき多くのことをもっている。
 ただし、それらは一般化しにくいものでもある。だから私は、それらを反芻しながら彼を偲ぶほかはない。
 私と彼の付き合いは、まだ「戦後」が色濃く残っている頃に始まり、高度成長を経て、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本中がそっくり返り、それををピークとして凋落が始まるや、今度は、戦後の「平和と民主主義」といわれた獲得物が、オセロ・ゲームのように反転しつつある今日まで及んでいる。
 そうしたなか、最後まで新聞を手放さず、それらをウオッチングしていた彼の精神を継続して生きてゆきたいと思う。
 
 N君よ、安らかに眠るな! 荒ぶる神として私に啓示を与えよ!
 これが君への弔辞であり、私の願いだ!

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皆様にとって今年の一文字は? 私は「喪」です。

2016-12-30 23:17:46 | ひとを弔う
     写真は本文とは関係ありません。わが家の師走の黄葉です。 

  2016年を一文字で表す漢字は「金」だそうである。例年のように、清水寺の貫主が墨黒々とそれを揮毫するのをTVで観た。
 「金」なんて、いわば毎年それに振り回されているのだからいまさらとも思うのだが、今年のそれは五輪での金メタルが含まれるのだそうだ。加えて、トランプ新大統領の金髪、ピコ太郎のキンキラキンの衣装までもカバーしているという。もっとも、「金」はこれで三回目だそうだから、やはり万事、金の世の中といえるのかもしれない。

              

 私の今年の一文字は喪うの「喪」である。
 まず、1月の終わりには階段から転落して左手の自由を喪った。みごとに骨折したのである。しかも、骨折箇所がずれてしまっていたので、その部分を切開して金具を入れて補正し、くっつくまで待ってさらに取り出す手術をし、「これで完治です」といわれたのはやっと9月になってからだった。
 その間、車も自転車も乗れないなど難儀をした時期も若干はあったが、幸い、PCの文字はすぐ打てるようになり被害は最小限に留められた。
 ただ、その後遺症か、昨今のように寒いと多少つっぱり感などの違和感を覚えることもある。まあしかし、文字通り「老骨」なのだからこれくらいはやむを得ないであろう。

 次に喪ったのは、18歳の頃に知り合い、青春時代をともにし、その後も付かず離れず付き合ってきた畏友、S氏だった。彼は第一回目の熊本地震の当日、4月14日に旅立った。
 公私共に世話になったが、とりわけ、理論的思想的な面では常に私に先行し、私の良き目標になった。あえて畏友と称する次第である。

          

 畏友といえばもう一人、S氏とはちがった意味で私に影響を与えた年下の友人、河合塾の名物講師といわれたMa氏を五月に喪った。
 はじめて知り合ったのは彼が現役の学生で、まだ詰め襟の学生服を着ていた頃だから、これもまた半世紀に及ぶ古い付き合いである。
 彼の場合には、S氏のように理論的思想的な面でのつながりというより、主として市民運動などの実践的な面においてだった。彼のエネルギッシュな行動に気圧されるように、私もまたかなりの局面でそれらに参加した。

          

 年下の友人といえば九月にはまだまだこれからという社会運動研究家で和光大学教員のMi 氏を喪った。享年四九歳というからいかにも若すぎる。彼がたまたま私が参加している同人誌の先達たちのかつてのサークル活動の聞き取り調査にきた折、知り合い、話してみて驚いた。彼は西尾市の出身で、浪人時代河合塾へいっていたのだが、その折、上記のMa氏などに連れられて、当時私がやっていた居酒屋へきたことがあり、私のことも知っているというのだ。こうして二人の距離は縮まり、彼は私のブログの良き読者として時折コメントを付けてくれた。

 同時に彼は、前述の私も参加してた同人誌のファンで、同人の一人、I 氏が一昨年亡くなった折には、その偲ぶ会にわざわざ東京から名古屋まで駆けつけてくれた。
 彼の研究も私には好ましく思えた。運動論を大上段に振りかざすのではなく、それぞれの場で地を這うように運動してきた人々のそれを、いわゆるオーラルヒストリーの手法で聞き取り、それらの実像を浮かび上がらせる手法は、公の歴史からは忘却されている裏面史のようなもの、そしてそこで実際に生きた人たちの実像を再現させるかのようであった。
 なお、彼が最後にくれたメールは5月で、一年間教職を休み、療養に専念しながら研究はまとめてゆきたいと明るく語っていた。それからわずか4ヶ月、彼が逝ったのは9月のことだった。

          

 最後に喪ったのは、55年連れ添った私の連れ合いである。11月の終わり近く、突然逝ってしまった。独身時代から数えれば60年の付き合いである。決しておしどり夫婦ではなく、私自身がいい連れ合いであったとは思わない。考え方の違いもいろいろあった。
 
 しかし、60年の間に培われたその関係の現実は重い。一ヶ月以上経ったいま、それをどう受け止めて今後の生活を築いてゆくのかはまだ現実的なイメージとしてはない。
 この喪失の現実に慣れる生活のなかからそれらはみえてくるのかもしれない。いずれにしてもそれらは年が改まってからのことだろう。いまはただ、しなければならないことを淡々とこなしてゆくのみだ。

              

 私の今年の一文字はこうして「喪」だが、ほんとうの「喪」は、周りからさまざまなものや人が喪われるということにあるのではなく、そうした状況に私が否応なく差し掛かったということのなかにあるのだろう。
 ほんとうに喪われつつあるのは私自身の生命のリアリティ、ないしはそれを支えてきた自分史のようなものであり、それによって明らかになったものは、私の生涯そのものが終焉にさしかかったという否めない現実だということだ。

 これは諦観ではないし、悟りでもない。そうした現実にも関わらず、私はたぶん、命ある限り悪あがきを続けるだろうから。


【ご挨拶】今年もいろいろお付き合い頂きありがとうございました。皆様にとってきたるべき年がいいものであることを祈ります。まかり間違っても、私のように「喪」ではなく、「得」でありますように。
 なお、新年の寿ぎは失礼致しますのであしからず。






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