六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

彼女の過去たちとそれが示すその「誰」性について

2016-12-04 11:30:27 | ひとを弔う
             
         私がネットに載せるはじめての家族写真 45年ほど前のもの

 彼女の過去たちを整理しなければならない。
 彼女の過去たちはいま、彼女の残したモノたちのなかに、あるいは加入や取引といった関係性のなかにその残滓をとどめている。

 モノたちに関しては廃棄されるもの、継承さるべきものがあるが、おそらく多くのモノたちが破棄されるであろう。その破棄は、結果として彼女の意に反することもあろうが、いまとなってはゴメンというほかはない。
 むしろ、継承さるべきものがしかるべき人たちにしっかりと維持される方に力を注ぎたい。

 破棄されそうなこの時期からのジャケットで、ひとつ気になったものがあったのでほとんど戯れに袖を通してみたら、なんと私にピッタシなのだ。即座に、これは私が着ると宣言してゲット、これが私への形見分けになった。

 関係性の方は複雑多岐にわたる。彼女自身が仕事をし、収入があったので、それらを蓄えてきた。それらは、セキュリティという名のもとにしっかりガードされていて、その有無を、あるいは残高を確認するだけで並大抵ではない書類を要求される。
 それが各機関によってまちまちなのだ。その煩雑さは、すでに済ませた役所関係より遥かに凄まじく、「官僚的」といえる。

 彼女が去って幾ばくもしない間に、こんな実務的なことで飛び回りたくはない。しかし、彼女がどんな思いでそれを蓄えたかを思うと、彼女の過去たちを整理し、然るべき継承者(主として子どもたち)に手渡すためには不可欠な作業なのだ。

 残されたモノや関係性の残滓には、私からみて不可解なものや理解し難いものもある。しかし、それらが、彼女が「何」ではなく、「誰」であった証なのだと思う。
 どんなに合理的に生きていると思っても、さまざまなズレや逸脱、過剰や欠落があるものだ。そしてそれが「誰」の中味を作り出している。

 彼女の過去たちを整理する作業は、そうした彼女の「誰」性を再確認することでもある。
 こうして彼女の「誰」性は私たちのなかに生き続ける。

 寂寞感のなかで、そんなこを思い巡らしている。
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赤かぶの酢漬けが好きな女性

2016-11-30 15:33:07 | ひとを弔う
 赤かぶの酢漬けが好きな女性とつい最近まで一緒に暮らしてきました。
 
 11月19日、雨がそぼ降るなか、滋賀県は湖北の紅葉の名勝、鶏足寺を訪れましたた。彼女はお留守番。
 帰途、訪れた道の駅で、野菜をお値打ちにゲットしました。
 ネギ一束、日野菜一束、唐辛子一束、それに赤かぶの中玉二個で500円でした。とてもお値打ちですね。
 ネギはともかく、唐辛子は干して鷹の爪として用いるつもりで吊るしました。
           
 日野菜はネットを参照しながら、少しばかり凝った漬物にしました。
 21日、彼女は、「ちょっと変わった味だねぇ」といいながらそれを食べました。
           
 赤かぶは時差をつけて遅らせ、11月22日に漬けました。
 当初、少し意地悪をして、「今度は塩漬けにしようかな」というと彼女はムキになって「嫌だ、酢漬けがいい」といいつのります。
 もとより、こちらもそのつもりでしたから、「わかった、わかった。酢漬けにするよ」といいました。

 彼女の好みはあまり酸っぱくはなく、千枚漬けのように甘口のほうだと心得ていましたから、そのつもりで作りました。いつもより甘みが強すぎたかもしれません。
 「今日はまだだめだから、明日になってから食べ始めようね」といいました。「楽しみだよねぇ」と彼女。

 その後、19日に撮ってきた紅葉の写真、何十枚かをスライドのように見せました。
 「きれいだねぇ、きれいだねぇ」と幼子のように見入っていました。一巡して最初に戻っても飽きることなく見ていました。
           
 赤かぶは、酢に入れた瞬間から赤味を増し、どんどん鮮やかな色になってゆきます。
 夜になって点検し、味見をした頃には、既に全体が真っ赤に染まっていました。そして、これは彼女の好みの味だと確信がもてました。

 しかし、彼女はそれを味わうことができませんでした。
 赤かぶが、これ以上赤くはなれないというほどに赤く染まった頃、彼女は急逝してしまったからです。

 できあがった赤かぶの酢漬けの一部は、ラップをして彼女の棺の中に入れました。せめて、冥土への旅路で味あわせてやりたかったからです。
 私には、もうその声は聞こえませんが、きっと、「こんどは少し甘かったよねぇ」といっているのではないでしょうか。

 息子夫妻にその物語を告げ、かなりのぶんを持たせてやりました。娘も食べました。私も箸をつけました。気づいたら、大きなガラス鉢にいっぱいあったのが、こんな小鉢におさまるほどになっていました。
           
 あったもがなくなるということは寂しいものです。
 時間とはあったものがなくなり、なかったものがあるようになることだといわれていますが、私の年齢になると、あったものがなくなるということのほうがはるかに多くて、私自身がやがてなくなる身だということを痛感するのです。

 赤かぶの酢漬けが好きな女性は、いまごろ、どこを旅しているのでしょうかねぇ。










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同人誌先達の墓参と当世お墓事情・墓標のいろいろ

2016-10-14 11:24:37 | ひとを弔う
 信仰心が薄い私は、自分の父母以外の墓参というものをあまりしたことがない。
 しかし、今回は特別だ。私たちの同人誌、『遊民』のそもそもの主宰者、M・I さんのお墓で、そろそろ同人揃って墓参をとの言い出しっぺが私だったからだ。
 ときあたかも三回忌、同人一同に故人のお連れ合いも同行してくださった。

            

 場所は名古屋の東南部。地下鉄桜通線の終点徳重(名古屋駅から35分強)からさらに2Kmほど南、もう豊明市や知立市、刈谷市にもそんなに遠くないところにあるみどりが丘公園の一画、緑ヶ丘霊園。
 とても開けた墓地で、生前、M・I さんは「俺の墓の前で10人ぐらいが車座になって宴会もできる」と言っていた。もちろんその折にはまだピンピンしていて、ほんとうに私たちがそこを総勢7人で訪れることになろうとは全く思ってもいなかった。

            

 到着して納得した。M・I さんの言うとおりだった。こうした墓標は単独では見たことがあるが、ここのようにかなり広い一画がそれで占められているのを見るのははじめてだ。ここに墓所をもつためには、その墓石の規格が定められていることによる。

            

 その墓石の前が広いのも、M・I さんが言っていたとおりだ。とりわけ、M・I さんの墓所は、列の外れにあって、前のみか、左方向にも充分の余地があり、これなら10人はおろか20人の宴会でもできそうだ。
 私の父母の墓所を思った。まちなかの寺の境内ということもあって、前後左右に墓が林立し、何人かで行った場合、一度に墓前に立てるのはせいぜい二人までなのだ。
 それに比べて、ここはなんと開放的で伸びやかなんだろう。M・I さんも、自分が選んだ墓所に充分満足しているに違いない。

                
                 

 数多くの墓石には、思い思いの言葉や、なかにはイラストが彫り込まれているが、M・I さんの墓石には、右隅に、しかも遠慮がちに、「ありがとう」の一言のみが。かえってそれが目立つ。

                
            
 
 そして、側面には「つらきとき 寄り添えば充ち 道ぬくし」の句が添えられている。
 職場でのおつきあい以来、半世紀にわたる仲のSさんが墓前でしばし瞑目していらっしゃった。何を語ってらしたのだろう。
 私は、同人誌の近況などを報告した。

            
            

 久々にのんびりできる空間に来たついでに、近くの墓石ウオッチングをしてみた。
 じつにさまざまな墓石がある。ここでは伝統的な仏教様式の「南無阿弥陀仏」などというのは少数派だ。「愛」「偲」「謝」などの一文字のものから、横文字のものも結構ある。

            
 まずは横文字のものから。
 これは「人生は長きをもって尊しとせず、深遠なるをもって諒とすべし」とでも訳すのだろうか。ここに眠っている人は、ひょっとして夭折したのだろうか。

            

 これは、「しばしの休息」ということだろう。ということは復活するのだろうか。失礼だが、ゾンビを連想してしまった。しかし、どこかユーモアを誘う墓碑銘ではある。

            

 ハングル文字のものもある。在日の何世の人だろう。死して自分の民族の文字を墓標としたのだろう。残念ながら、どう書いてあるのか私にはわからない。わかる人がいたらご教示願いたい。

            


 これはまた、スローガンを墓標にしたものだ。石に彫り込んだ以上、子々孫々「核廃絶」なのだろうか。
 ただし、安倍氏の秘蔵っ子、現稲田防衛相のような核武装論者が独裁政権についた場合にはこの墓は強制撤去されることになるかもしれない。

            

 周りの環境もいい。近くの水路には蒲の穂が立ち並び、水生昆虫などがいそうな池もある。
 そのハズレには、夏の花・カンナと秋の花・コスモスの協演が見られた。

            
            
            

 思わず、「M・I さん、良いところで眠ってますね、たとえ天国に行けなくとも、ここが天国のようなものでしょう」と言いたくなった。
 ただし、いろんなことに好奇心旺盛なM・I さんには多少退屈なのかもしれない。

 M・I さんが今わの際に私に残してくれた言葉が胸に響く。
 「君とはもう少し早く知り合いたかった」
 私もそうですよといいたい。
 晩年のほぼ10年、ただし、私にはとても中身の濃い10年だった。

 秋アカネが数匹、墓所のまわりをしきりに飛び交っていた。

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工事とセミ 永六輔と大橋巨泉

2016-07-20 23:35:10 | ひとを弔う
 道路を挟んだすぐ前でドラッグストアの建設工事が続いていて、やっと一段落したと思ったら、うちのすぐ隣の埋め立て工事が始まったことはすでに述べた。

             

 それもなんとか一週間ほどでほぼ終わったようだ。それでホッとしていたら、今度は道路の舗装の補修工事が始まった。なんだかここんとこうちの周りは工事ばかりで、落ち着かない事この上ない。

             

 枇杷の木で鳴いているセミ、いつものアブラゼミと鳴き声が違うので見に行ったが姿がわからない。よくよく目を凝らしてやっと見つけることができた。
 ニイニイゼミだった。小さくて(約2センチ)地味な色合いだからとてもわかりにくい。ひさしぶりにこのセミに出会った感じがする。
               
                     
 
 名古屋は、クマゼミが席巻していると聞いたが、この辺はまだアブラゼミのテリトリーだ。
 木曽川が防波堤になっているのだろうか。

             

 ツイートにも書いたが、永六輔が亡くなり、続いて大橋巨泉も逝ってしまった。
 私にとっては、彼らは、小学生の頃からラジオで聴いていた三木鶏郎の「日曜娯楽版」の系列に繋がる、ひねりの効いたユーモアやウイットに富んだ系列の人達だった。おごる者たちへの批判は痛烈だった。
 「もはや戦後ではない」という言葉は今頃になって私のなかで実感をもって響き渡っている。
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「もう飛ぶまいぞこの蝶々」

2016-05-31 17:39:38 | ひとを弔う
          

 見なくともいいものを見てしまった。
 庭の草木に水をやろうとしてフト足元を見ると、何かがうごめいている。片翅のアゲハだ。この断面などから見ると、どうやら鳥にでも襲われたようだ。

 胴体と片翅は大丈夫なので、必死にもがいているのだが、もちろん飛ぶことも逃げることもできない。
 自然の摂理の中ではこのまま生き延びるすべは全くないはずだ。可哀想だが、なんともしてやることはできない。
 
 写真を撮ったあと、隠すように草むらに入れてやった。
 その真上ではちょうどナンテンの花が開こうとしている。
 彼か彼女かは分からないが、その息を引き取る最後に、この花が目に入るとしたら、幾分でも幸せな気分でその生涯を終えることができるかもしれない。

          

 この過程で、私の頭を渦巻いていたのは「もう飛ぶまいぞこの蝶々」というオペラのアリアだ。
 ポーマルシェの戯曲に基づき、ダ・ポンテが書いた台本にモーツァルトが曲をつけた歌劇『フィガロの結婚』の第一幕でフィガロ役(バリトン)が歌うアリアだ。

 恋に恋する美少年、ケルビーノは、誰彼なく女性を口説き歩くため伯爵の怒りに触れて、軍隊行きを命じられてしまう。
 そのケルビーノをからかいつつ、なお激励するフィガロのアリアが「もう飛ぶまいぞこの蝶々」という曲だ。

 このケルビーノは、兵役に就いても無事に帰還するようだが、冒頭にみたアゲハはもはや死を待つのみだと思う。
 にもかかわらず、いくどもいくども、このアリアがリフレインしながら渦巻いている。
 葬送の歌にしてはいささか陽気なこの曲が・・・。

   https://www.youtube.com/watch?v=rTdcfc7ugrg



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沖縄の友人からのコメント

2016-05-23 03:04:49 | ひとを弔う
          

【沖縄の友人から】
 いつも踏みにじられている側にたって考えてくださるお気持ちありがたいです。
 沖縄はいつも継子扱いでした。
 そしていつも痛みをわけあって切り抜けてきました。
 でもその思いが次の世代へきちんと受け継がれてないような気がしてとても不安です。
 私が生きているうちに戦争は起こらないと思いたいのですが…
 右に傾いでいくばかりのこの国が信用できず…テレビも新聞もみることができない意気地無しです。
 でも…県民大会には行くんですよ。
 白旗はあげないって決めてますから…
 勇気をいただける文を緑深い窓辺から綴ってくださって感謝です。


<注>踏みにじる立場とは、政府高官によるとされる次のような言葉。
 ■「それはそれ、これはこれ」・・・辺野古の基地は粛々として建設。
 ■「時期が悪いよなあ」・・・沖縄の人が殺されるのにいい時期と悪い時期があり、いい時期になら殺されてもかまわないということ。
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【これはこれ・それはそれ】で本当にいいのか!

2016-05-19 23:26:14 | ひとを弔う
             

 またもや沖縄で悲惨な事件が…。
 その一報を受けて、政府筋や与党関係者から「これはこれ・それはそれで」という見解がもたらされているという。
 「これ」とはなんで「それ」とはなんだろう。女性の一人や二人殺されても、沖縄の基地、とりわけ辺野古基地の建設は「粛々として」行うということなのか。
 この国は、戦中の沖縄地上戦以来、何人の沖縄の人々を犠牲にしてきたというのか。そしてこれからも・・・。

 殺された島袋里奈さんのご冥福を祈りたいのだが、私たち本土の人間にその資格はあるのだろうか。
 私たちもまた共犯者ではないのだろうか。
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花たちとS君宅への弔問

2016-04-24 16:09:33 | ひとを弔う
 先に書いたが、60年来の友人を亡くした。
 家族葬ということで葬儀には出られなかったが、昨日改めて弔問に訪れた。
 お供えと花を用意した。
 花屋では、「大切な友だったから」と余分な口を滑らせたばかりに、じつにていねいに花を選定してくれ、それで終わりかと思ったら、またまたていねいに梱包してくれた。おかげで、予定していた列車に乗り遅れた。

            

 名古屋へ出て地下鉄。駅から住宅街を通って彼の家に。この道も若い頃からよく通った。
 数年前まで、正月は、親しい友人、小十人が彼の家に集まり、新年会、兼勉強会をするのが常だった。 その頃の足取りに比べると、どうしても重くなる。

 彼の家では、そのおつれ合いと彼の姪(この人ととも長い付き合い)とが出迎えてくれた。
 早速遺影に手を合わせる。それが置かれた部屋は、まさに、例年の新年会の部屋であり、同時に、私が延々飲んでいて終列車に乗れなかったりした折など、泊めてもらった部屋だった。

            

 おつれ合いは、まず、彼の勉強の痕跡を見てくれとその書斎に案内してくれた。
 書籍類はみんな捨てろとのことで、ダンボールに入れられたものもあったが、彼が最後の入院をするまで勉強していたらしい書籍も残っていた。
 それには、マーカーやペンで傍線などが付されていて、それが3色や4色に及ぶ。それらは同時に付けられたものではなく、その都度のもので、彼が何度も何度も読み返し学んでいたことがよくわかる。

 かたわらに、私が送り続けていた同人誌があるのを見つけて、パラパラとめくってみると、私の小論の箇所にやはり傍線や書き込みがなされている。批判的なものが目立つが、それでも少しジーンと来た。
 というのはかねがね彼は、「お前の書いたものなど読みたくない。封も切らずに捨てている」と悪態をついていたからだ。ちゃんとこんなにていねいに読んでくれていたとは・・・。

            

 夫人と彼の姪を交えてしばし思い出話を。夫人は、ティッシュの箱を抱え込んで、一言毎に涙を拭っていた。
 その話の中で、彼は生前、印刷されたものは残さなかったが、それでも最晩年はその意志があったようで、PCの中にそのフォルダがあるとのこと。それを一度送付してもらって、今後のことを決めることとした。

 何やかやで1時間半ほどおじゃましでお宅を辞す。
 帰途、地下鉄までの住宅街、立派なモッコウバラの生垣があった。しばらくゆくと慎ましい白い花が。卯の花かと思ったらちょっと違うようだ。それでも、ウツギの仲間ではないかと思う。

            

 今池によって、彼とよく行った店で、彼といっしょに飲んでいた連中に合い、弔問の報告をし、彼の思い出を肴に飲んだ。
 少し過ごしたかもしれない。
 夜は雨だった。







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結局は「生きてるうちが花」なんだろうか?

2016-03-05 15:00:34 | ひとを弔う
  必要があって25年ほど前に編まれた全集を読んでいる。
 全集といっても一人の書き手のものではなく、複数の書き手からなるアンソロジーのようなものだ。それらが何冊も続く。
 
 懐かしい書き手、ここしばらくお目にかかれない書き手、その当時も今もあまり良く知らない書き手が出てきたりする。
 そんな場合、この人は今どうしているだろう、この人は一体どんな人だろうと検索してみる。

           

 今なお健在な人を見出すとホッとするが、鬼籍に入っている人の場合など、だから最近見かけないんだと寂しい思いにとらわれる。それが、当時すでに大御所だった人の場合は多少は落ち着くのだが、中には私とぼぼ同時代で、その時代の空気をともに吸ってきた人もいたりする。
 そればかりか、私よりも若い人たちで、すでに向こうへ行ってしまった人たちもいる。

 そうした若い人の一人が、死について語っていたりする。当時は50歳になっていない人だから、「私もいずれ死を迎えるのだろうが」などという一節が入ってはいても、決してそれを実感として感じてはいなくて、その文章での「死」も対象化されたものでしかない。もっとも、誰も死を死んだことなどないのだからやむを得ないのだろうが。

 彼は実際に自分が死に臨んだ際、かつて、自分がそれについて書いた文章を思い出したろうか。あちこちへいろいろ書いていた人だから、とくにそれを思い出したりはしなかったろう。
 そしてそれでいいのだろうと思う。できれば、自分の人生で楽しかったことどもなどを思い浮かべながら、唇に微笑みを浮かべて亡くなってほしいものだ。

           

 こんなことを書いていると、私自身の死後、あいつは「死」についてこんなことを書いていたがといわれそうだ。良き思い出を抱いて、あるいは少し譲って、成就しなかった恋についてのビターな思い出でもいいから、それらを抱いて笑みを浮かべながらなどというならば、私の単なる夢想、ないしは願望といわれそうだ。

 罪深い生を送ってきた私には、七転八倒の苦痛以外の何ものでもない死がふさわしいのかもしれない。でも、その際でも、自分の生に対して後悔やルサンチマンは覚えたくないし、そのように生きてゆきたいものだ。
 ま、これも含めて「死を死んだことがない者」の単なる妄想とも思われるのは間違いないところだろう。

           
 
 こんなことを考えていると、自分の死の間際が実際にはどうであるのかいくぶん楽しみになってきた。ただしこれすら、自分の死を、少し離れた場所で見続ける自分を必要とするので、そんなものは本当の死とはいわないのだろう。

 「人間はすべて死ぬ。しかし、死ぬために生まれてくるのではない」といって、人の生誕が常に世界への新たなものの贈与であることを語ったのはハンナ・アーレントであった。
 それに対し、その師、ハイデガーは、死を先取りすることに依拠して人間の生を(というより「存在」というものを)考えた。

              

 自分の死を例示しながらも、決してそれを実感していなかったあの若きアンソロジーの書き手にしても、そしてこれを書いているこの私にしても、決して死そのものを実感しながら死ぬことはできない。
 単純な事実だが、死はそうした実感の主体そのものを消去する作用だからだ。

 こうして死のまわりを徘徊しながら、私のような凡人は、「生きてるうちが花なのよ」と通俗的な趣味の世界に走ることとなる。

              

 今宵はこれからコンサートへ。
 「大阪フィル 第39回岐阜定期演奏会」で、指揮者も女性(三ツ橋敬子さん)ピアノとオルガンのソリストもそれぞれ女性(菊池洋子さん 徳岡めぐみさん)という顔合わせ。
 メインはラヴェルのピアノ協奏曲とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。
 楽しみだ。



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鶴見俊輔と一介のディレッタント(好事家)の思い出

2015-10-08 11:56:10 | ひとを弔う
 写真は、青土社刊行の雑誌「現代思想」の10月臨時増刊号、「総特集 鶴見俊輔」です。鶴見さんは、新聞紙上などで報道されたように、この7月20日に永眠されました。

 ここでは改めて鶴見さんの業績などを書こうとは思いません。興味のある方はググッてWikiでもご覧ください。それだけでこの人の極めて独自性に満ちた生涯をたどることができると思います。

           

 私との個人的な接点はほとんどありません。ただ、2度ほど、私の書いたものを鶴見さんに褒められたことがあります。もちろんこれは、私の書いたものが優れていたというよりも、学者嫌い、官製嫌いの鶴見さんが、学問的なキャリアもないド素人の私が勉強しながらチマチマ書いていることを激励してくれたものです。

  

 一度は、私の関わる同人誌の編集長格であった故・伊藤幹彦さん宛の葉書でした。
 幹彦さんから、「オイ、鶴見さんがお前の書いたものを褒めているぞ」という連絡と同時に、FAXでそのはがきのコピーを送ってもらったのですが、さっぱり読めません。
 推測するに、鶴見さんの字はもともとわかりにくかったところへもってきて、その当時は90歳近いご高齢で、運筆も不如意だったのだろうと思います。

 結局二人で、メールや電話のやり取りで、2、3日かかってやっと判読できたのですが、それは過分な褒め言葉と励ましの意がこもったものでした。しばらく、そのコピーのFAXを持っていて、高校時代の同級生に見せて自慢していたりしたのですが、そのうちに紛失してしまいました。
 もとの葉書は幹彦さんのところにあるのですが、彼自身が昨年の今頃、先に逝ってしまったのでその所在はわかりません。

             

 鶴見さんの著作で、理論的なものは、「アメリカ哲学」を読んだっきりで、あとは対談や評論、随想などです。しかし、こうした現実との関わり、対話の中にこそ鶴見さんの真髄があったように思います。
 ですから、その逝去の報道に、「知の巨人」などとあるのを多少の違和感を持って読みました。鶴見さんの「知」は、いわば学問的な体系や学識などにではなく、極めて実践的な「智慧」と批判的判断力のようなものの中にこそあったのだと思うからです。

 とりわけ、他者との対談などにおいては、聞き上手であり、相手と自分の立場を表出する達人であったように思います。
 そんな感慨のもと、この書をゲットしました。手に入れたのは先週末ですが、昨日ぐらいから興に任せるままにアトランダムに読んでいます。ほかの書と並行しながらです。

           

 でも、しゃかりきに読むというより、こうした読み方のほうがなんとなく鶴見さんの性分にもあっているような気がするのです。
 決して、まなじりを決するという風ではないとしても、ちゃんとした基準をもって、生涯ぶれずに、事象と対峙したという意味で、思考し行動する人だったと思うのです。ですから、こちらもそうした軌跡に気ままに寄り添いながらゆっくりと読みたいと思うのです。

 そして、そうすることが、私にできる唯一の供養だと思っています。




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