私がネットに載せるはじめての家族写真 45年ほど前のもの
彼女の過去たちを整理しなければならない。
彼女の過去たちはいま、彼女の残したモノたちのなかに、あるいは加入や取引といった関係性のなかにその残滓をとどめている。
モノたちに関しては廃棄されるもの、継承さるべきものがあるが、おそらく多くのモノたちが破棄されるであろう。その破棄は、結果として彼女の意に反することもあろうが、いまとなってはゴメンというほかはない。
むしろ、継承さるべきものがしかるべき人たちにしっかりと維持される方に力を注ぎたい。
破棄されそうなこの時期からのジャケットで、ひとつ気になったものがあったのでほとんど戯れに袖を通してみたら、なんと私にピッタシなのだ。即座に、これは私が着ると宣言してゲット、これが私への形見分けになった。
関係性の方は複雑多岐にわたる。彼女自身が仕事をし、収入があったので、それらを蓄えてきた。それらは、セキュリティという名のもとにしっかりガードされていて、その有無を、あるいは残高を確認するだけで並大抵ではない書類を要求される。
それが各機関によってまちまちなのだ。その煩雑さは、すでに済ませた役所関係より遥かに凄まじく、「官僚的」といえる。
彼女が去って幾ばくもしない間に、こんな実務的なことで飛び回りたくはない。しかし、彼女がどんな思いでそれを蓄えたかを思うと、彼女の過去たちを整理し、然るべき継承者(主として子どもたち)に手渡すためには不可欠な作業なのだ。
残されたモノや関係性の残滓には、私からみて不可解なものや理解し難いものもある。しかし、それらが、彼女が「何」ではなく、「誰」であった証なのだと思う。
どんなに合理的に生きていると思っても、さまざまなズレや逸脱、過剰や欠落があるものだ。そしてそれが「誰」の中味を作り出している。
彼女の過去たちを整理する作業は、そうした彼女の「誰」性を再確認することでもある。
こうして彼女の「誰」性は私たちのなかに生き続ける。
寂寞感のなかで、そんなこを思い巡らしている。