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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

コロナが奪った私の先達 大牧冨士夫さんのこと

2021-02-04 01:42:03 | ひとを弔う

コロナ禍をけっして対岸の火事だと思っていたわけではない。ただ、私やその周辺、知己のもとへはそう簡単に及ばないだろうと漠然と考えていた。
 しかしそれは突然、思いがけぬ結果を伴ってやってきた。
 私がリタイアーした後、参加させてもらった会や、そこから派生した同人誌で、同郷岐阜県の先達として親しくしていただいていた大牧冨士夫さん(1928-2021)に襲いかかり、その命を奪ってしまったのだ。

              
          在りし日の大牧さん 先に逝った同人のお別れの会で

 大牧さんとのお付き合いは20年弱とさほど長くはない。しかし、ある程度濃密な関係をもたせていただいた。
 最初の出会いは、名古屋での月一、最終木曜日の会合、「もくの会」であった。二人とも毎回の十数人の出席者の一員ではあったが、岐阜からの参加は大牧さんと私のみということで、その往復にご一緒することから接触の機会が多かった。

 その後、その会は解散したのだが、そのうちの有志で同人誌を発刊しようということになった。大牧さんも私のそのメンバーで、やはり月一の名古屋での編集会議に岐阜から参加した。
 当時、私は年間70本ほどの映画を観ていて、名古屋へ出た帰りはそのチャンスであった。大牧さんはよく、「今日はどんな映画を?」とお訊きになり、私の概説に興をもたれると一緒に行くとおっしゃったりした。

           

 そんな関係が、その同人誌が存続した8年間にわたって続いた。
 同人誌が最終刊を迎えたあとも、私のブログなどを通じてのお付き合いがつづき、何かとコメントを頂いたりした。

 最後の頃の接触は、なんかの拍子に、大牧さんからクラシック音楽についてのご質問があり、それにお答えしたりするうちに、その概論などをレクチャーせよということになり、広く浅い知識しかもち合わせてはいないものの、大牧さんのご要望ならと、ビッグネームの著名な作品や、私の好みのCDを持参して2,3度ご自宅を訪れたりした。

           

 昨年は、一度もお目にかかれなかった。コロナ禍のせいである。それが落ち着き、暖かくなったらまたCDを持参して・・・・などと考えていた矢先の訃報だった。
 手元に、大牧さんから頂いた年賀状がある。
 それには、大牧さんのご出身地であり、徳山ダムで水没するまでそこにお住まいがあった徳山村の懐かしい行事の模様を記録した写真が載っている。
 そして手書きで添えられているのは、「同人だったみな様はお元気なのでしょうか」とかつての同人仲間を気遣う文字が・・・・。

        
         大牧さんの故郷徳山村はこの湖底に眠っている

 大牧さんが語ったり、その自伝的三部作で知りえた ことどもを以下にまとめて、私自身の記憶にとどめようと思う。

           

■大牧さんは今では全村がダムの湖底という徳山村で生まれ育った。その模様は『ぼくの家には、むささびが棲んでいた―徳山村の記録』(編集グループSURE 以下の書も同じ)に生き生きと書かれている。
 今はなき山村の貴重な記録である。またそれを語る大牧さんの目の付け所、語り口も独特で面白い。この冊子は、大牧さんが1944年、16歳の折、最後の少年兵として村を出るところで終わっている。

           

■大牧さんは少年通信兵として新潟で敗戦を迎える。国内でしかも通信兵ということで前線からは無縁で安全だったかというとそうではない。
 戦争末期、軍は一人でも兵員を前線に送り出したかった。そのせいで、大牧さんの一期上の通信兵たちは総員300余名、フィリッピン戦線へと送られることになった。ところが、その途上、米軍の潜水艦により輸送船が撃沈され、100余名が虚しく散ることとなった。もう少し、戦争が長引けば、大牧さんの命も保証されなかったろう。
 この辺のくだりは、『あのころ、ぼくは革命を信じていた―敗戦と高度成長のあいだ』の前半に詳しい。

 敗戦後、大牧さんは通信兵の技術と関連する郵便局員となる。そこで出会ったのが労働運動である。郵便局員の組合は今はなき全逓(全逓信従業員組合)で、総評(日本労働組合総評議会)傘下でなかなか強い組合であった。
 若い大牧さんは、労働組合運動に留まるのみではなく、革命運動にまで突き進む。共産党に入党し、ソ連からの引揚者の出迎えなど戦後特有の活動に従事するうちに、なんと、1949年には郵便局を退職し、岐阜市の共産党組織の専従者になってしまうのだ。

            
      大牧さんが愛し、しばしば雅号に使っていた徳山村と福井県鏡の冠山

 しかし、現実は甘くはない。給与が出ないのだ。貯金も使い果たし、食うものも食わずの生活で健康を損なうこととなり、その年の終わりには故郷の徳山村へ帰ることとなった。
 事件はその後に起こった。岐阜市の党組織から岐阜県の党組織へ上納されるはずの金額が入金されていないことが発覚したのだ。当然、大牧さんが疑われた。
 やがて真相が明らかになった。大牧さんが毎月、その上納金を渡していた共産党の岐阜県委員会の県委員が、その金を自分のぽっぽに入れていて、ついにはまとまった金を持って失踪してしまったのだ。

 戦後しばらくの共産党は、そんな不祥事が絶えなかった。党費で芸者をあげて豪遊したなどということもあったようだ。戦後のどさくさ紛れに、「さあこれからは革命だ」と先物買い的で理念もなにもない山っ気のある連中が大きな顔をしていた。そんな奴ほど、「ソ連と言ってはならない。ソ同盟と言え」とか、「恐れ多くも『ソ同盟史』という書籍の上に何かを置くとは何ごとか」などと威張り散らし、天皇とスターリンを置き換えただけといった有様だった。

 そんななか、大牧さんは失われた学問の機会を取り戻すべく、大学への入学を果たし、さらには就職先にも恵まれ、文学運動に情熱を傾けることとなる。『岐阜文学』や『新日本文学』がその活動の舞台であった。自身の作品もあるが、後年には、中野重治とその妹・鈴子に関する研究の第一人者となる。
 なお、この頃の読書会に、当時の民社党系列の全繊同盟という反動的で会社の労務管理の下請けのような組合の監視の目をくぐり抜けて参加していた女性・フサエさんと結ばれることにより、二人は終生の連れ合いとなった。

            
               お連れ合い、フサエさんの著書

 そして1963年春、大牧夫妻はこれまでの活躍の場・岐阜を去って、教員不足に悩まされていた故郷徳山村の小学校教諭として帰郷することとなる。

■徳山村での暮らしは、もともとここで生まれ育った大牧さんにはともかく、都会育ちのフサエさんにはいろいろ大変だったようだ。しかし、二人が力を合わせてそれを乗り切る様子は、『ぼくは村の先生だった―村が徳山ダムに沈むまで』に詳しい。
 波乱の戦後を経て、故郷へ落ち着いた大牧さんだったが、その故郷は以前とは違う様相を見せ始めていた。
 戦後の高度成長から取り残された山の村は、次第に過疎化し始めていた。その衰弱を見透かすように、全村水没という例を見ないようなダム建設の話が急ピッチで進みはじめた。そして1985年、大牧夫妻の徳山での20年余の生活は、与えられた代替え地(岐阜県本巣郡北方町)への移転という形で終止符をうつことになる。

            

 私がお付き合いいただくようになったのはその後のことである。穏やかな大牧さんの風貌のもとに、波乱万丈の物語があったことを知ったのもお付き合いをはじめた後であった。大牧さんはそうした出来事をうまくご自身の栄養にされたと思う。
 一見、淡々と語るその口ぶりや文章のなかに、ハッと衝かれるものが散見できるのも、修羅場ともいえる場面をもふくめたその場数のせいであろう。
 今となっては、もっともっといろいろ聞いておけばよかったと悔やまれるが、晩年、フサエさんを交えてご自宅の縁側でクラシックに耳を傾けた記憶、それから、これはまだお互いが知り合う前だが、私もまた、水没前に数度にわたって徳山村に足を運び(渓流釣りのためだが)、大牧夫妻が見ていたであろう同じ風景を見たという自負とが大牧さんの記憶を親しいものにしている。
 ただし、悲しい思い出もある。
 ダムが完成し、貯水しはじめた折も2,3度行ったことがあるが、大牧さんの職場だった村の高台の小学校にその水が迫り、ついにはその姿を完全に覆ってしまったことである。

 徳山村は大牧さんが生涯抱き続けた原風景であり原点でもあった。その愛した故郷は今も湖の下で静かに眠っている。少々冷たいけれど、大牧さんはそこへと帰っていったのだろうか。
 そういえば、大牧さんのPCの大型ディスプレイの待ち受け画面は、在りし日の徳山村漆原(しつはら)の写真であった。大牧さんとフサエさんが、ここにはなになにがあり、この道をこちらへ行くと何があってと、二人で競い合うように、目を輝かせて説明してくれたのはつい一昨年のことだったのに・・・・。 
 
*Wiki による大牧さんの紹介は以下の通り。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A7%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%A4%AB


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