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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

水無月はじめの絵日記

2021-06-05 17:50:20 | ひとを弔う

 六月は梅雨時で水に縁の深い月なのになぜ水無月なのか、それは「無」は「なし」ではなく「の」の意味で「水無月」=「水の月」だからだという。水無月を「水月」と表記することもあるようだ。
 以下は、その月始めの絵日記。

         

 午前中、返却日のため開館を待ちかねて岐阜県図書館へ。岐阜市の非常事態宣言に伴い、ご覧のように「臨時休館」。ただし、カウンター業務はやっていて、返却と予約をしたものの貸し出しのみはやっている。
 5冊を返し、3冊を借りる。

         

 慌てて帰宅し、かんたんな食事を済ませ、姉の通夜と葬儀のため着替えて出発。
 県外はおろか、市外へ出るのも今年3月以来。

         
            

 名古屋から新幹線で三島へ。名古屋の新幹線ホームは人の姿もまばら。果たせるかな、乗車した2号車自由席は私一人のみの貸切状態。
 途中でそれぞれ一人づつ乗ってきて、三島へ着いたときには三人。私が降りて二人っきりになったが、おそらく東京まで五人は乗らなかったのではないか。
 なお、好天ではあったが、富士山は、「頭を雲の上に出し」状態。

           

 三島からは伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り伊豆仁田へ。
 電車はアニメかなんかのラッピング車両だったが、それがなんだかはわからない。
 来年の大河ドラマはこの辺ゆかり北条一族、とりわけ北条政子に縁深いとあって、駅構内や沿線に幟や旗が賑々しい。

         
         
 
 駅には私の姪のそのまた子どもが迎えに来てくれた。姪の子といっても、もう立派な成人だ。

 姉の家を外部から一望し、通夜の行われた葬儀会場へ。あまり会ったことのない親戚たちと引き合わされる。
 別のところで書いたが、姉と私は、母の病死、父の戦死に伴い、幼くして別々のところへ養子に出され、それ以後、四〇歳を過ぎるまで相互に逢うことなく過ごしてきた。だから、お互い八〇余年の生涯で、交流があったのは後半の四〇年ほどにとどまる。

         

 四〇歳過ぎに、姉が私を探し出してくれての出会いはそこそこ感動的で、それを事後に聞いたTVのディレクターからその頃流行りの「再会番組」に出ないかと誘いがあったが、もう逢ってしまったのだからといって断った。
 彼は、「それでも初めてのフリで出ればまんざら嘘ではないのだから」といっていたが、それも断った。彼の言葉から察するに、この種の番組、そうしたヤラセや仕込みがやはりあったのではないだろうか。

         

 お互い、子供の頃を知らないから、姉弟喧嘩をしたことがない。もちろん、再会してからも。そして相互の青春時代も知らない。それらはホームドラマなどで想像するしかなかった。

         

 通夜のあと、飲める者たちで姉を偲んで献杯と歓談。姪のうちの一人の連れ合いは、岩手県宮古の出身で、一〇年前の津波で身内の三人を亡くしている。そのうち、彼の弟は車の修理業をしていて、高台に逃れる余裕はあったにもかかわらず、顧客から預かっている車を避難させねばと、とりに行って津波に飲まれたという。

 夜は、姉の家でまさに姉の寝ていたベッドで休んだ。
 
 翌日の葬儀もとどこおりなく終り、三島の郊外の焼き場で焼かれ、姉は真っ白な骨となった。

         
 
 伊豆半島の付け根あたりの、ぽっこりとした山々が印象的だった。


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