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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

突然の赤カブですが・・。

2008-12-11 00:59:29 | 現代思想
 

 突然ですが、私の作った赤カブの千枚漬けです。
 二日ほどでこんなに赤くなりました。
 昆布、柚子、鷹の爪などを添えてあります。
 
 なぜそれが、ライムや柿などと一緒にいるのかは謎です。
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生まれ育つこと=新しい始まりの始まり

2008-09-24 00:28:22 | 現代思想
 猫のさんこさんが、そのブログ「さんこの日記」で、最近の幼児の殺戮事件に痛く悲嘆し、その思いを綴っています。
    
    http://blogs.yahoo.co.jp/chieko_39/archive/2008/9/22
 
 それに共感して私はコメントを寄せました。
 以下はそのコメントを幾分手直ししたものです。
 併せて、この間撮りためた子供の写真を載せてみます。 


    ===============================

 ハイデガーが「死への先駆」を説いたのに対し、ハンナ・アーレントは「生まれることの根源的重要性」を対置しました。
 「可死性」ではなく、「出生性」の強調です。
 出生性こそ新しいものの始まり、新しく始めることの始まり、従来「必然」と見なされていたことを覆す「自由」の可能性への出発だというのです。
 要するに、新生児の生誕ごとに、この世界には新しい事態やそれへの始まりがもたらされるのです。

 子供たちが生まれること、そして育つことはそうした可能性を孕んだ出来事に他なりません。子供たちの誕生と成長こそが、この世界が日々更新されることなのです。
 したがって、その芽を摘むということはあらゆる暴力のうちでももっとも根源的なものといえます。

 人間が生まれるのは死ぬためにではなく、新しいことを始めるためなのですから。

 
 

 

 

 

 

 

    


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【玉砕・2】 死してなお残るもの?

2008-08-15 02:23:45 | 現代思想
 前回、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という「玉砕」の思想により、すぐる戦争の死者が増加した事実を述べてきましました。そしてそれが、ポツダム宣言受諾に反対する東条英機らにより、本土決戦、一億総玉砕にまで拡張されて主張されていたことを述べました。
 実際のところ、その主張が実現していたら、今日の私たちはなかったわけです。

 そうした主張の根拠は、「国体」を護持するためとのことだったのですが、一億総玉砕をも辞せず「国体」を護持すべきだというこの東条英機の思想はいったいなんでしょう。すべてが死に果てた末に、なおかつ護持されるべき国体とはいったいなんでしょう?

 
          飛び立ちてキチキチバッタ自己主張
 
 ここには、ある種、超越的とも言える狂気があります。
 というのは、一般的に言って戦争とは、政治や経済の延長といわれ、その国家や民族の主張や権益が犯されるという危機に直面してそれへの対応を力でもってなそうとしたり、あるいはその主張や権益の拡大を力でもってなそうとするところに起こります。
 とりわけ、近代における戦争はそうしたエコノミーの延長に他なりません。

 しかし、東条英機の戦争は、こうしたエコノミーの論理を超越してしまっているのです。どうしてかといえば、その主張や権益の基盤である国や民族をなげうち、最後にはその消滅をも意志してしまうのですから。
 その戦争を決断した当初の目的意識すらもはるかに越えて、戦争そのものをある種のカタルシスへと、あるいはナルシスティックな領域へと至らしめているからです。曰く「聖戦」。

 
           秋や立つ路上に仰臥セミコロン

 この聖戦とは何でしょうか。エコノミーの論理を越えること(越えたと幻想すること)によって、ある種のロマン派的要素への通路が開けているようです。
 それは、戦前の日本の文学者や哲学者が西欧の論理に対抗して打ち出した「近代の超克」とも通じるものでした。また、三島由紀夫をして、「遅れてきた青年」と言わしめたものでもありました。エコノミーの論理を超えた領域での聖なる生と戦い!

 確かに、ヨーロッパ近代が推し進めてきた近代合理主義=エコノミーの論理には、いわば銭もうけのいやらしさのようなものが付きまといます。
 しかし、それを超えると公言する考え方にも常に「いびつなもの」、あるいは狂気にも似たあるパッションが混入してしまうのです。
 上に見た日本の当時の言説もそうですが、同様にそれを越えると明言したソ連でのスターリニズム、ドイツでのナチズムにおいても、それらのいびつなパッションが混入し、結果としてより大きな悲惨を生み出してきたのは歴史の教えるところです。

 
          詐欺師ではないアオサギの目の配り

 しかしながら、ここでひとつの疑いを差し挟む余地があります。
 ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を含めてですが、それらは本当に西洋の近代合理主義に抵抗する思想だったのでしょうか。
 逆に、それら「いびつなもの」こそ、西洋合理主義をある方向へと極限にまで推し進めたところに発生したものものではないかという疑念すらあるのです。

 その疑いの根拠は次の点にあります。
 要するに、世界には私たちが目にしたり経験したりすること(現象)を越えた真実があり、それこそが「真理」であり、それをこそ重んずべきだという思想の存在です。現に私たちがあるあり方は間違いなのであり、それを越えた真理へと至るべきだというのです。
 現象を越えた真理が存在し、それに殉ずべきだという思想は、いささか単純化していえば、プラトンを嚆矢として、延々、西洋の理念を形作ってきた核心にあったものではないでしょうか(これはキリスト教とも関連するのですが、煩雑を避けるためそれには触れません)。

 この考え方のある極限こそが、ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を規定していたのではないかと思われるのです。唯一の真理、唯一の正義、それに裏打ちされた共同体への憧憬。

 ナチズムもスターリニズムも、そして日本の軍国主義も、真理や正義はわが方にあることを信じて疑いませんでした。そして、そのためには、相手を殺しても、自分が死んでもかまわないとしたのです。
 だからこそ、一億総玉砕という信じられない方針が出てくるのです。要するに、一億の民が死のうが真理や正義は残るということです。
 現象(具体的にこうであること)を越えた真理や正義が残るというのです。
 しかし、人が死に絶えても残る真理や正義とは何でしょうか?

    
            わが庵は栄枯を映す城の堀

 私たちは、そのカリカチュア(戯画化)をいろいろなところで見出します。
 例えば、ある意味でちょっと心痛むのですが、連合赤軍の事件もそうでした。そのもっと戯画化したものとしてオウム真理教事件を挙げてもいいでしょう。
 一見、西洋合理主義を批判したと称するものが、その実、その拡大再生産か、あるいはカリカチュアライズでしかないことは肝に銘じておくべきでしょう。

 そういえば、最近の無差別殺人の背景にある、自分の「本当の」居場所が見いだせない、従って、そうした状況を作り出している周辺や世の中に復讐し、それによって自分が死刑などの刑に処せられても致し方ない、という考え方も、一億総玉砕の思考に似ているかも知れません。

 そうしたいびつさが、西洋合理主義の必然的に行き着く先だとはいいませんが、少なくともその反対物ではなく、むしろその鬼子であるように思われるのです。
 そうだとすれば、その正嫡子は、今日のレッセフェール(自由放任=やりたいようにおやりなさい。ただし自己責任でね)に基づく新自由主義の世界なのでしょうか。しかし、それが格差社会という新たな閉塞を生み出すものであることは今日つとに語られているところです。
 
 一億総玉砕という閉塞、あるいは一見、寛容な包摂のなかにあるかにみえながら、その実、厳しい排除が見え隠れする格差社会という閉塞、これらのみが、私たちに与えられた自然なありようなのでしょうか?

 
         なんじゃいと言われひねもす立ちつくす
 
 私はもちろん、それに答える術を持ち合わせてはいまません。 
 また、むやみやたらの希望も持ちませんが、絶望もしません。

 何はともあれ、一億総玉砕という六三年前の危機を脱して生き延びてきたのですから、この命を正義や真理の犠牲になど供することなく、周りを見続け、考え続けてゆきたいと思うのです。

 もう一度いいます。
 もし、六三年前のあの一億総玉砕の東条英機の上奏が採用され、戦争が継続されていたならば、ちょうどその年の今日(8月15日)辺りから、原爆をはじめとする重火器による本土焦土化作戦は一段と激しさを増し、日本中を焼き尽くすまで継続されたことでしょう。

 その場合には、私はもちろん永らえることはなかったでしょうし、そして、何をじじいが寝ぼけたことを書いているかと思いながらこれを読んでいるあなた、あなたもこの世に存在してはいないはずなのですよ。









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「理性」の裏には「狂気」が張り付いている

2008-01-05 04:54:17 | 現代思想
 これは、私が昨年末書いた、『実録・連合赤軍』(若松孝二監督)に呼応するように寄せられた、私より二世代ほど若い人の文章への応答です。
 彼女の許可を取っていませんので、全文の掲載は致しません。
  
 

>○○こさん
 お書きになったタイトルに「狂信」とありましたので、「ン?」と思ったのですが、終わりの三行を読んで、安心(?)致しました。

そんでも、これを、この状態を「狂気」と呼ぶのは危ない。「狂気」と呼んで自分から遠ざけるのは危ない。
これは、この状態は、多分人がみんな持ちあわせているものなんだろうなあ。」


 そうなのです。あれを「狂気」として遠ざけることは出来ないのです。
 なぜなら、あの閉塞された状況下で「狂気」とも思えるような形で起こる出来事は、より大きな視野から見れば、狂気の反対物とも思える近代「理性」の裏にべったり張り付いているものなのです。

 近代理性は、意志の力により、事態を正しい方向へと動かそうとします。たとえば歴史のゆがみを正そうとします。その時、彼らの中には、歴史はこうした方向へ向かって進むべきだという「大きな物語」がはっきりと形をなしています。もちろん、自分はその側にいる、つまり、真理や正義は自分の側にあるという確信を持っているわけです。

 従って、その真理や正義に忠実であろうと突き詰めれば突き詰めるほど、その「理性」は、反対物である「狂気」に似てきます。
 例えば、ナチズムやスターリニズムは、今や単純に悪の体制であったとして片付けられていますが、あれとても、19世紀末の初期資本主義の野蛮な体制、そしてはじめての近代戦であった第一次世界大戦の悲惨な結果に対する理性の側からの応答であったわけです。少なくとも、その初期における動機については。
 しかし、それが、数百万を越える野蛮で狂気ともいうべき殺戮へと至ったことは歴史の示すところです。

 日本の戦時中の様相もそうです。19世紀末以来の悲惨を、西洋文明の限界(これはある意味で正しい)と捉え、日本を中心とした大東和共栄圏を築こうという「理性」的な試みとして、近隣諸国への侵略は開始されました。
 それが南京大虐殺や、沖縄の民間人への自決の強要という悲惨に至ったことは周知の通りです。
 国内で戦争に反対する人たちは、憲兵隊へ連行され、「大和魂を注入してやる」という名目でリンチを受け(連赤と一緒です)、裁判もなく多くの人が死亡しました。

 女性たちも負けてはいませんでした。「大日本愛国婦人会」のたすきを掛けたおばさんたちは、化粧の濃い女性やパーマをかけた女性を発見し次第、「非国民」とののしり、顔に鍋墨を塗ったり、ハサミで頭髪を切ったりしました。

 これらはすべて、歴史が進むべき道に忠実であらんとした真面目な「理性」の名において行われました。戦争に反対したり、戦時体制に従わないものの方が「狂気」だったのです。

 連赤の事件は、少数の限られた範囲でのできごとでしたから、「狂気」で片付けられてしまいますが、同じ次元のできごとが、ベトナムでもカンボジアでもハンガリーやチェコでもあり、そして今日でもアフガンやイラクで起こっていることなのです。それぞれが「理性」の名において。

 こんなたいそうな世界史的事件を持ち出すまでもなく、私たちは常に、虐めや差別、相手の抹殺という加害者たり得る局面に晒されています。「理性」という名の「狂気」において。

 若松監督の意図は、二つあったように思います。
 ひとつは、巷間、興味本位に描かれていた事態を歴史的文脈にちゃんと置いてみること(これはタイトルに付された「実録」にあらわれています)、そしてもう一つは、狂気としてそれを忌避するのではなく、人間のありようとして直視せよと言うことではないかと思うのです。

 評論家風に生意気なことを書いていますが、私自身そうした「理性」=「狂気」のうちにあったことがあり、あの映画を「作品」として距離を置いて評価するとは出来ないのです。
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「時間の脱臼( out of joint)」とハムレット

2007-12-21 18:16:02 | 現代思想
 父王の亡霊からその無念を聞いたハムレットは言った。
 The time is out of joint! (時間は脱臼している!)
 
 そう、時間は、そして歴史は、世界は脱臼し、もはや正接していないのだ。

 しかし、次の瞬間、ハムレットは自己の運命を呪う。
 That ever,I was born to set it right!
(何の因果か、私はそれを正すべく生まれてきたのだ)

 

 出来ることなら、もっと平和に生きたいではないか。
 時間の脱臼を正す立場などに立ちたくないではないか。

 しかし、父王の亡霊がまさしく語るごとく、既に罪は犯されてしまっているのだ。
 そしてハムレットは、そして私たちも(と急いで付け加えよう)、そこへと立ち会ってしまっているのだ。
 それを正す(set it right)にしろ、そうでないにしろ、その状況に対応=応答(response)すべく生まれついてしまったのだ。

 

 だからそれは、To be, or not to be,that is a question !(在るべきか、在らざるべきか、それが問題だ!)という根本的な問として自らにリバウンドする。

 ハムレットの横に私たちも滑り込ませておいた。
 これは遠い昔の若者の個的な体験というにはあまりにも重く普遍的だからである。
 私たちもまた、既に常に、罪が犯されてしまった時間、歴史、世界(out of joint)のうちに生きている(was born)。

 キリスト者なら、これを原罪というかも知れない。しかし、そこに、宗教への道ともう一方の、どうしようもなくリアルなものとの関わりの分岐がある。
 つまり、悔い改めて、全体性の内へと回帰すればいいという道とは異なる応答が求められているのだ。
 おそらくそれは、to be あるいは not to be のどちらかへ吸収されて終わるのではない、その間の or のうちにあるのではあるまいか。これは、言い換えるならば、弁証法の片割れに屈して終わらないということでもある。

 

 時間は、歴史は、世界は、常に既に脱臼している。
 その脱臼を顕わにした一人にマルクスがいる。
 彼は、新しい脱臼を用意した容疑もかけられているのだが、その弟子を自称する連中の所業にもかかわらず、現実のこの世界の脱臼をあからさまにしたのも彼であった

 だから私たちは二重の意味で To be, or not to be のうちにある。
 既に犯された罪、脱臼している歴史の目撃者として、さらにはその処方を描いた思想家が今なお残している波紋への応答者として・・。

 

 この、or を挟んだヤジロベイのような地点から、out of joint を見据え、ちゃんと向き合って行くこと、それが歴史を生きるということではないだろうか。

 若い日々、私の頭の中で響き続けていたものこそ、実は「The time is out of joint! 」という言葉だったのだと今にして思う。その時以来、私は無念のうちに逝った父王の言葉を聞き続けてきたのだ


*以上は、J・デリダの『マルクスの亡霊たち』を読み始め、その序章に触発されて書いたものです。






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「違いを認めよう」というけれど・・。

2007-07-26 01:43:23 | 現代思想
 前回は、「人間みな一緒。人類は兄弟」という麗しいいい方が、容易に、「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」ということになることを見てきました(詳しくは昨日の日記を参照してください)。


 

 それでは、「人はそれぞれ違っているし、それを認めよう」といういい方はどうでしょう。
 ここには二つの問題があります。
 ひとつは、前回見たように、その違いが「兄弟内部での違いではない」、要するに人類の外であると判断された時には、決して容認されないということです。
 その辺は前回見ましたから、もうひとつの問題を見てみましょう。

 


 それは、もし、「このそれぞれの違いがみんな等しく認められる」とすると、私達は判断不能に陥るということです。
 いろいろな違いが等しく認められるということは麗しいことであるかのようですが、そうすると、私達は、現実に当面している問題を解決不能なままうち捨てることになってしまうのです。

 というのは、どんな社会でも、それぞれの問題を抱えています。そしてその問題を形作っている主要な違い、あるいは矛盾というものがあります。それらの違いをその他もろもろの違い同様放置するとしたら、私達はあらゆる問題を解決する糸口を失うこととなってしまうのです。

 

 確かに、中には取るに足りなかったり、どうでもよかったり、あるいは重要度が低い違いもあるでしょう。あるいは、お互い譲り合ってでも承認しなければならない違いもあるでしょう。

 しかし、今、私達の国で問題になっている格差や、ワーキングプアーの問題、あるいは憲法をどうするのかといった問題を、さまざまな違い一般に解消してしまうなら、それらの問題に対する判断は不能になり、その解決はうち捨てられることになるでしょう。

 どんな社会、どんな時代にあっても、その折々の主要な問題があるはずです。むろん、どの問題が主要であるかの判定自身に関し、それぞれ判断が違うことはあるでしょう。

 例えばそれを、人間の悲惨さを少しでも減少するという点に置くとしましょう。それらは、飢え、貧困、健康、人権、戦争などの問題と関連するでしょう。
 そしてそのそれぞれには、その解決のために取り上げねばならない主要な違いや矛盾があるはずです。

 
 
 いってみれば、「違いがあってもいいんだね」で通り過ぎることのできない問題、その違いを克服することなく、人間の悲惨を解消できない問題があるはずなのです。むろんこれは、あらゆる違いを認めない全体主義とは違い、その折りの主要な問題の解決に限定される違いの解消のための行為です。
 
 こうして、「人間はみんな違うし、それがあってもいいんだね」は、反面、本当に解決しなければならない問題がはらむ違いを放置し、その解決を棚上げすることになりかねない場合があるのです。

 
 

 二回にわたって見てきた美しい言葉、「人類は兄弟」、「違いがあってもいいんだね」は、確かに否定しがたいように見えます。
 しかし、ほとんどの人がそれを肯定するにもかかわらず、人は殺し合い、違いはある限度までしか認められず、あるいは、本当に問題にしなければならない違いは、もろもろの違いの中に隠されてしまうということが現に起こっています。

 これらの言葉を安易に用いることがはらむ問題と、それをお題目として唱えることの無効性を考えてみる必要があるように思うのです。







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「人類は兄弟」でしょうか?

2007-07-25 03:30:18 | 現代思想
 「人間みな一緒。人類は兄弟」といいますね。
 で、一方では「人間はみなそれぞれ違う。それでいいのだ」ともいいますね。

 この一見論理的に矛盾しているようなことは、日常的に並行してよく言われます。しかし、それが矛盾している、などと目に角立てようというのではありません。

 
 問題は、この、誰でも頷くようなことが、そして事実、誰でも頷いているにもかかわらず、実際には、人間はみな同じに扱われることなく、場合によっては、戦争などで殺し合ったりもしていることです。また、その宗教や政治体制、風俗習慣の違いなど「それぞれの違い」が認められることなく、やはり、殺し合いになったりしています。
 
 要するに一見、誰もが、面と向かっては否定しがたいこうしたもの言いが、じつは全く無効であるということです。なぜなんでしょうか。

 

 まず「人間みな一緒、人類は兄弟」といういい方ですが、ここにはある亀裂が隠されています
 「人類=兄弟」を逆にしてみるとよく分かります。
 「兄弟=人類」、つまり、兄弟は人類だが、兄弟ではないものは人類ではないのです。
 これは言葉の遊びではありません。

 例えば、キリスト教原理主義と結びついたアメリカのネオコンなどの考え方では、パックス・アメリカーナに根ざすグローバリゼーションに反対する連中は「兄弟ではない」人類の敵であり、これは武力でもって制圧したり、殺してもかまわないということになっています。
 だから、アフガンやイラクへの侵攻が合理化されます。

 

 もともと、キリスト教は、「人類はみな兄弟であるはずだ」という立場に立ち、それを理解しない異教徒は兄弟の外として十字軍を派遣した歴史を持っていますが、キリスト教原理主義者は、この現代版といっていいでしょう(すべてのキリスト教並びに教徒が今日そうであるといっているのではありません)。

 こうした背景下、アフガンやイラクでの捕虜が、グアンタナモ基地などで、人類以下の扱いを受けていることは周知の通りです。

    

 少し歴史を遡ると、ナチズムもそうでした。
 その第三帝国の構想によれば、ユダヤ人は兄弟たり得ない人類の敵であり、これを殲滅することこそが兄弟愛に満ちた新しい帝国の実現だとしました。まさに、「人類は兄弟」という帝国を完成させるためにこそ、「人類の外」である数百万のユダヤ人は殺されたのです。

 かつての日本も例外ではありません。
 私の幼少時、「鬼畜米英」は、日常的なスローガンででした。彼等米英は人類ではなく、まさに「鬼畜」なのであり、彼等を一人でも多く殺すことが国民の使命でした。

 


 こうして、「人類=兄弟」といういい方の中には、「兄弟でないものは人類ではない」という命題が隠されています。これが、誰しも否定しないような美しいスローガンにもかかわらず、人が殺され、差別され続けている理由です。
 要するに、都合のよいときには、相手を「兄弟ではない」として「人類」の枠から外すことが出来るのです。
 「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」というわけです。

 では、その反対であるような、「人間はそれぞれ違っていていいのだ」といういい方はどうなのかについて、次回は考えてみます。

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「近未来」<通信>ではなく現実として・・。

2006-12-12 17:46:57 | 現代思想
 かつて、というのは私の若い頃だが、近未来小説のバイブルといったら、ジョージ・オーウェルの『1984年』であった。
 そこでは、当時のソ連など一般に全体主義国家をさらに徹底したようなディス・ユートピアが描かれ、行動の自由はむろん、内面の思想などまでが、ハイテクを駆使した監視下にある状況が描かれている。
 もちろん一党独裁管理の社会だが、その社会のスローガンは、
   1)戦争は平和
   2)自由は屈従
   3)無知こそ力
 というものである。

 ところで、この小説、私の若い頃はほとんど必読書扱いであったが、最近はあまり読まれていないようだ。
 その要因は、「1984年」が実際に過ぎ去ってしまったこと、さらにはその後数年をしてソ連圏などの一党独裁支配の国の大半が姿を消したことにあると言えよう。


 
 しかしそれは、そうした時間的・歴史的変遷にとどまらず、オーウェルのこの小説の射程距離の限界をも示すものではないだろうか。
 その限界を私は以下のように考える。
 
 1)そこで描かれた管理社会を、例えば狭義のスターリニズムのようなものに限定し、いわゆる民主制の回復によって問題が解消しうるかのように考えたこと(だから、単純な反共小説として迎えられた側面をも持つ)。

 2)それをある特殊な閉塞された社会の病理として描き出したが、実は科学技術の発展に内在するさらに普遍的な問題でもあるという側面を描ききっていないこと。

 3)従って、そこでの状況は、ある種の狂気による病いとして描かれているが、反面、理性という名の狂気という病いでもあり、それは体制の如何に関わらず今日も継続しつつある問題ではないかということ。


 以下は、最近読んだ本からの抜粋であるが、それは、あとから種明かしするように、哲学や社会科学のようないわゆる硬派の本ではなく、エンターティメント性のある小説である。
 
 「20世紀の夢はついえ去った。共同体は啓蒙された市民が自発的に集まってくる場所だという考えは永久に葬り去られたんだ」
 
 「われわれは・・・・ほとんど、あらゆる形の市民参加を放棄して、社会の経営を一握りの政治技術者に任せて満足している。・・・共同体的価値を尊重するような口ぶりをしているが、実際はひとりでいたいんだ」

 「隅々まで正気が支配する社会では、狂気が唯一の自由なんだ」

 「ファシズムとは、根深い無意識の要求を満たす>仮想的な精神異常正常であることが危険な世界に突入したんだぜ」

 「人間の魂にすらバーコードが印刷されているんだ」

 既に述べたが、この小説は、何ら思想的な問題を正面に掲げたものではなく、いわゆるミステリー小説なのである。そして、以上の台詞は、この小説の主人公、いわゆるヒーローのものではなく、その犯人と目される人物のものなのだ。

 前にも述べたように、私は幾分堅いものを読んだりした後、固まった頭へのご褒美としてミステリーを読む。それもトランダムで、上記のものも、図書館で題名を観て、映画が絡んだものかなと思って借りてきたに過ぎない。



 作者は、英国のJ・G・バラードで、小説の題名は『スーパー・カンヌ』(2000年・新潮社刊)。もともとは、SF作家らしいが、この小説についてはミステリーサスペンス風である。
 実は、この前に同じ作家の『コカイン・ナイト』を読んだのだが、これもミステリー風であった。

 さて、先に引用した台詞を思い起こしていただきたい。
 私はそこに、オーウェルの『1984年』の続編を、そして、さらに一層拡大された現代という病いを読みとるのだ。
 小説のことだから、あまり詳しくは述べないが、その舞台は、カンヌ近くのシリコンバレーを思わせる先端企業や研究所の集まった理想都市、「エデン=オランピア」である。人々は、そこでありとあらゆるものを与えられ、自由に研究や事業にいそしむことが出来る。ところが・・。

 私たちは今、20世紀の経験に懲りたのか、自分たちを投企すべき近未来に関する思考やイメージを棚上げしたままで生きている。そして、生産と消費という枠の中でしかその知力を働かせようともしない。

 一方ではそれは、科学技術のめざましい発展に裏打ちされてもいる。私たちの未来は、その発展により無限に開かれているのであり、その運用の効率と享受、つまり、生産と消費のみが課題なのである。
 
 生産と消費とは確かに人間的な行為ではあるが、同時に、限りなく動物的なものとの接点でもある。そこにはプリミティヴな意味での生が張り付いていて、その維持と延命が課題となる。
 それは、私たちの個人においてそうであるばかりでなく、政治全体がその生の管理に関わる「狭義の政治」に限定されてしまっているということである。これは、かつてハンナ・アレントが説き、ミッシェル・フーコーが幾分別の切り口で語り、今日、ジョルジョ・アガンベンが展開しつつあるところであるが、その詳論はおく。

     
 
 その意味では、「歴史は終焉」したのであり、ある種の「ポストモダン」状況の到来とも言えるのであろう。

 ギリシャ時代のポリスにおいての「活動」としての政治(それは奴隷労働や女性の家事労働というエコノミーに支えられていたという問題を孕んでいるのだが)や、生産と消費にとどまらない、自分たちのありようの近未来への投企としての政治といういわゆる「広義の政治」は、もはやほとんど問題たり得ない。
 それを敢えて言い立てるのは「ダサイ」ことなのだ。

 こうして私たちは、その魂にもバーコードを貼り付けて、生きていくのだろうか。
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